私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

私の読書の原体験…中学一年生の夏

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1962年、12歳中学1年生の夏休み、林間学校で北摂の行者山の登山口での集合写真から切り取っています。

写っているのは、担任で社会科の斎藤先生と仲のよかった友だちで、私の読書に後々まで大きな影響を及ぼした二人です。

この夏休み、担任からパール・バックの「大地」が課せられて、というか、そう勘違いして、よくわからないままに「大地」全3巻を読了しました。

斎藤先生は現地で見ることに熱心で、ことあるごとに社会見学等に引率してくださいました。その後、担任から外れた次の年も、奈良へ古都探訪に行くという朝の集合にケネディ大統領が暗殺されたというニュースを持ってこられました。強烈な想い出になっています。

先生は、シベリア抑留からの帰還兵でした。その体験談や父の戦争からの生還体験を生に聞いたことは私の人生観に影響しないわけにはいきませんでした。

休日に、難波の橋の上で逢ったことがありました。先生は拡声器を抱いて、平和を訴えておられました。その橋のたもとには、傷病兵の姿をしてアコーデオンで軍歌を鳴らして物売りをする人もいました。

終戦後すでに20年近く経っていました。世の中は、「いつでも夢を」「遠くへ行きたい」が流行し、若者が夢を抱いたり、旅へ憧れたりできたいい時代でした。そんな矛盾をはらんだ時代に思春期の入り口にいました。

この頃の私は、写真の友だちのようには笑えていなかったようでした。
友だちは裕福な家の子で、多くの蔵書を持っていました。特に翻訳者が大半を占めていました。その頃、ベストセラーになった「野生のエルザ」「永遠のエルザ」も借りて読みました。おかげで翻訳ものに抵抗がなかったので「大地」が読めたのかもしれません。性格のいい人でした。何時も気持ちよく貸してくれました。
その頃の私は、貸してあげる本も持っていないし、何か返すことも持っていませんでした。そんな自分が友だちとして値打ちがないように思えて、友達の家に行くたびにぎゅーっと心が痛むような気持ちになりました。友だちのお母さんは、こ洒落たお菓子を作ってくれたり、なによりも言葉が標準語できれいな品のいい方でした。私の母は商売が忙しくてそんなものは作ってくれることはありませんでした。

我が家は商売をしていたので盛衰はありましたが、まだましな方で、同級生の中には、内職をしているような子もまだまだいて、貧富の格差は明らかにありました。私はそんなときにも何もできることがないことを心苦しく思ったものでした。

子ども心に家庭の環境で人はこれほど違うのかと社会の一面を見る体験と「大地」という社会派の大作を読むことで、大人への階段を上り始めていました。

友人関係に悩み、自分のアイデンティティに目覚める中で、本の世界にどっぷりと浸かっているのが一番安心していられる、心地よかったのです。
そして、夏休みに「大地」を読んだこともそうですが、先生からの賞賛が、宝物のような読書の原体験となりました。

両親ともに教育には熱心な方でしたが、本ばかり読んでいると
「本ばっかり読んでないで、家の手伝いをしなさい!」
とよく叱られたものです。読みだすと夢中になって、どんな声も届かない私に手を焼いていたようです。

この歳になって、誰もとやかく言う人もいない。読みたいだけ読める。
今後は息を吸うように読んで、息を吐くように書いて過ごしたい。

人と読書経験を共有する読書会と同人誌の発行は私の最良の道楽となっています。

台北への旅・・・自由過ぎる自分が嬉しくて

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2014年9月19日~21日
台北SOGOデパートの地下の鼎泰豐の前で
何故か、台湾でインドのサリーを着て、キャラクターの包仔(バオザイ)とパチリ!
この旅はただ旅するだけではなくて、30分間だけお志事をして、3時間、学習して、3日間観光をするという旅でした。

