私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

ほろ苦い味のはじめての海外旅行・・・シンガポール、マレーシア

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1996年3月、46歳の春。
新入社員研修が終わった。
公立高校受験に落ちた娘を一人家に置いていた。
心がキリキリと痛むきつい仕事だった。
会社は遅れてきたバブルでいつもの倍ぐらいの新入社員を抱えていたのです。

研修が終わって配属したその日の夜に関空から発つシンガポール、マレーシアのツアーに駆け込みで申し込んだ。
関空が開港して、週末前日にギリギリまで仕事をして夜から出発するアジアへのツアーがたくさん出ていました。しかも円高のおかげでかなり格安だったのです。

娘は私立の女子高に行くことになりましたが、後々、そちらの方に多くのご縁があったことが分かりますが、この時点では15歳の挫折は相応なものだったでしょう。一緒に居てやれなかったことへのつぐないと、気持ちを切り替えて次に進ませるための旅でもありました。そして、私にとっても赦しと切り替えの旅となりました。

マレーシア、バトウ洞窟で同じツアーに参加していた青年も一緒に写っています。

彼は、京都の八幡市から商業高校で商業の先生をされているおじいさまと参加していました。おじいさまはホテルに着くと、盛沢山に用意されたスケジュールをこなすのに草臥れて早々と就寝してしまう。その後は、いつも遅くまで私たちの部屋に来て遊んでいました。

「あの子もかわいそうでなぁ・・・」
 おじいさまがこんなふうにお孫さんのことを話してくださいました。
昨年の阪神淡路大震災の折に、某大学の地震の研究者だった父親が、震災後の過労で亡くなり、そのショックで孫は昨年、受験に失敗した。浪人をしてこの春再挑戦したが、志望校には落ちて第2志望の大学の原子力学科へ進学することになった。なんとか、気持ちを切り替えさせてやりたくて連れてきた。と・・・

なんという巡りあわせだろう。
それで、あんなに初めて会ったというのに、他にも同じ年頃の参加者もいたのに、私たちだったのだろう。
まさに類似性の法則まるできょうだいのように心を許している姿が目に浮かびます。

シンガポールマーライオンはミーハー心を満たしたし、アジアの混沌のエネルギーにテンションは上がった。
乗り鉄の私が憧れのマレー鉄道でのショートトリップ。車窓の風景に癒されていた。現地の人たちの素朴な笑顔が人懐かしい。海外という非日常に癒され励まされたのは私も同じだったのです。

旅で出逢った一期一会の人のことを想う。
今頃、彼はどうしているのだろうか。父親の後を追って、研究者になっているのだろうか。地震原発・・・、その中でどんな人生を歩んでいるのだろう。

1か月後、そのときの仲間が集まって写真交換したり、旅の思い出話で盛り上がったりしたことがありました。他の人たちにとってもあの旅はいい旅だったのです。

そしてその帰りになんと、娘は駅の階段から転げ落ちて、アキレス腱を傷つけてしまいました。そのことがもたらしたのは、ちょっとした運命の書き換えだったかもしれません。ソフトボール部ではなくてなぎなた部に入部することになって、娘の人生になにがしかの影響を及ぼすことになるのです。

娘は高校、大学の部活では研鑽を重ね、結果を残して、大いに喜ばせてもくれましたが、相変わらず次々といろいろなことをやらかしてくれて、ずいぶんと親力を鍛えてくれたものです。今は母親になって、子どもから鍛えてもらっているようです。

そんな旅でのちょっとほろ苦い思い出です。

娘とのあんなことも、こんなことも、あれからも、これからも、どんな小さなことも覚えていたい。そう思っているわたしがいます。

 

 

懐かしい山の友へ

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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1996年から1999年、40代後半、この頃の山友はこの人だった。

1999年11月白馬岳でのショット。白馬三山縦走の予定だった。
白馬山荘で朝起きたら雪がついていた。アイゼンはあったが、縦走せずに大雪渓を下るようにと言われた。
この大雪渓が痩せていて危険極まりないコースで苦労したものだった。
会社の後輩で、かなり年齢差のあるにもかかわらずの山友だった。

