私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

生まれて初めての一人旅はバイクで黄金道路を走ることで始まった。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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1971年7月、21歳、大学4回生の夏休み

北海道旅行、襟裳岬にて灯台をバックにパチリ!
カメラマンとは3バカYHと言われた人気の宿、襟裳YHで出会った。
栃木のバイクで日本縦断中で、同じ日生まれの男子学生だった。

この上気した表情の原因は・・・。

北海道旅行は、部活の友人との二人旅計画。
大阪を寝台特急日本海で発った。

同じ部活の仲間の男子学生が
「就職が決まったから、オイラも連れてけ~」
青函連絡船を降りると待っていた。

そこから、しばらくは三人旅。
すぐに、かわいい女の子と仲良くなったオイラは
そちらに連いていってしまう。
旅の途中に何回かは現れるが、またすぐにどこかに行ってしまう。

札幌から西海岸を北上して、道東、道央へと
旅も後半を過ぎて襟裳に達していた。

私たちは友人とはいえ、普段はつかず離れずの関係だった。
それが旅にはちょうどよかった。
お互いにそれぞれの楽しみを優先しながら
伴に旅を続けたることができていたと今なら思える。

彼女に内定が出て、帰還命令が出てしまう。
旅を切り上げて帰阪することになった。

JR(その頃は国鉄)に向かうバスの人となるのを見送った。

岬に行くバスは1時間以上ない。
バス停の下に一人で座り込んだら
襲ってくるのは
私に内定はなかった、将来が見えずに迷っていた。
いやでも焦りだった。
しかも生まれて初めて一人旅になる不安だった。

ポツンと一人いる私はよほど心細い顔をしていたのだろう・・・。

髪はぼうぼう、無精ひげの天使から救いの手が伸ばされた。

バイクが停まって声をかけられた。

「乗る?」
「ウン!」

同じ日に同じ星の元に生まれた男子のバイクの後ろで
黄金道路を風を切って走った。
風がピューって鳴ってた。
バイクのモーター音、大地からの震動!
ほのかな体温・・・。
土産物屋から
「えりもの~春はぁ~あ、何もない春です~♪」
森進一の歌が流れてきていた。
夢のような時間だった。

私の中で何かが弾けた!

一人が怖くなくなった。
そこからの生涯初めての一人旅は最高の旅だった。

でも、よいこは決してマネしないでください。
怖いから、孫っこにはお勧めしない!
どんな怖い人か分からないから乗っちゃダメ!

いい時代だった。
女子二人、お金がないから、どこでも歩いた。
北海道は広大過ぎて歩くのは大変だった。
どれだけ、多くの人に助けてもらったかしれない。

野付半島で車に乗せて家で食事までさせてもらったこともあった。
熱を出した積丹半島でもお世話になった。

で、このお話をすると
皆さん、それで彼とはどうなったの?
何を期待しているのでしょうね・・・。

彼は日本縦断の旅の途上
九州を回って折り返して8月の終わりに大阪に寄った。
大阪城を案内して、お好み焼きをごちそうした。
美味しそうに食べる姿に違和感を感じていた。
私は、その頃にはすでに旅のマジックから解けていた。

北海道でギリギリの貧乏旅から帰って、すべて使い果たしていた。
大学は、安保闘争に引き続き、学費値上げ闘争でロックアウトされていたのをいいことに、アルバイトに明け暮れる日々だった。

台風が直撃する和歌山に向かうという。
とんでもないからと、両親が言って、我が家に泊めることになった。

早朝からのアルバイトに疲れていた私は早々と就寝しても
親たちは、彼が気に行ったらしく遅くまで相手していたらしい。

次の朝も、早朝のアルバイトに出掛けたので、母が朝食を食べさせて見送ってくれた。

しばらくして、彼の親から親あてにミカン箱いっぱいのかんぴょうが届いた。
どうするのこんなに…という量だった。

彼はエリートサラリーマンの道を歩んだらしい?
いや、そう思い込んだのかもしれない。

ということで、ご期待に添えることは何もなかった。

旅人同士の一期一会で終わった。

そう・・・
あれからも多くの出会いがあって、多くの別れがあった。
これからも、どんな出会いがあるのだろう・・・。
今、ここを大切にして生きたいと思う。

このお話からファンタジーロマンが書けたら徒然に書いてみようか
なかったことも創作なら可能だから・・・。

黄金道路を走る夢を見たいな…、あの日の自分に還って・・・。

あんな面白い一人旅はもう二度とできない・・・。