私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

浅くない縁を喜び会おう

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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1974年10月1日、24歳
福井県勝山市の父の生家の前で
父方のいとこたちとの集合写真です。

世界中でたった1枚の
最初で最後の写真となりました。

祖父の喜寿のお祝いに
私は着物で正装しているし
家の玄関には紅白の幕を張って
親戚、縁者で餅をついて長寿のお祝いをする。
田舎ではこういうイベントを大切にしていたらしい。
都会では、こういう様子は消えて久しい。
小野田寛郎さんが30年ぶりに救出された
まだ戦争が終わっていない人もいた。
ノストラダムスが人類滅亡を予言した1999年もすでに過ぎて
今や100年人生となりました。

その頃には考えもしなかった時代に生きている。

大阪の街で生活しているわたしには滅多にない経験だったのです。

父の生家は母の生家からまだ山に入った谷あいの集落だった。

こどものころはいつも休みになると
母の実家に兄弟で預けられた。
母方のいとこたちとは兄弟のように育った。

父方の実家は敷居が高かった。
というより、足が向かなかった。
平家の落人が暮らした隠れ里だけあって
草深く暗い家は子ども心に苦手に感じていた。

そのことに少し後ろめたく申し訳なく感じていたものでした。

そんな父の生家に逗留する機会が廻ってきたのがこの長寿のお祝い。
おじいちゃんが作ってくれたいとこたちと仲良くできるチャンス
案外楽しかったのです。

でも、すれ違ってしまった。
名前を忘れてしまってて、今、改めて思い出した。

もう、会うこともないのだろうか。
この7人には同じ血が流れているのになと・・・
今さら感じている。

昨年、母方の叔母の一周忌に寄ってみた。
住む人のいなくなった家だった。
まさに、更地になってほやほやだった。
ユンボの爪痕が鮮やかに残っていた。
その時は、父が守ってきた家が・・・
と思うと寂しさに襲われた。

そして、今は
朽ち果てるままにせずに
故郷の家をきちんと始末してくれた。
いとこたちには感謝の思いが湧いてくる。

家のそばを小さな流れがあって水車があった。
いつも水の音がして、少し湿っぽくて暗い家だった。
煙たかったのは囲炉裏があったから。
大きな柱時計があって時を告げた。
お墓が裏山にあって、草をかき分けて登った。

そんな思い出の中に、このいとこたちがいる、

それぞれに交わることがなくなっても
ただただ幸せを祈るばかり・・・。

彼岸で、また逢えたなら
浅くない縁を喜び会おうと思う。