台湾1日目には、「魔法のしつもんキッズインストラクター養成講座」を、ファシリテーターのはにわきみこさんのクラスお約束のサリーを着て受講しました。
夜は、サリーでウロウロ…(^_−)−☆
日本ではあり得ない行動です。自由な自分に驚きでした。
鼎泰豊で小籠包、お茶屋さんでまったりと台湾のお茶を味わいました。
台北の夜は不夜城です。紗帽山温泉のBGMは昭和歌謡で、ちょっと不思議な感覚でした。
留学経験のあるはにわきみこさんの全力のアテンドのおかげで台湾の魅力を目いっぱい楽しみました。

2日目は、午前中は大稲進化街で生地屋、乾物屋をひやかしながら台湾を体感。
龍山寺など、台湾のお作法で長いお線香でお参りしたりしたりしたのですが、台湾はあまりにも蒸し暑くて昼間はあまり食欲がわかず、それゆえに、マンゴー氷の美味しさは半端なしでした。
午後からは、台湾在住の親子の皆様へ「なりたい自分になる魔法のしつもん」のワークの一部をファシリテートさせていただいた。
日本を離れて、日本人の良さをお子さんに伝えながらも、台湾人として生きると決めて立つ、親としてのその強さとしなやかさを垣間見ました。二つの国の間に生まれた子供たちのピュアさにも触れることができました。
夜は、MRT(地下鉄)で移動して、お粥やさんで食事。移動するにもたくさんの表示が親切で、台湾は優しい国です。

3日目は台風が台南を襲っていました。昨日まで、台風は何処に?と思わせるほどだったのですが、風は徐々に強くなってきましたが、台北は快晴。
東京組と別れて、関西組のすわさんスワッチと二人で単独行動。まずは、MRT(地下鉄)とバスを乗り継いで九份へ。大陸からの観光客でごった返す中、静かな茶房を選んで、ゆっくりお茶しました。
混沌に身を置いたり、まったりしたり、すべてが自由でした。
道を探して歩き廻り、バスに上手く乗れても、着くまでハラハラドキドキする。
これが外国旅行の醍醐味です。たまりません。
タクシーに乗ってもハラハラドキドキ、台北の運ちゃんは怖い。すごいスピードで突っ込みますから、笑ってられません!
台風で電車はキャンセルも出たりでしたが、そのおかげで、瑞芳でディープを味わいました。昼食は美食街でビーフン30圓で2人分です。
故宮博物院は広くて!足がパンパンになっています。1日かけて回るべきでしょうね。夜は、やっぱり小籠包!もう、それしか食べたくない。
最後はお決まりの全身マッサージに行ってノックダウン!お部屋に帰ったら秒殺で爆睡でした。

4日目、台風は去りましたが。まだ大豪雨の状態でした。
夕方の飛行機に乗るまでは、台北の峰圃茶荘で今日もまったり烏龍茶の甘さを堪能。戦前の東京の大学で学んだというお茶屋のご主人に教えてもらって䑓水楼でまたまた、最後の小籠包三昧しました。
そして、台湾、桃園空港へ。すごいエネルギーが満ち溢れています。我関西空港がアジアのハブ空港とはなれなかったのを見せつけられているようでした。
その後のインバウンドブームはこの時は知り由もありませんでした。

そして、台湾で遭遇した台風に追いかけられながら帰阪したわけです。
同じ台風が関西を直撃!二度同じ台風に見舞われるという貴重で奇妙な経験というお土産付きでした。
 
 

私は、何故遍路するのか・・・。

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2004年3月、54歳、この年より、春のお彼岸には行き当たりばったりな四国88カ所札所巡り、区切り打ちを始めました。最初の一歩は、就職する直前の娘と一緒に、63番吉祥寺から歩き始めました。

もう、覚えていませんが、不思議なお寺でした。桜が満開で、そこにいるだけで嬉しくてはしゃいでいる私たちを、単独で廻っていた年輩のお遍路さんが笑って見ておられました。バスで団体で来られる方とは一体感が無いのですが、歩き遍路同士は何となく言葉をかわさずしても同志としての一体感がありました。

