私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

わたしの幼少時の自分史がここにもあった。

自分史でできることは何だろう?

今日のしつもんZEN瞑想から

忘れていること。
忘れたいから忘れたのか?
思い出したのなら
何か意味があって、そういうタイミングだったのだろう。

瞑想に入って
「自分史で何ができるのか?」と質問を置いてみた。

いきなり、そういきなりだった。
幼い自分へと還っていた。
2歳か3歳の私。

家の前で遊んでいる。
前には国道26号線が通っている。

ジープが止まって
若い米兵たちが下りてきて
何かを話しかけてくる。
「可愛い子だね~。こんにちは。何をしてるの?」

暫くはきょとんとして固まっているけれど
そのうちにうわーんと泣き始める。

米兵たちは
ソーリー!ソーリー!と言って
チョコレートやビスケットを持たしてくれる。

覚えているわけではない。

少し大きくなってから親たちから聞いたこと。

その頃、国道沿いに行くと浜寺に米軍の駐屯地があって
よく、家の前をジープが通っていた。

「最初から泣いて逃げ出していたらお菓子はもらえない」
「いつもお菓子をもらってから逃げてきたもんな~、この子は」
と笑って親たちが話していた。

泣かないし、逃げないから嬉しそうに兵士たちは構いに来たらしい。
「きっと、国に同じ年頃の子どもがいるんだろうな~」
みんなが優しい顔をしていた。

そのことを思い出していた。

渇えていたんだ。
その頃は、誰もが・・・
突然、哀しみがこみあげてきた。

お腹がすいているし、お母ちゃんもまだ帰ってこない・・・。
まるで子供が泣きじゃくるみたいに泣いた。

覚えてもいないのに
若い米兵たちの顔が優しい父親の顔に見える。
人と人が殺し合う戦争が悲しくてまた泣けた。

これは瞑想じゃないな・・・
これじゃ、ヒプノセラピー
インナーチャイルドのセルフ療法やっているよな・・・。

潜在意識が表出してきて
今日は全く瞑想できずに終わってしまった。

そのことは
悪いこととは思わない。

むしろ、よくぞ出てきてくれたと感謝しかない。
わたしの幼少時の自分史はここにもあった。

書いておこうと思う。

今ここにを意識しないと
体勢を整え、深い呼吸をするだけで
時々どこかに行ってしまう。

日によっては
今ここよりも
行きたいところがあることにも気が付いてしまった。

そりゃ、行くよね・・・。

魂の呼ぶところへ。

戦争の記憶がそこにあるらしい。
今世のテーマがそこにあるらしい。

自分史で何ができるのか?
答えはそこにあるらしい。

そして
終わらない旅はこれからも続くらしい。

 

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親を送ったように

大抵は
人は親を送ったように子どもから送られる。 

必ずではありませんが… 

因果応報
世代間連鎖…

子どもたちは見ています。
親をどう送ったかを…。

私には、母の思うようには送ってあげられなかったという悔いがあります。
しかも、しばらくは、そのことをずっと誰かのせいにしてきました。

でも
自分が送られる側に立っていることを実感した時
誰も悪くしたくない。
そう思うのです。

子どもたちの行く手を阻むことはしたくない。
そのためには
どうしておくことができるのだろうか…。

考えながら、17年前の日記を読み返しています。

長くなります。

 2003年9月19日(金) 映画「折り梅」を観て

市の文化協会主催の映画鑑賞会に、
定時で仕事を切り上げていってきました。

 第14回東京国際女性映画祭で上映された松井久子監督
「折り梅」

老人介護を扱った映画で
同居を始めた夫の母親の認知症
徐々に進んでいくことから起る
嫁と姑、夫婦間、子供たちとの
さまざまな葛藤が描かれています。

今まさに自分がぶつかっているテーマを扱っているということで
以前から必ず観ようと思っていました。

娘も一緒でした。
娘は「そんな映画を観て、余計に落ち込んだりせんときや」
と言いますが…

「こういう映画には、きっと救いが用意されているはず、参考になることがきっとあるはず」と…。

娘は
プロローグの二人が歩いている姿を見ているだけで
涙をこぼしていました。
映画が始まって10分ぐらいから終るまで涙が止まりません。
途中嗚咽を漏らしそうになるほどでした。

夫に早くに死に別れ
4人の男の子を女手ひとつで育てた気丈な母(吉行和子)。
その母の痴呆を認めたくない息子は
介護に疲れ果て施設に入れたいと願う妻(原田美枝子)に
相談を持ちかけられても
「君がいいと思うなら・・・」と
肝心なところで逃げてばかりいる
そんな気弱な身勝手な夫(トミーズ雅

本当に我が家と同じで男はこういうとき頼りにならない!

