私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

過疎の郷・・・「最後までお守りしはったんやね・・・」

100人と書く「一枚の自分史」

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2018年12月 
福井県勝山市、恐竜博物館のすぐ下にある
母の里への悲しい訪問でした。
その年の2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。
雪が着く前にと
3ヶ月も早くに一周忌の法事が営まれました。

父の里は、母の里からまだかなり山の中にありました。
全ての法事が終った後、弟とそこを訪ねることになりました。

父の生まれ育った家を守る人はすでに途絶えていて
家終いの話が出ていました。

間に合ううちに自身のルーツを
今、たどらないとどんどんリセットされてしまう。
何も、次世代には伝わらない・・・。

小さな子供たちに
命のバトンを渡すために伝えたい。

だから、父の生家があるうちに
行ってこなければと思っていました。

車で送ってもらって
集落に入って家を探すのですがありません。
周辺も記憶の中の風景とは違っています。

すぐに、家は途絶えて、集落から出てしまいました。
歩いて引き返してみました。

集落の最後にある家まで引き返して
目にしたものは・・・

行き過ぎても分からないはずでした。

ユンボがまだそこにはありました。
ユンボの爪痕はまだ真新しい。

なんてことでしょう。
わずかに遅かったのです・・・

間に合いませんでした。

そこにはぽつんとお墓だけが遺されていました。

涙が溢れました。

枯れる前の花が供えられていました。

遅かったけれど
それでも、あの場に行けてよかった。
懐かしい人たちの面影を見ることができました。

山村の三男坊だった父が
口減らしのため、早くから村を出されてからも
ずっと援け続け、守ってきた家でした。

泣いている私に
弟がこう言います。
「ねえちゃん、誰も恨んだらあかんで」
「誰も恨んでへん。何でかわからへんけれど、誰かが私に乗り移って泣いてはるねん」
そういう感覚でした。
そういう弟も誰かに言わされていました。
誰が、何を伝えようとしているのでしょうか。

家というのは不思議なものです。
そこにある限り
人の思いも一緒にあるようです。

あの日々の暮らしもままならぬ時代に
自分の家族を養いながら
田舎の家族の生活も援けてきた。

そうした父の思いを
私たちは受け取っていました。
次世代にツナグと決めています。

家とはただ住むだけの箱では決してない。
不思議なものです。
思いが残っているうちは、家は壊されず
思いがそこに亡くなった時、家は役目を終える。

しっかりと思いを繋いで行こう。

集落の入り口にあった看板にある家は
父の家から先は消滅していました。

まさに限界集落の手前にありました。
過疎の郷・・・
逝きし世の面影
日本のいたるところで起きている風景です。

子どもの頃
母の実家は居心地がいいのに
父の実家は寂しくて嫌だった。

なぜか、今は分かった気がします。
平家の落人がひっそりと住んだ地だったから。

ただ、この村の人たちは
長住した家をただ朽ちるに任せるのではなく
きちんと更地に戻していました。
生活の後はなく、草が覆うばかり。
だから、行き過ぎてしまうほど何もなかったのです。

「最後まで守しはったんやね・・・」
この一枚の自分史を書かなかったら気が付きませんでした。

そうだった。
最後まで見届けて、自然にお返ししたんだ。
そこには、村の人たちのその地への感謝が見て取れました。

それで
朽ち果てた家を見ると哀しい。
そこに思いが残っている気がするからだったのかもしれない。
最後まで、家守りできなかった無念がそこにあるのかもしれない。

生者必滅、会者定離
この世に生を受けたものは必ず死に
出会ったものには必ず別れがくる。

去って行った人の心を引き継ぎ
次代に引き継いでいくことを大切にしたい。

いろいろと間に合わなかったことばかり・・・。

だから、今、書かねばと強く思います。
書いて、そこに置いておく。
必要なときに、必要な人が受け取ってもらえるように。