それからは、とにかく自分の足で廻りたいと思っています。だからといって、ツアーがよくないとか、車で廻ることをよくないと思っているわけではありません。どういう方法であれ、その人のやり方でやればよしです。

この朝も気ままに発ち、行き当たりばっちりでした。その日の行程は7~8kmと大した距離ではありませんでしたが、歩き遍路の大変さを初回にして実感したものでした。 

その後、中国からの留学生と打った他は、ずっと一人・・・、いや、同行二人でした。

一人の歩き旅はいつも辛くて、それ故に、お接待をいただいたり、心をかけていただけることが有難く嬉しい。 

15年以上も区切り打ちしているのに、コンプリートできているのは阿波国だけで、ゴールは遥か彼方です。

定年退職したら、日程を取って廻る、それまでは少しずつ歩を進めておこうと思っていたにもかかわらず、フリーになって仕事量は会社時代を上回り、思うようにお遍路できませんでした。
昨年、仕事を整理して、さあ、これからと思っていたらコロナショックで、動けなくなりました。

何故遍路するのか?

お遍路さんに向かって一番してはいけない質問だそうです。でも、一番問い続けている質問であり、自身が一番答えたい質問でもあると思います。

問わず語りに語ってしまいます。

それは、修業なのか?現実逃避なのか?癒しを求めてなのか?チャレンジなのか?
そのどれでもでありました。
10年ぐらいたった時に、何故お遍路するのかを問いかけたときに気付きました。

一番一番、プロセスゴールを積み重ねて、最終ゴールを達成する。目標達成そのものだったと。
目標達成が楽しいから、時々、高次な感動が欲しいからだったのです。

お遍路を始めた動機は不順でした。
その前年の大失恋した大学生の娘とのセンチメンタルジャーニー。その帰り道を今治から自転車でしまなみ海道を渡った時でした。思いがけなくお接待を受けました。
「おかあさん、人から情けを受けるのって、こんなに嬉しいものなんやね」
 とそれは嬉しそうでした。それが、きっかけでお遍路を始めたのです。

人の情けをいただけることは心地よいことでした。実は、それは今でも変わりません。むしろ、今の方が心が動きます。年々、歳を重ねて歩くことが辛くなってからは、喜びは大きくなっています。そのおかげで何とか歩けています。

お接待とは受けるだけではなくてするものでもあるのです。お接待を返しながら遍路をする。わたしのするお接待はお話を聴くことです。これまで、たくさんの想いをお聴きしました。

いつも、自分も含めてですが、歩き遍路さんのセカンドライフにあって、自分を探す姿が愛おしく見えてこころに染み入るものがあります。

帰阪しても、しばらくは、体はここにあっても、魂は88番に向かって歩き続けている感覚がありました。
すぐにでも行きたいけれど、お大師さんからお声がかかるのはいつのことやら。この歳になって、後どれぐらい歩けるのか分かりません。だからこそ、無理をせずにコツコツ、コツコツ、何とか結願したいと思います。

少ないでしょうが、今年も春のお遍路さんは歩き始めておられることでしょう。四国も急激な気温の昇降でお遍路さんの体調が狂いませんように。どうかお気をつけて。

お遍路はやめられない。
この季節は、遍路道に落ち椿、山吹の花や山桜の花びらが夥しい。菜の花畑の前を歩くお遍路さんの杖についている鈴の音がちりんちりんとひびく。麦秋の畑が続いて、あるはずのないところでうどんやさんから出汁が匂ってくる。道は間違う、いつも絶対に。永遠に着かないような気がする。動物の鳴き声に怯えながら人が恋しい。もう歩けないギリギリでたどりついた遍路宿の温かさ。一人の宿はうら寂しい。帰宅するとホッとする。もっと滞在したかったのにとやさぐれる
だから、お遍路はやめられない。

私のお遍路は遊び遍路でお花見遍路。なので、寄り道だらけですが・・・。

 
 