施設へ送って行く道すがら
実の息子さえも知らない姑の過去
幼い日の生母との別れや若い時の苦労話を淡々と語るのを聞いて
同じ女として、母として、また子どもの立場として
姑を愛しく思い
もう一度がんばってみようと決心する嫁。

姑と参加したある集会で
「今までお姑さんを何回褒めてあげましたか」
と問われて
咎めたり、怒ってばかりいたことに気がつく場面があります。

帰り道、娘は
「あの画面、一番応えたなぁー」
「おばあちゃんにあかんことばっかり言ってたと心が痛んだわ!」
「何も褒めてあげていない!」
と・・・

「お母さんは、帯の縫い方習うことで、おばあちゃんのことちゃんと認めてあげてた」
「正解やな!」

いいえ、あなたの方がずっと巧まずにおばあちゃんを看ていたと思う。
私の方がずっと理で言い聞かせたり、難しいことを要求していたと思う。

映画はそれに気付かせてくれました。

誰でも褒められると嬉しい。
子育てと一緒。
年を取ることは子供に還ること。
できる範囲のことで、あるいは得意な分野で認めてあげなくては。

あと、子供に還るということに、過剰反応してあげないこと。
上手に合わせてあげることがいいのですね。
昔の話の中で自分が行ったこともない所でも、想像を膨らませているうちに行ったように思うらしい。

これはかなり早く始まっていたのを
今まではいちいち違うでしょと訂正していたけれど
害のない話なら否定せずに
「それで誰と行ったの?」
と話を続けてあげたらいいのですね。
やさしい表情で聞いてあげたらいいのですね。

原田美枝子さんの優しい表情のように穏やかに。
この人はほんとうに綺麗に歳をとられた女優さんですね。

呆けは神様の贈り物という。
老人が生きる智恵かも知れない。

わが母はリュウマチの苦痛や
家族と暮らせない寂しさから
呆けることで逃避しているのかも知れない。

なら、付き合ってあげよう。
その方が楽ならね。
 
「折り梅」とは
梅は折れて老木となっても
枝からつぼみが生まれて美しい花を咲かせること。

浅き春に先駆けて凛と咲く古木の梅、素敵ですね。

温かい視点で老人介護を描いている「折り梅」という映画を
同じ介護に苦しむ人たちに観ていただきたいです。

 

この映画を思い出させてくださったことに感謝いたします。

そして
松井久子監督が昨日のお誕生日を機に
noteでマガジンをスタートされたそうです。

是非、読もうと思います。

http://松井久子のNoteマガジン「鏡のなかの言葉」

 

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老にして学べば、死して朽ちず。

自分史において40代までは
ずっと誰かの子どもであったり
誰かの母であり、妻であり
会社では総務人事の人だった。
なかなか自分だけの為には生きられなかった・・。
 
2003年5月のWEB日記には
50歳になって
人生においてやりたかったことのやり残しがたくさんあることに気付いた。
夢が叶わなかったことはすでに自明の理となり
それでも精一杯やったからええやんと言い聞かせても
心の奥底では、何かしら寂しい。
そのことを自分自身に納得させる年齢らしいけれど
何かをやって叶わなかったどころか
実現どころか夢さえ見ていないような気がする。

今から、夢の実現に向けて再挑戦するに
残されている時間はあるのだろうか?

