私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

大阪の商売人の娘やねんから

 100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

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1972年9月
倉敷の美観地区
父と22歳の私が写っているレアな写真。

まず私がミニスカートであること。
ヘアスタイルが珍しく短いこと。
父と二人で写っている。
ことなどがレアな理由である。

大体、父と二人でお出かけがなかった。
商売ばかりの仕事人間で日曜日でも働いていた。

と父にはラベルを貼っていた。
ところがそうでもない。
思い込みってすごいなあと思う。

意外に趣味人間で、家庭的な父親だったかもしれない。
よく、難波の大劇に連れていかれたり
その頃には珍しく、幼稚園の遠足の付き添いは父だった。
お正月は、必ず家族で温泉旅行だった。

いや、なかなかの子煩悩でそれなりの教育パパだったのでは・・・?
しかも、社会活動には積極的だった。
いろいろな役を引き受けることが好きだったし・・。

地元で商売をしているとPTAの役が回ってくる。
引き受けなかったので母がやっていた。

あれは、母からの刷り込みだったのか?
「お父さんは、家のことはみんな押し付ける。私は忙しいのに・・・」
今ならワンオペです!そう主張していた。

我が家のルールは厳しくて、父からの圧はずっと重く鬱陶しかった。

大学を決めるときも
立命館大学の日本文学と関西大学の国文学の両方受かっていても
立命に行くと優子は赤になる」
「大阪の商売人の娘やねんから関大がちょうどええ」
と言って、関大に入学金を納めた。
泣く泣く従うしかなかった。

何でも、先回りして決めてしまった。

当然、抵抗したから
「文学なんかやってる娘より、会社の女の子たちの方が余程かわいい」
そう言われた。
その言葉と商売人の娘やからは呪いのように私を縛った。

折しも時代は
浅間山荘事件が勃発し、学園紛争は一定の終焉を迎えた。
70年に20歳を迎えた。
大学は紛争に明け暮れた。
ロックアウトされて大学から放り出された。
コロナ時代とはまた違うが・・・
学生が大学に通えないのは似ている。

学生運動へと傾斜する心を親を泣かせなくて
ギリギリのところで踏み止まった。
そのことで自己否定していった。
それでも青春時代とは大したもの
キラキラは失われることはなかった。

就職活動をして友人たちと同じように新しい世界を夢見たけれど
親の会社では岡山支店を出す話が出ていて、結局はそこに行くようになった。

卒業が青春時代の終焉のように思っていた。
長かった髪を切った。
新しい道を歩き始めた友人たちを遠く感じた。
寂しかった。

仕事は父から学んだ。
周りの大人にとっては、私はただの青二才だった。
青二才とはいえ、考え方は父譲りだから、廻りと合うわけがなく、激しくぶつかった。
立場上、父は庇ってはくれなかった。

飛び出しても、思い切って行けるところはない。
帰って寝るしかなかった。

その夜は接待で弱い父がお酒を飲んで帰ってきた。
「帰ってきてくれてよかった」
親が死んでも泣かなかった人を私は泣かした。
寝たふりを通した。

岡山からは、苦い思い出を引きずって半年で帰ってきた。

たぶん、岡山を引き払うその前に
倉敷に行っていないなら、行こうということになった。
どちらが言い出したかは覚えていない。

そんな苦い思い出が浮かび上がる父と娘のツーショット!

この後、10年もしないうちに父は病に倒れ
そこから9年後、68歳で路上に倒れて、そのままに逝った。

何も聞けなかった。何も言っていないまま
未完了が残った。

結構おしゃれで、すべて背広は誂えだった。
ネクタイは問屋でアルバイトしていた私のチョイスだった。
それを褒められるのが一番嬉しそうだった。
休日もこの姿って笑えるけれど・・・。

正解のないのはあの時代も同じだった。
自分の子どもにあれぐらい自信をもってこうせよと言える。
戦争をくぐり抜けて生きてきた人はある意味すごいなぁと思う。

だから反抗した。私はあなたの部下ではないと・・・。

ところが、父があの過酷な戦場から帰還してくれたから
私がこうして生きている。
そのことは、ちゃんと繋ぐから。

本当はコンサートや旅行が好きだったのに
長生きしてたらできたのに
いろいろなところに一緒に行けたかもしれないのに・・・
いろいろしたいことがあっただろう。

できなかったことは私が代わりにいろいろと楽しむことにする。
お父さん、あなたが晩年、そうしたかったように。