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誰かの役に立つ喜びを多く体験してきてほしいから

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2010年9月から、60歳の定年退職後からこれまで、滋賀の中学校に「職業体験前のマナー講習会」をお届けに行っています。

2011年、東日本大震災のあった年です。震源地以外にも日本中が揺らいでいた。そんな気がしていました。

見ただけではいつもの中学生と何ら変わらない姿がありましたが、この地域では、いじめが原因の自殺者が出たことで、大きく報道されたこともあり、地域全体が大きく軸が揺らいでいると肌で感じるものがありました。

元々、中学生という年頃は、どうも物事に真剣に取り組むことに照れがある世代らしい、どちらかと言うとマナーを伝えるには手ごわい相手でした。

大人として、どう向かい合うか?
私はキャリアカウンセラーとしてまた、体験学習を受け入れる職場側として、保護者として多くの視点を持って向かい合ってきました。 

会社に勤めていた総務部時代、職場体験の中学生を毎年受け入れていました。

繊維メーカーでしたので、工場に体験配属をお願いしにいくと、必ず、まずはこう言われました。

「自分たちの仕事は生産を上げることである」
「中学生は足手まといになるから、生産性が落ちる」
「本音は断わってほしい」

そこで
「私が、常に巡回して目を配ってフォローしますから!」
お願いし倒して、引き受けてもらっていました。

ですが…、結果、生産性は落ちていなかったと思います。
職場に中学生がいると、工場の現場の人たちは、ええとこ見せたくて、いつもより頑張るのです。
現場の人たちは、優しく厳しく、本当によく面倒をみてくださいました。指導しているお顔が楽しそうでした。
中学生たちも懸命に聞いて働いてくれました。

職場がキラキラ輝いていました。 人の間は双方向で動くことを目の当たりにしたものでした。

私と一緒で、預かった人は昼間は仕事になっていませんでした。
中学生たちが帰った後残業して、仕事を片付けていました。

そんな私の体験談から講座は始まります。

たくさんの理解があってはじめて、職場体験できることを感謝をして職場に赴いてくださいとお伝えしています。 

ならば、感謝をどう伝えますか?

心は見えないから、形にしましょう。
マナーとは人との関係の潤滑油、感謝を表すことにも繋がる。
言葉と行動にする。
服装を整えることは、心を整えること。言葉に心を吹き込んで丁寧に。
心が伝わる仕草で。

ロールプレイングして、友達の姿に自分を見る。

そうして、最後は未来質問、10年後の叶えたい自分を描いて表現する。
そのために今できることを話し合う時間をとっています。

その年によって、生徒さんの傾向が違っていて面白いです。

元気な年、大人しい年、素直で扱い易い年、難しい年、歳(干支)廻りってありますね〜!
この年は、少し難しい年?だったかもしれません。
講座の直前に、先生にお叱りを受けていたとのこと…、それででしょうか、どんより感がありました。モチベーション下がっていたのですね。食いつき悪っ!と感じてました。

ところが、休憩の時の元気のいいこと、いいこと。そんな大きな声が出るんだ!って、クスッて笑ってしまうぐらい。
この写真は最後に未来質問をしている時間です。
10年後、どんな仕事をしているかを質問し合っています。
 
中学生にとって、マナーって思うだけでハードルが高いのですね。職場という未体験ゾーンに対する不安もある。まだ、まだ子どもでも、中学生にしかできないことがある。
それをお願いしています。
職場体験では、仕事をして、誰かの役に立って嬉しい!という経験をたくさんしてきて下さい!と。

教えません。お願いなのです。

その喜びの体験が、将来幸せになる種を蒔くことになると信じています。

コロナで届けることができなくなりました。職場体験そのものができない。先生方は苦労して、何とかそれをカバーしようとして、せめて座学だけでもとご依頼くださいましたが叶いませんでした。

私もお届けしたい。何とか、形を作ってオンラインで届けることができないか。それを今、模索中です。

子どもたちの成長は待ってくれません。中学2年生は一生で一回ですから。

本当は、経験をたくさん積んできてほしいけれど、せめてという思いでいます。

 