切羽詰って、固まっている自分が居た。
 
周囲からは、何故何もやらないんだ?
今の状態から跳び出せ!
やりたいことがあることを
あの人たちは知っているから・・・。
 
でも、生活に捉われるのが常でしょう・・・。
勇気のない言い訳です。
それまで
数え上げるほど、山ほどできない訳があった。

 ナイターの中継流るる居間に独り開く歌集か「無援の抒情」
 一行の歌に涙すを今さらと呪縛の解けぬ五十路にありて

「無縁の叙情」は道浦母都子さんの歌集です。
同じ時代に青春を通りぬけててきた世代の抱く無援感は共通のものでしょう。
多少なりとも、思想という名の荒野で傷付いていたものです。
ノンポリを恥じた日がありました。
学園紛争の日常の中、集会に出かけて、ますます混迷したこと。
ただ人についてデモに参加した日。
集会中にいきなり石を投げられたこと。
部活中に無実の後輩が機動隊に追われ
目の前で棍棒で押さえ込まれたこと。
違うからと交渉したときの恐怖。
 
あの頃はみんなが迷い憂えていた時代だった。

「少にして学べば、壮にして為すあり、壮にして学べば、老いて衰えず、老にして学べば、死して朽ちず。」
 
それから20年近くたって
私は何かを為したかどうかわかりませんが
学び続けています。
そして
いよいよ老いていきます。
老いての学びはこの裡にありそうです。
その学びを書くこと。
そのことで繋いでいきたいと思う。
死して朽ちずとはそういうことなんだろう。
 
やっと、見え始めたように思います。
 
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母へのラストレター

2004年8月2日の日記から
11時に告別式は始まった。
月初めの月曜日ということでお越しいただける方は極少ないだろうと
予想した通りでした。
でも、母さん、かえって、身内ばかりで
心おきなく別れを告げることができましたよね。

お寺のご住職から
自分たちの告別式をしなさいと言われていました。
言われたときは突然だし、何も浮かばなかった。
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと・・・。
出しそびれたはがきがありました。
 
土日しか施設に会いに行けないから
会社の昼休みに絵葉書を書いて送っていました。

菜の花を散歩したときの車椅子の母さんと
それを押す私の姿が写っている、
宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに
本文だけが書いていなかった。
あらためてお別れのハガキを書きあげました。
 
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それを見て、娘や姪たちが
私たちもお手紙を書いて
写真を入れてあげようと決めたのです。

それなら、ちゃんとそれぞれが読んであげて
それから入れてあげたほうが
心が届くのではないかとご住職に言われて
それが私たちの告別式になるのではないかと・・・。
嫌がるのかと思ったら、素直にそうすると言う。
葬儀社の担当者にお願いすると
気持ちよく承知してくれました。

そして、それぞれ7人の思いがこもったお手紙を
哀しみを堪えて読み上げてくれました。
 
来てくださった方がそれを聞いて
涙を流してくださいました。
いいお別れでしたねと・・・。
 
一番泣いてくださったのは
家族ではなくて、葬儀社の若い担当者さん
おいお~い!
この葬儀社さんでよかった。
担当者があなたでよかった。

お母さん、聞こえましたか?
貴女の愛した孫たちの最後のラブレター。

一番年上のお兄ちゃんと一番下の姪っ子は
おばあちゃんを独占できた時期があったけれど
後の5人は何時でも、おばあちゃんを取り合いしていました。
誰がおばあちゃんの横に寝るかで争奪戦だった。
時にエスカレートして泣き出す子がいるくらい。
随分、騒がしかったことでしょうね。
幸せだったよね。

一番最初はお兄ちゃんだった。
手紙はおばあちゃんだけが読んでくれたらいいからと言って
読むのは止めてしまった。
「でも、たくさん愛してくれてありがとう。」
「いっぱい感謝しているよ。」
「その中でも一番感謝しているのが僕のお母さんを生んでくれたことです。」
「おばあちゃんがお母さんを生んでくれなかったら僕はこうして存在していなかった。
本当にありがとう!」

妹は、介護が必要になったとき、一番やってくれたよね。
そして一番苦しんだのです。
どんどん壊れていくことが辛過ぎて、優しくなれないことを
私と一緒に苦しんでくれましだ。
大好きな人がそうでなくなる切なさを一緒に。

昨夜も、会館で棺を抱きしめ、何時間でもそのまま居ましたね。
一人でおばあちゃんの側で過ごしたよね。
「私は、いい孫だっただろうか?」
と介護の途上のジレンマからの言葉だった。
「優しくなれないこともあった。ごめんね」と・・。
「いつも抱きしめてくれたのに、もう抱きしめてあげられない」
「もっと抱きしめてあげたらよかった」
「でも、おばあちゃんは、どこかに行ったって思えない」
「また、うちの居間に現れて、私の行儀の悪さを叱ってくれそうな気がする」
とも・・・。
「お浄土へ続く明るい花が一杯咲いている草原を、背筋をぴんと伸ばし、出会う人たちに丁寧に挨拶をしていることだろう」
「おばあちゃんのこと心から愛しています」

