私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

ほろ苦い味のはじめての海外旅行・・・シンガポール、マレーシア

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1996年3月、46歳の春。
新入社員研修が終わった。
公立高校受験に落ちた娘を一人家に置いていた。
心がキリキリと痛むきつい仕事だった。
会社は遅れてきたバブルでいつもの倍ぐらいの新入社員を抱えていたのです。

研修が終わって配属したその日の夜に関空から発つシンガポール、マレーシアのツアーに駆け込みで申し込んだ。
関空が開港して、週末前日にギリギリまで仕事をして夜から出発するアジアへのツアーがたくさん出ていました。しかも円高のおかげでかなり格安だったのです。

娘は私立の女子高に行くことになりましたが、後々、そちらの方に多くのご縁があったことが分かりますが、この時点では15歳の挫折は相応なものだったでしょう。一緒に居てやれなかったことへのつぐないと、気持ちを切り替えて次に進ませるための旅でもありました。そして、私にとっても赦しと切り替えの旅となりました。

マレーシア、バトウ洞窟で同じツアーに参加していた青年も一緒に写っています。

彼は、京都の八幡市から商業高校で商業の先生をされているおじいさまと参加していました。おじいさまはホテルに着くと、盛沢山に用意されたスケジュールをこなすのに草臥れて早々と就寝してしまう。その後は、いつも遅くまで私たちの部屋に来て遊んでいました。

「あの子もかわいそうでなぁ・・・」
 おじいさまがこんなふうにお孫さんのことを話してくださいました。
昨年の阪神淡路大震災の折に、某大学の地震の研究者だった父親が、震災後の過労で亡くなり、そのショックで孫は昨年、受験に失敗した。浪人をしてこの春再挑戦したが、志望校には落ちて第2志望の大学の原子力学科へ進学することになった。なんとか、気持ちを切り替えさせてやりたくて連れてきた。と・・・

なんという巡りあわせだろう。
それで、あんなに初めて会ったというのに、他にも同じ年頃の参加者もいたのに、私たちだったのだろう。
まさに類似性の法則まるできょうだいのように心を許している姿が目に浮かびます。

シンガポールマーライオンはミーハー心を満たしたし、アジアの混沌のエネルギーにテンションは上がった。
乗り鉄の私が憧れのマレー鉄道でのショートトリップ。車窓の風景に癒されていた。現地の人たちの素朴な笑顔が人懐かしい。海外という非日常に癒され励まされたのは私も同じだったのです。

旅で出逢った一期一会の人のことを想う。
今頃、彼はどうしているのだろうか。父親の後を追って、研究者になっているのだろうか。地震原発・・・、その中でどんな人生を歩んでいるのだろう。

1か月後、そのときの仲間が集まって写真交換したり、旅の思い出話で盛り上がったりしたことがありました。他の人たちにとってもあの旅はいい旅だったのです。

そしてその帰りになんと、娘は駅の階段から転げ落ちて、アキレス腱を傷つけてしまいました。そのことがもたらしたのは、ちょっとした運命の書き換えだったかもしれません。ソフトボール部ではなくてなぎなた部に入部することになって、娘の人生になにがしかの影響を及ぼすことになるのです。

娘は高校、大学の部活では研鑽を重ね、結果を残して、大いに喜ばせてもくれましたが、相変わらず次々といろいろなことをやらかしてくれて、ずいぶんと親力を鍛えてくれたものです。今は母親になって、子どもから鍛えてもらっているようです。

そんな旅でのちょっとほろ苦い思い出です。

娘とのあんなことも、こんなことも、あれからも、これからも、どんな小さなことも覚えていたい。そう思っているわたしがいます。