私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

桃と入院と涙と花火

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

 

f:id:teinei-life:20200929085247j:plain

1960年(昭和35年)10歳。

私は、夏休みの始まる前日に救急車で大阪市立桃山病院に運ばれて
隔離病棟にいた。
そして、夏休みの終わる前日に退院した。
病名は細菌性疫痢。
疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型
短期間に死に至るおそれのある疾患ですが、最近はほとんど聞きません。

症状の出る前日は
結核の療養所にいる伯父のところに行く途中
天王寺にあるデパートで桃を見舞いに買っていきました。
それを、母も妹、弟も食べたのに・・・
診断ではその桃が犯人で、私だけがその菌にやられたらしい。

どんな症状だったかは覚えていないのに
覚えているのは
一人で救急車の中から、学校に向かう同級生の姿や
入院の簡単な手続きを自分でやったこと。

親は付き添えなかったのかどうかは今となっては不明。
保険所がやってきて、家中を消毒したり
感染を止めることに大わらわ。
小学校の4年生の私は一人で入院する不安よりも
迷惑をかけてごめんなさいが勝っていた。

退院の時は、父が迎えに来て
オート三輪の荷台に乗せてもらって帰った。

同じ病室にいた同じ年と2つ下の子も一緒に退院した。

入院してから、2週間ほどで元気になったけれど
菌はいつまでも出て、退院できなかった。

昼間は、この三人で元気が余って走り回り
かんごふさんに叱られた。いつも叱られていた。
どのかんごふさんもこわかった。

隔離病棟なので家族が付き添いできない。
1960年、その頃はつきそいさんと呼ばれる人がいた。
写真に一緒に写っているのがその人で
人見知りだった私が甘えるように体を寄せてせている。
それにしても、何で私は浴衣を着ているんだろう・・・。
まあ、いいとして・・・。

私たちは子どもだった。
昼間は元気でも、夜になると寂しかった。

2年生の子は隣のベットで毎晩しくしく泣いた。
泣き出すと、もう一人も泣き出した。

つきそいさんは、二年生の子が寝てしまうまで
ベットに入って背中をトントンしていた。

両隣が泣きだすと、私もわんわん泣きたくなるので
「おしっこ」と言って、屋上に上がって
家の方だと思ってる方面を見て少しだけ泣いてから戻った。
どこかでお祭りらしい。花火が上がっていた。

病院の人は、ほとんど怖い人ばかりだった。
つきそいさんも結構、厳しい人だった。
はしゃぎ過ぎた後は、よく熱が出た。
そういう時は、こっぴどく叱られた。
でも、こわくなかった。

一番、悲しかったこと。
菌が出なくなって、家族の夜の付き添い許可が出た日があった。
母が来てくれるはずだった。

でも、来たのは田舎の伯母さんだった。

結核の叔父が片肺を取る大手術があるので付き添いがいる。
手が足りないこともあり、田舎から伯母に手伝いにきてもらっていた。
その日だけは叔父に付き添ってもらうことになって
母は私のところに来るはずだった。

伯母は、慣れない都会で、しかも普段から叔父とは接点がなく
そんな病人に付き添う自信がないから、ゆーちゃんの方に行く方が気楽やから
代わってもらったとこともなげに言う。
そして、伯母はベットで一緒に寝てくれたけれど・・・
10歳の子どもの気持ちも、母親の思いも分からないのはどうかと今なら思う。
いい人なんだけど、全く気が利かない人だったようです。

わたしは、あの時、母に来てほしかったと言えずにいました。
とうとう最期まであの時は悲しかったと伝えず母を送りました。

そんな親との関係が原型となり
人との関係も同じパターンを繰り返している。

だからといって
誰も責めることはできない。もちろん自分自身に対しても。

戦争から立ち上がって15年。60年安保闘争の年。
大人たちは、自分のチカラで日々を生活すること
家族を養うことだけに一生懸命だった。
子どももそれに倣うしかなかった。

子どもだってそれなりに自立するしかなかった。

そんな時代だった。

今、コロナショックのこの時代
何が大切で、どうするべきかを自分以外に求めすぎてやしませんかと思う。

行政のことを信頼していないくせに、自粛するかどうかを行政で決めるべきだとか・・・
どう暮らすかは自分で決めるしかないのに・・・
いい加減に自立しませんか~と思ったのは私だけでしょうか。

ところで、70歳の私、高齢者として自覚・自立しているか?
自分のことができなくなった時の準備はできているか?
問いかけてみる。

あの頃のゆうちゃんに恥ずかしくない
そんな高齢者でありたいと思っている。

 

その他の画像

f:id:teinei-life:20200929085303j:plain