ほかの子達も、それぞれの思いを、それぞれの言葉で伝えた。
いい告別式になったね。お母さん。

火葬場へ、行った時もさほどに感じなかった。
私はどうしてこうも冷静でおられるのだろう。
まだ、居なくなったという実感が無かった。

骨になったのを見て、初めて現実に目覚めた気がした。
喪失感に突然、襲われた。
静かに涙が止め処なく流れ落ちた。
呆然と立ち尽くすしかなかった。
何故、こんな辛い行事をこなさなきゃならないのだろう。
すべて燃やしたらいいじゃないの。
すべて灰にすればいい。跡形もなく。
骨を拾うなんて、そんなにリアルな哀しみは要らない。

初七日の法要を終えて帰って来た。
水曜日から続いた長い非日常から帰って来たのに
日常を刻む時間は狂ったまま。
しばらくは戻れないんだろうな。

お母さん、今、蓮の花が見事に咲く季節ですよね。
蓮の花に乗っていくのかしら・・。
 

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子どものときの記憶ってどのあたりまでが本物なんだろう。

子供のときの記憶って、どの辺りまでが本物なんだろう。

「子供って、何をしでかすかわからないね」
幼い頃、まだよちよち歩きだった娘が
おにいちゃんの風邪の水薬を全部飲んでしまった
その時のことを
騒ぎの張本人が話し始めた。

そういえば、そんなことがあった。
風邪をひいた4歳のおにいちゃんを病院に連れていって
水薬を処方してもらってきた。
それを飲ませて、兄の方にばかり何やかやとかまっていると
じーっと羨ましそうな顔をして妹が見ていた。
その視線の先に水薬がある。
危ないなと思い
手の届かないようにタンスの上に置いておいた。

用にかまけていて、時間がたっていた。
あれ?なにかおかしい?
おにいちゃんは薬を飲んで寝ていはず・・・。

あれ?
いもうとの方は、一人でどうしているのだろう?
大人しすぎる。

胸騒ぎがして
子どもたちのいる部屋に入ると
遊んでいるうちに寝てしまったらしい。
兄の布団の側で大の字になって寝ている。

並べて寝かせて、また用に戻った。

時々覗いても、ずーっと寝ている。

お昼ごはんも食べずに、何時間でも寝ている。
おかしい?

もしやと思って薬を置いたタンスを見やると・・・。
薬のビンがない!

部屋のすみに空っぽになった薬ビンが放り出されていた。

え!
血の気が引いた。

かかりつけの小児科の先生が往診してくれて
洗浄騒ぎになった。
本人はぐうぐう寝ている。

先生のおかげで大事には至らなかったけれど
そこから20時間眠り続けた。

どうして、そんな高い場所にあるものがとれたのだろう。
まだヨチヨチ歩きだったのに・・・。

なんと本人に聞いたところ
はっきりとはしないが
どうやら
タンスの引き出しを順に階段に引き出したらしい。

しかも、その後は、ちゃんと戻している。
おかあさんにみつかったら叱られるから・・・。

「そんな、危ないことを・・・」
絶句しました。

「子供って何をしでかすかわからない」
そのとおりです。
でも、そんなこと覚えてるの?
まだ2歳だったでしょう。
後で聞いたことを覚えてるだけじゃないの?

本人は何となく覚えてるのだというのですが・・・?