会社では大卒採用の仕事をしていた。
バブル期には採用したくても、繊維製造業は3Kとあって学生からはそっぽを向かれていた。
上司たちは苦戦していた。
そんな折に、常務から君の方が採用担当に向いているのではないかという無茶振りで担当に抜擢された。

いやいや、それはご時勢のせいで、私に丸投げされても困る。
だけど、やりたい仕事ではあった。自分の力を試したかった。

それまでは、大枚をはたいて広告を出して、R社の言うがままの採用活動を展開していた。
その結果は現場からの苦情となり、ミスマッチ採用の犠牲者を生んでいた。

先ず、採用広告を実情に近付けた。それからはミスマッチを起こすような学生は来なくなった。
そして、バブルは弾けて、世の中は就職氷河期に入っていった。
中堅企業にも採用のチャンスが巡ってきた。

先ず、現場が欲しがっている人材を詳しくリサーチした。
試験室の品質試験や実験のできる人材が欲しいという。
研究者は要らないから、基礎知識があって人あたりのいい人物という。
そうそう思うような学生がこちらを向いてくれない。
とにかく、帯にするには短かくて、襷にするするには長いのである。

そんな時に、ピッタリの学生に出会う。
でも、問題があった。地方出身の女子だった。
それのどこに問題があるのだろう。しかし会社からはそれが理由で待ったがかかった。
だから、まず現場からOKをとった。それで採用に漕ぎつけた。

そんな彼女は、誰よりも仕事に誠意をもって取り組んでいた。
表向きは会社には馴染んでいるようだったがそうでもなかった。
会社以外で自分の居場所を作るしかなかったようだった。

すっかり安心していた。
数年後、彼女にはただならぬ哀しみが張り付いていた。
親に反対されている恋愛が理由だった。そこが唯一居場所だったのに破局した。

山に誘ってみた。

彼女とは、近郷の低山から、白馬岳、表銀座縦走、立山三山、涸沢から穂高小屋、春の千畳敷カール、由布岳伊吹山と書き出してみたら、こんなに一緒に登っていたんだ。

いつまでも旧態依然とした会社にあって女性であることの不自由さ、自分が受けたような理不尽な扱いから守ってあげたかったんだけれど、それも儘ならず、せめて山で元気になるならと、そんなことでもいいから力になりたかったんだと今は思う。

まさに、先ごろの東京オリンピック組織委員会を辞任した森元会長の発言が物議をかもしている。全然変わっていないんだと愕然とした。

私も同じようなものだった。
私は大学を卒業して親の会社に勤めた。決して周りからは受け入れられなかった。
そんな中で、それぞれの道に進んだ友人たちを遠くに感じた。
山岳会に入って山にのめり込んで、寂しさや口惜しさをないことにした。

結婚して、一度は山から遠ざかったが、少し子どもが大きくなったら、また子連れ登山した。子どもたちが成長して、それぞれの世界ができたら、山には付いてきてくれなくなった。その代わりに彼女が現れたのだ。

私は、常に山友に恵まれてきた。
彼女が結婚して退職した後もすぐに誘ってくれる仲間ができた。
それからも途絶えることなく、また別の仲間が見付かった。
引っ越してきたマンションにも歩こう会があって近郷の山に登ってきた。

これまでの山歩きと山友たちを同時に懐かしく思い出す。
それぞれの事情で、ずっと続いている山友がいないのがさみしい。
今も山に登っている人はほとんどいないようだけれどどうか元気でいてほしい。

彼女は年賀状の家族写真では二人の高校生の母になっている。
あの頃の私と同じ年頃になっているようだ。

表銀座を縦走したとき、北アルプス三大急登と呼ばれる合戦尾根を上がった。
合戦小屋で食べたスイカの味を彼女は覚えているだろうか。
頂上に立つ充足感を覚えているだろうか。

コロナが収束したら、山から便りでも出してみようかと思う。

 

 

 

 

 

君はこの世での愛の学校でもっと学べ!