 

旅はうまいもんとご縁にあふれている。

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2020年10月、70歳、ひたすらホームステイの日々を過ごしていた。
出口の見えない状況でいつまでかかるかわからない。

ならば、小康状態のこの隙に、行ける限り遠くに行こうと考えた。
70歳まで仕事を続けた。
これからは、行きたいときに行きたいところに行こう。
これまで働き続けたご褒美にハワイホノルルマラソン10Kmを歩くつもりだった。
他にもあちこち行く予定でいたのに・・・
このタイミングでの新型コロナ禍だった。

GOTO使って行けるだけ遠くと思えど、選択肢は国内しかない。南の島か?北の果てか?
それで、利尻・礼文島への一人旅ツアーだった。

北海道稚内を訪れたのは49年ぶりだった。
稚内に若い日の記憶の切れ端を捜したが、見付かるはずもない。
北の果て、執着駅の風情も今はどこにもなかった。

あの日、駅から桟橋に向かう道に夥しい数の魚が落ちていた。
はらわたの飛び出した魚を踏むまいとよけて緊張して歩いた。
腐臭に息ができなかった。

たぶん、この道がそうだろうと思うけれど、そんな影は今はどこにもない小ぎれいな街になっていた。

そこには情緒あふれるアーチ型の北防波堤というすばらしい歴史の遺産があったのに、魚を避けるのに一心不乱で目に入りながらも観ていなかったらしい。こんなに美しかったのに・・・。

昭和30年からやっているという寿司竜という鮨屋を覗いて、おまかせの寿司をつまんだ。そこでやっと、求めていた記憶の欠片を見付けることができた。

同世代ぽい親父さんに、49年前の魚がばらまかれていた話をしてみた。
あの頃は魚がいくらでも獲れたそうだ。
トラックに山積みだったから、いくらでも落として行った。
魚は肥料にするしかなかったという話をこともなげに話してくれた。

学生の貧乏旅で、北海道まで来ているのに、北海のグルメには縁がなかった。当時はグルメという言葉もなかった。

やっと、あの時の心残りを果たすことができた。

お腹も満たされたが、それ以上に心が満たされていた。

私と同じく一人旅の女性と札幌から転勤でという若い人が一人で飲んでいた。
常連らしい男女が後でやってきた。

「おひょうが揚がってたから買ってきた」

親父さんが最高のネタばかりで握るよと言う。そういうお寿司が旨くないはずがない。

二皿目は、ウニ、いくら、数の子だった。たぶん、しばらくはこの上をいくものには当たらないだろう。

旅の鉄板は地元に古くからある店に行くことだ。旅の間、何度も海の幸が並んだけれど、ここの寿司が秀逸だった。


今回はGOTOキャンペーンを利用しての一人旅の団体ツアーだった。
一人旅だけどひとりぼっちではない。いい塩梅な一人具合には満足していた。

旅の喜びは人との出会いでもある。一人旅同士が湯につかりふれあう。食事は、コロナ対策故に、ソーシャルディスタンスを保ちつつ、一方方向を向いてのお食事だったけれど、それも後の語り草だ。これもよしとしよう~。

帰ってきて、4か月、ご縁が繋がった。美味しいもの繋がりだ。
「美味いもんコンシェルジェのだかずこの偏愛自分史」を書くことになった。
利尻・礼文島の旅から始まったご縁である。有難い日々を送っている。

 

参考写真


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満たされて・・・。また逢おうね。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2014年2月、64歳の冬、阪大病院にらぶちゃんのお見舞いに行って来た。

京都のお寺でディープな心理学の勉強をした仲間たちがそれぞれの思いを込めたお見舞いを手にらぶちゃんはこんなに笑っていた。

でも、その夏に、あなたは逝ってしまった。

その前年の10月に山形で、魔法の質問認定講座を受けて、直後に開いたキッズのための質問ライブをらぶちゃん、受けてくれました。そして
「母ちゃんたちを元気にしたいから、早く!トレーナーになって、私たちをインストラクターにして!」
と私を急かしたよね・・・。