2歳の記憶ってあるのだろうか・・・。

そういえば
父方の祖父が亡くなったのもこのころ
不思議なことをたくさん話していました。

目が覚めて
さっき、おじいちゃんが来て
「まだ、寝てるんか~」って言って
また、とことこと帰っていったよ。
と言ってくる。
あら?
寝ぼけてるのかな?
おじいちゃんは、お空から来たのかな?
「ほんとに来たよ!こうやって・・・それで・・・」
ってリアルな説明をしてくれた。

自転車を走らせていたら
後ろに乗っていて、いきなり
「おじいちゃんがお寿司を食べたい」
って言ってるよ!
ちょうど、お寿司屋さんの横を通り過ぎようとしていた。
「お寿司食べたいの?」
お空のおじいちゃんはそんなこと言わないから
自分が食べたいのかなって聞いたけれど
「ううん、おじいちゃんがここのお寿司がおいしいからって!」
またか~と
思いながら聞いていた。

その頃は、そんなことよく言っていたな。

あるかもしれませんね。
その子がお母さんになって
孫っこが4歳になった日
体内記憶をはっきりと話し始めたとき
あ~
やっぱり親子だなって思ったものです。

今はすっかり話しませんけれど・・・。

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恩人たちにはどんな感謝を送ればいいのだろう。

人との出会いが
人生の危機的な状態から救ってくれていた
という気付きがありました。

ボランティアを通じて
50代に入るその直前に出会った三人でした。
私たちは二日おきにこの世に生まれました。

時を同じくして生まれても
子ども時代を近い場所でよく似た環境で育ちながらも
大人になってからは違う環境と価値観で生きてきた彼

遠くで生まれながらも
学生時代以降はよく似た環境で生きて
共通する価値観を持って生きてきた彼女

時間を忘れて三人でよく語り合いました。

価値観の違う彼には
私たちは違う生き物だったようでした。
会社という社会での成功体験から見ているらしく
私たちの思考はいつも現実からは遠く
世間の物差しからははみ出して見えるらしく
常に軌道修正をかけられ
ぼろくそに言われ続けました。

出る杭は打たれる。
打たれる姿を見たくないばかりの
思いやりから始まるだけに
始末に負えないマウントでした。

彼女は
あなたの提案は10年は早いと
ことごとく退けられ続けた私を
支持し支えてくれました。
自らは行動は起こさなくても
寄り添って一緒に闘ってくれました。

それぞれの方法で常に寄り添ってくれていました。

その頃の私は
いくつ抱えているのかわからないぐらい
母の介護に始まる家族の問題
自身の会社のリストラにはじまって
これでもかという困難な案件を抱えていました。 

次々と起こるのは
家族の問題とはいえ
それぞれが解決しないといけない問題ばかりで
寄り添うことはできても
自分ではどうにかできる問題ではなかったのです。

リストラされる側に寄り沿いながら
リストラをする立場に立たされている罪悪感など・・・

その頃は課題の分離ができなくて
すべてを自分の問題にして満身創痍で苦しみました。

そして自己不全感から逃れるために
ボランティアに逃げました。

自分史年表を書くうちに
かなたに無理やり押しやっていた記憶が蘇ってきました。
そうや・・・
そして、依存してたな・・・私。

誰かに依存していないと
立っていることができなかった日々でした。

その頃、詩を書いています。

心の平安

  冬の嵐が吹き荒れています

  傘の下にいてもいいですか

  心の平安だけが欲しいって言ってた

  フレーズを覚えていますか

  信じていたらいいのですか

  また、笑ってくれますか

  背中をさすってくれますか

  とても不安です 

  嵐が止むまで傘のしたに、

  もうしばらくはいさせてください

  何もいりませんから

  心に平安が訪れるまで

 

人は一つか二つの困難なら何とかなる。
けれどそれだけ問題を抱えたら心も体も持たない。

そう、今思えば病まなかったことが奇跡のようなものでした。

依存する。そして依存させる。
そこから得られる二次利得で互いに繋がっていました。
セオリー通りのことがあの頃は起こっていました。

やがて、一人は
他を活かし助けるためではなく
自分を活かすために闘うことを選び
依存関係は解消していきました。

もう一人とは
共依存の関係が苦しくなって自分から少しづつ離れました。

そんな出会いから20年経って
あの頃の私を支えてくれたのは
まがうことなくこの二人だったと気付きました。
いやうすうすは気が付いていましたが
はっきりと共依存という関係だったと文字にしました。

その数日後でした。

なんと・・・
その頃、会議の後に繰り出して喧々諤々やっていた
居酒屋さんが閉店することになり
最後の日に集まる機会を何年ぶりかで得ることができました。

そして、いとも自然な形で
「あの頃はめちゃくちゃ依存してたね~!ごめんな~!」
「ある意味、命の恩人だったと思う。ありがとう。」
と軽々と口に出していた。ちょっと軽いぐらい・・・。

