私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

2020-01-01から1年間の記事一覧

事務機器の変遷とともに働いて

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 一九七二年(昭和四十七年)に大学を卒業。当時、女性の仕事は事務職中心でした。 就職活動の中で就職部主催の講習会でタイプライターに出会いました。それまでは部活の中でガリ版で原稿を切って謄写版で刷っていたので…

留学生たちに振袖を着せてあげたい!

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 2002年1月12日、52歳になってすぐの頃「留学生振袖の会」がスタートした日でした。この会は、来年、コロナ禍がなければ、2021年で20回目となる予定でした。 その2年前、娘が通う桃山学院大学の学園祭、保護者の会の活動…

人生の最終章の書き出しはニューヨークより愛を込めて~マンハッタンのアパートで

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 2015年10月25日~11月2日65歳の秋 その頃、岸見一郎さんの「嫌われる勇気」でちょっとしたアドラー心理学がブームになっていました。だからというわけではありませんが、折しも、京都のお寺でディープな心理学を学び、…

誰かが叱ってくれるのを待っていた?

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 二〇一六年、五十六歳の冬が始まるころ シニア大学の同窓会、といっても、九月に卒業したところ。なのに、もうみんなお互いに逢いたくなっていた。私が幹事をして名残の紅葉の京都を訪ね、美味しい和食の店で楽しんだ。…

僕も非正規きみも非正規

非正規歌人と言われた萩原慎一郎の歌集「滑走路」を読んで涙が止まらなかった。 キャリアカウンセラーの日々での苦い思い出が甦る。 「僕も非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる」「非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているの…

大阪の商売人の娘やねんから

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 1972年9月倉敷の美観地区父と22歳の私が写っているレアな写真。 まず私がミニスカートであること。ヘアスタイルが珍しく短いこと。父と二人で写っている。ことなどがレアな理由である。 大体、父と二人でお出かけが…

生まれて初めての一人旅はバイクで黄金道路を走ることで始まった。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 1971年7月、21歳、大学4回生の夏休み 北海道旅行、襟裳岬にて灯台をバックにパチリ!カメラマンとは3バカYHと言われた人気の宿、襟裳YHで出会った。栃木のバイクで日本縦断中で、同じ日生まれの男子学生だった。 …

浅くない縁を喜び会おう

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 1974年10月1日、24歳福井県勝山市の父の生家の前で父方のいとこたちとの集合写真です。 世界中でたった1枚の最初で最後の写真となりました。 祖父の喜寿のお祝いに私は着物で正装しているし家の玄関には紅白の幕を…

黄は喜なり、空は藍いろ、生きねばならず

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 2004年(平成16年)54歳の3月のこと 世間ではヨン様ブーム・・・ 一瞬はまりそうになりましたが それどころではない自分がいました。 その頃、母は特別養護老人施設で暮らしていました。言いたいことがたくさんある…

ずっと待っていたよ~!生まれてきてくれてありがとう

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 2015年6月20日、63歳 この頃は、大学生への就職支援が仕事の中心になっていました。リーマンショック以前の高水準に戻している状況の中で仕事もしやすくラグビーワールドカップでの五郎丸のポーズが話題になったり…

桃と入院と涙と花火

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 1960年(昭和35年)10歳。 私は、夏休みの始まる前日に救急車で大阪市立桃山病院に運ばれて隔離病棟にいた。そして、夏休みの終わる前日に退院した。病名は細菌性疫痢。疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型短…

かわいい子には旅を!

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 2003年(平成15年)53歳 桜が開花したというニュースを聞いて高知にいくことに。竜馬の足跡とよさこい踊りも観たいよね・・・。 当時大学4年の22歳、落ち込んでいる娘の感傷旅行に。春のお彼岸に青春18きっぷで家を…

出版大作戦でサードライフが走り出した。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 2018年(平成30年)11月、令和前年のこと所属している協会の大会という目的で上京に合わせて埼玉県の小川町にある国立女性会館ヌェックでの出版作戦合宿しました。 自撮りで撮ったのはにわきみこさん、はにたんと私…

大丈夫よ~と、あの頃の私に言ってあげたい。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 1979年(平成54年)5月、29歳近所の公園で2歳の長男と私たぶん、父親が撮影かと思う?とても機嫌が悪い。その頃は、人見知りが激しく月に20日以上出張していて月に一日ぐらいしか目にしない父親に対して人見知りして…

リベンジの山、宮之浦岳

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 2011年(平成23年)5月屋久島宮之浦岳 (標高1936m)の頂上にいます。 登山ガイドさんに宿からひらってもらったのが3時半で真っ暗でした。ようやく明るみ始めた淀川登山口を5時前に出発して頂上に着いたのが11時過ぎ…