11月に東京で、養成講座を受けて、キッズインストラクタートレーナーになって、12月にインストラクター養成講座1期を開講したけれど、そこにはラブちゃんはいなかった。
重篤な病に倒れ、臨死体験を経て、それでも、やり残したことを片付けにきたかのように還ってきたのでした。
そして、4月に養成講座を受けてくださいました。あなたのシェアは深い真理を、宇宙から届けてくれるようでした。

周りには大変なことが続いても、らぶちゃんはやわらかく笑っていた。

落ち着いたら、子育てをするお母さんたちを、シニアが援ける活動をあなたと一緒にできると思って疑いもしなかった。

ラブちゃんが逝ったなんて知らないまま、大阪城にいたあの夏盛り。
あの夏の日の夜は、京都のホテルでたくさんお話しするつもりだったのに・・・
何にも聞けないままにお別れは突然に訪れた。

あれから数年は片翼飛行を続けているような感覚から抜けられなかった。
一人で養成講座を毎月開講して、優しかったあなたを折々に感じながらその遺志を繋いだ。

時が満ちて、いつしか片翼飛行の感覚は消えた。残されたものが、命のことを考えて、人を想い、その思いが満ち溢れたときに初めてお別れの時がやってくる。それはね、悲しいけれど、次につながっていくんだと思った。

あなたの体はなくても、あの京都のお店にあなたの魂はあの席で私たちと居た。
でも、あなたが用意した花を盛る予定だったドラえもんのマグカップだけが届いたとき、届けてくれる人がいて初めてここにあると知った。
らぶちゃんの命が教えてくれたのは、魂が永遠であること。でも、肉体がなければできないことがある。よく生きて!ってことでした。
あれから、私は、魂を愛のシャンパンで自ら満たして、多くの人に届くように溢れさせて生きることができました。今の私があるのは、あなたが教えてくれたから。

この年は、御岳の噴火や、広島の土砂災害と自然災害の多い年でした。
来る年も、来る年も、大きな自然災害が寸断なく続くいて、悲嘆にくれる人々を見続けている。昨年からは新型コロナ禍が加わって、これまでの当たり前が崩壊しました。

らぶちゃんは、今起きているコロナの世界を知らない。
若い人にとっても大変だけど、今の私たちは、年齢で制限をかけられて、その中で生きることを望まれている。そのことは守ろうとしてくれてるんだとわかっているけれど、結構、揺らぐのですよね。

あなたならこんな世の中をどう思う?どう生きる?あまりにも多くの情報が飛び交って、自分の軸がないとつい揺らいでしまう。一歩、家から出るにも、決めて出ないといけない。あなたなら、どう行動するだろうか?

今度、逢うときに、コロナで変わってしまった世界をどう生きたか。
笑って話せる。そのときのためにもしっかりと生きようと思う。

そうそう、らぶちゃんが体に当てているこのチュニックは私が縫ったもの。よく着てくれていたな・・・。
ありがとうね。
らぶちゃんの魂が愉しいと、私たちも愉しい。私たちが喜ぶと、らぶちゃんの魂も喜ぶ。
また、逢おう・・・。さよならは言わない。それは逢うまでの約束だからね。

愛の旅、早春の極東ロシアへ

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2013年4月1日、当時63歳の早春、極東ロシアへの旅。

ハバロフスクの小学校の2年生の教室で「日本のマナー」を紹介する授業が終わった後の記念撮影である。校長先生と担任の先生とクラスの子どもたち、旅の同行者の加代子さんと私が写っている。撮影は、ロシア人のジーマ(愛称)。通訳も彼がしてくれた。