そして、二人の口から出たのも
「自分もそうやった!依存しあっていた。」
「こっちこそどれだけ助けてもらっていたかわからない。ごめんな!」だった。

あの頃の私たちは遅れてやってきた青春時代の末期を過ごしていた。
酔いが回るほどに、その頃を懐かしく思い出していた。

恩人たちにはどんな感謝を送ればいいのだろう。

それぞれが老後となるサードステージの入り口に立っている。
どうか幸せなサードステージであれと祈る。

 

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想い出の母の刺し子の着物

18年前の8月の暑い盛り
「優子の着物縫ったから届けに来たよ」
昼休みに母が職場までやってきました。
その時のこと、昨日のように覚えています。

何も、こんな暑い時に持ってこなくてもいいのに・・・
昼休みではゆっくり話す暇もないやん。

しかも、袷やし・・・
なんで今なん?わざわざ・・・?

それが母に縫ってもらった最後のきものになるとは
その時はつゆ知らず・・・。

刺し子の着物でした。
一反をひと針、ひと針刺してから縫い上げたものでした。
だから、すぐに見せたかったのだろうな・・・。

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着物が好きで
人に頼まれると気軽に
引き受けて縫っていました。

元々
福井の山の中から東京に出て
東京高等技芸学校で洋裁を学んでいます。
洋裁も和裁も筋金が入っていました。

そんな母も寄る年波には勝てなかったのか
その1年前ぐらいだったか
縫ってもらった襦袢に
待ち針が残されているという事件があり
私のだったからよかった
もう、人のものを縫うのは止めるようにと説得をして
預かっていた反物は、事情を話してお返しをしました。

大分ショックだったらしく
暫くはしょんぼりしていたけれど
いい機会だから、これからは
私や孫娘のものだけを縫ってほしいというと
張り切ってまた縫い始めた。

手仕事がとことん好きな人でした。

花嫁の打掛に刺繍をして作品展に出品したり
着物を手書きしたり、袋物はプロでした。

そんな人が
リューマチという病に侵されて手が動かなくなります。
唯一の楽しみをいきなり取り上げられて
どう暮らしていたのでしょう。
あの世代の人はなんでも我慢してしまう。
気丈に一人で頑張っていました。

そんな状態で長く続けられるわけがない。
ある日、あたふたと迎えに行くことになります。
後は、坂道を転げるように心身ともに弱っていきました。

その頃、留学生に成人のお祝いに
振袖を着せるボランティアをしていました。

日本の親が娘のために用意した特別な着物を
親の思いと一緒に異国で頑張っている留学生たちに着せる。

タンスに眠っている着物を寄贈していただいて着せていました。

そのことを母は喜んでいて、いろいろと手伝ってくれました。

そんな場で刺し子の着物を着ているところを見せたくて
振袖の会で着ることにしました。

喜んでもらおうと、施設まで見せに行ったのですが・・・
もうよくわかっていない様子でした。
それでも着たところを見せることができただけでもよしとしました。

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大連からの留学生が私の中振り袖を着てくれています。

この写真も15年以上経ちました。
皆さん若いです!それぞれに国でどうしているのでしょうね~。

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その次に着たのは
大坂適塾プロジェクト「結」で
「母から繋がる江戸しぐさ」のお話を
最後に縫ってくれた刺し子の着物を着て語りました。

江戸がエコの都市であったことをお伝えするのに
こうして着ている着物もエコであることもお伝えしました。
元々、刺し子の着物は労働着だったのです。
痛んだところを繕ったことから始まったそうです。
チクチクと糸を刺すことで労働に耐えるように頑丈にしたのですね。

まさにぴったりでしたよね。
おかあさん。見ていたよね。

参加した方が書いてくれました。

私の大好きな江戸しぐさの優子さんのお召し物は着物で
優子さんのお母さんが縫われた刺し子だと聞いてビックリ。
じっくり見せてもらうと
確かに手で一針一針丁寧に縫われていて、手間をかけて
相手を思いながら作られたものがここにあって
こうやって受け継がれていくということに
不思議な感動を覚えました。

そのように思っていただける。

着物には思いがこもっています。
着る人を幸せにする。

いろいろな思い入れのある着物があります。
そのなかでも一番!
もっと着たいと思う着物です。

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