いつも仕事はご褒美だった

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 2013年(平成25年)11月和歌山県の障がい者職業訓練の就職支援の講座を担当していました。 駅前から続く欅の並木を30分歩くとその教室はありました。いち早く黄葉する欅並木の下を歩くのが好きでした。 和歌山までJR…

富士山八合目、ここまで登ったのよ~。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 2013年8月25日、63歳の夜明け富士山の八合目の小屋の前からご来光を仰ぐ。 ご一緒したのは、73歳の中学校の恩師とその娘さんご夫妻。並んで、ご来光を仰ぎました。予定ではご来光は頂上から仰ぐことにしていました。 富…

同窓会のビールは苦い後悔の味・・・

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 1998年(平成10年)4月19日の卒業30周年の同窓会(於:天王寺都ホテル本館)写真は天王寺の居酒屋で 3年1組の仲間だけが残って流れた3次会。 当時は48歳、阪神淡路大震災の3年後、同級生の身にもいろいろ起こっていた。 …

タラのテーマ・・・「風と共去りぬ」

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 1942年、17歳の春間近かの頃天王寺のアポロ座というステーションビルの地下の映画館憧れの先輩との初めての映画館でデート。 記憶にある私たちは高校の制服だったということはどうやら、試験の終わった日とかで午前中で…

過疎の郷・・・「最後までお守りしはったんやね・・・」

100人と書く「一枚の自分史」 2018年12月 福井県勝山市、恐竜博物館のすぐ下にある母の里への悲しい訪問でした。その年の2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。雪が着く前にと3ヶ月も早くに一周忌の法事が営まれました。 父の里は、母の里からま…

「また来るから~」最果ての利尻・礼文島を訪ねて・・・一枚の自分史

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 1971年、学生最後の夏休み。6月末に、前期の最後の授業をさぼってフライングして北海道旅行をした。 すっかり、北海道の大自然と人の優しさに触れて虜になった。 その中でも、強く印象に残っているのが最果ての利尻…

一枚の自分史 「母と娘の涸沢の山旅2009」

「はじめよう!自分史生活」講座 一枚の写真から作る自分史の ワークショップに行ってきました。 講師の河出さんは 日本古典文学全集や日本文学全集と 学生時代にお世話になった河出書房の なんと! 四代目河出岩夫さんでした。 その一篇の日本の現代文学史…

わたしの幼少時の自分史がここにもあった。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト 自分史でできることは何だろう? 今日のしつもんZEN瞑想から 忘れていること。忘れたいから忘れたのか?思い出したのなら何か意味があって、そういうタイミングだったのだろう。 瞑想に入って「自分史で何ができるのか…

親を送ったように

大抵は人は親を送ったように子どもから送られる。 必ずではありませんが… 因果応報世代間連鎖… 子どもたちは見ています。親をどう送ったかを…。 私には、母の思うようには送ってあげられなかったという悔いがあります。しかも、しばらくは、そのことをずっと…

老にして学べば、死して朽ちず。

自分史において40代までは ずっと誰かの子どもであったり 誰かの母であり、妻であり 会社では総務人事の人だった。 なかなか自分だけの為には生きられなかった・・。 2003年5月のWEB日記には 50歳になって人生においてやりたかったことのやり残しがたくさん…

母へのラストレター

2004年8月2日の日記から 11時に告別式は始まった。月初めの月曜日ということでお越しいただける方は極少ないだろうと予想した通りでした。 でも、母さん、かえって、身内ばかりで心おきなく別れを告げることができましたよね。 お寺のご住職から自分たちの告…

子どものときの記憶ってどのあたりまでが本物なんだろう。

子供のときの記憶って、どの辺りまでが本物なんだろう。「子供って、何をしでかすかわからないね」幼い頃、まだよちよち歩きだった娘がおにいちゃんの風邪の水薬を全部飲んでしまったその時のことを騒ぎの張本人が話し始めた。そういえば、そんなことがあっ…

恩人たちにはどんな感謝を送ればいいのだろう。

人との出会いが人生の危機的な状態から救ってくれていたという気付きがありました。 ボランティアを通じて50代に入るその直前に出会った三人でした。私たちは二日おきにこの世に生まれました。 時を同じくして生まれても子ども時代を近い場所でよく似た環境…

想い出の母の刺し子の着物

18年前の8月の暑い盛り「優子の着物縫ったから届けに来たよ」昼休みに母が職場までやってきました。その時のこと、昨日のように覚えています。 何も、こんな暑い時に持ってこなくてもいいのに・・・昼休みではゆっくり話す暇もないやん。 しかも、袷やし・・…

母とマナーと私

何故、マナーなのか? 母がきっかけでした。父が68歳で亡くった後、母は天下茶屋で70歳を超えても、一人で元気に暮らしていました。 ある日「福井県の大野の作法の家元のところに通って、師範の看板もらってくるから、二つ入っている生命保険を一つ解約…