数年間、地元の大学で留学生へのガイダンス時に「日本のマナー」を伝えていた。
ジーマは2010年度の後期の交換留学生だった。講義が終ると、すぐにそばにやってきて「先生の講座はどうしたら履修出来ますか?」とても丁寧な日本語で聞いてきた。それが始まりだった。留学生とはたいていが一期一会のご縁だった。毎年咲いて散っていく。まるで桜のようだと思っていた。が、ジーマはそうではなかった。

ジーマはロシア、ウラジオストクからの留学生だった。流暢に日本語を話し、合気道や書道を得意とした。そして、書家としての弘法大師を研究していた。帰国するまでに、私たちの国際交流のボランテアのイベントに積極的に参加してきた。

帰国後は通訳をし、閑散期の冬季には日本にやってきた。四国88カ所も歩き遍路した。ご縁は途切れずに続いていた。

芸術学院でダンスの振り付けをしているジーマのママが日本舞踊を学ぶために私の友人宅でホームスティすることになった。その友人との極東ロシアの旅だった。もちろん、ジーマのガイドでの旅だった。ジーマは張り切って超スペシャルなスケジュールを組んでくれた。

ウラジオストクでは、大学でセミナーを受けたり、浦潮旧日本人街をはじめとして街のあちこちを散策した。APECのために街は大掛かりな整備が進んでいた。その反面、旧市街の歴史のある建物や石畳みの街路や寺院は手つかずのままだった。美しい街だった。軍の港が流氷で凍結する上を着物で歩き回った。ダンスの授業を観察したり、民族博物館をたずね、20世紀のロシア音楽のコンサートにも行った。

シベリア横断鉄道の寝台でウラジオストクからハバロフスクまでは夢のような一晩だった。夜中に目覚めて観た満天の星空、月光に照らし出された白樺林、凍る平原から上る朝陽…。今もくっきりと浮かびあがってくる。憧れのシベリア鉄道の旅をした。

ハバロフスクは、ウラジオストクを少し近代的にした感じの街だった。どこに行ってもロシア正教の教会が美しい。アムール川は結氷していて、はるばると白い世界が続いていた。そこにいることだけで感動だった。

子どもたちは小ぎれいな服装をしていて、裕福な子どもたちの通う学校だなと思ったが、当日は日本からのお客様ということで、特におしゃれをしてくれたらしい。よく躾けされているのか、私たちが珍しいのか、総じて大人しい。人見知りなのかもしれない。「日本のどんなこと知ってますか?」と聞くと、「す~し」というお答え。最近、回転すしができてブームらしい。

割りばしで大豆をつまんだり、お辞儀や正座のデモンストレーションをしてロープレさせたら、子供らしくきゃきゃと声を上げていた。世界中、子供はいいなぁ・・・。

子どもたちが日本という国に親しみを覚えてくれたらそれだけで、わたしたちが小学校を訪問したことは小さいけれど国際交流に一役買うことができたのかなと思う。

ジーマは最高のガイドだった。観光旅行では味わえない旅をさせてもらったことには感謝しかない。4軒の個人のお宅で家庭料理のおもてなしを受けた。家族の誕生日の御馳走もお相伴した。ロシアの人たちの日常の生活の場に招き入れてもらえた奇跡のような出会いと旅だった。人とのご縁がもたらした奇跡だ。

富士山が世界遺産になり、この頃から、心斎橋を歩くと外国人ばかりになった。この旅の次の年には、関西空港からウラジオストクに向けて直行便も飛ぶようになった。インバウンドで賑わう直前だったらしい。それも新型コロナショックで今は見る影もない。
あの頃は、国境だってひょいと超えられた。当たり前のことが当たり前にできなくなって思うのは、私たちはいつも奇跡の中で生きているんだってことだ。

そして、ジーマは、多くの出会いを経て、今は日本で僧侶になっている。大阪のお寺の副住職だ。そのことも奇跡だ。人は人との出会いで作られる。私との出会いがもし何かをもたらしているとしたらと思うと、これからも出会いを大切にして、ご縁を深めていきたいとそう思うのだ。