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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 その出来事は高校3年生の2学期に起きました。

 夏休みも終わり、その頃の高校生にとって、青春の一大イベントだった体育祭も終わり本格的に受験勉強一色に染まる直前のことでした。
すでに受験勉強に集中している人たちのほうがむしろ多かったかもしれません。なかなか集中できない。そんな中、やっと受験勉強に本腰を入れたばかりでした。

 クラスメートたちから、ある家に呼び出されていました。そこでは何人かに囲まれて、耳を覆うような言葉を浴びせられていました。集団による言葉のリンチでした。そこにいたのは今も誰だったか覚えていない。同じ顔をした人たちばかりだった。誰がそこにいるのかわからないけれど、一人だけ顔を覚えている。なぜ?あなたは私の側ではなくてあちら側にいたのかがわからなかった。

 耐え切れず、途中で逃げ出して、下町を流れる汚れた川まで来た。逃げ続けても、それらの言葉は追いかけてくる。橋に夕陽が落ちていく。

 こんな汚い川では死ねやしない・・・。

 当時のことをあまり覚えていないけれど、胸が苦しかった。墜ちていく夕陽のディテールだけが、今も目の裏に貼り付いている。

 頭が切れるリーダーとも見えるが、私にはガキ大将にしか見えない。そんなクラスでも目立っていた男子がいました。いいことも悪いことも周りの数人を巻き込んでやっていました。硬派を自認する受験校で3年生ともなると、上位大学を狙う連中は、もう彼のようなふるまいはしていないというのに、つい巻き込まれて、一緒にバカをやっていました。

 女子数人から理不尽な集団つるし上げにあったとき、仲裁に入ったのが彼でした。
何故こうなったか、その原因を考えたとき、頭をよぎることがありました。そして、誰よりもそのことに彼が気が付いていなかったことがますます事を複雑にして行ったのです。そんな状況でもいい子でいたかったし、傲慢な女と思われたくなかったので、全くその核心には気が付かないふりを通しました。

 誰かが際立つためには、誰かがはみ出される。出る杭は打たれる。
主犯はクラスの人気者だった女子。彼女の心に巣喰っているものの正体が見えていた。
子どもの頃から何故か人の心が見える。他の人には見えない顔が見えてしまう。それも原因だった。そういう自分を嫌悪した。

 彼女は歪んでいた。彼女たちの恋愛(友情)至上主義をどこかでバカにしていた私も歪んでいた。中学時代に優等生の女子グループにいたしんどさから、高校では群れなかった。そのことから投影の的にされた。的を作って徹底的に叩くという集団心理の罠に鈍感で気が付かずに巻き込まれていった。そして、自己否定が始まり、すべては自分の奢りから始まったんだと思い込んだ。私は誰からも愛される存在ではない。どんどん自己否定の積み上げていきました。

 何故、あの人があの中に、あちら側にいるの?
家族ぐるみで援けようとした友だちがそこにいた。親の善意まで踏みにじられたような気がして悔しく悲しかった。そのことはトラウマになった。人に対して臆病になった。
 怒りを鎮めようとすると哀しみになって、自己否定と自己不全感のループに陥っていきました。

 自己不全感から死を考えてしまう。孤独感と死の誘惑から逃れるためにひたすら勉強をしました。そんな出来事はなかったことにして、なにもなかったように振舞いました。
 私、傷ついていませんから!なにくそと思って勉強していましたから、受験勉強を辛いと思うことは全くなくなりました。むしろ、そこに没頭することが楽しかった。

 クラスで孤立した私の傍にいたのはいつも彼でした。そのことが迷惑でした。それでますます事は悪化したのですから。
 彼の成績はどんな時も上位でした。どちらかというと劣等生の私が死に物狂いで勉強し始めて、一部の教科はわりに早く追いついていきました。
 きっかけは忘れましたが、実力テストの点で負けたらデートするという賭けをさせられます。全教科では全く歯が立たない。得意な日本史と国語で賭けをすることになります。結果は学年順位で日本史10位、国語が2位!勝った!と思ったら、彼は5位、1位だった。なんと、これまでで一番勉強したらしい。
 結果、なけなしのお小遣いをはたいて、観たくもない映画を観ることになりました。

 文学に早熟だった彼からは大きな影響を受けました。受験勉強の合間に真似事のような文学論をたたかわせました。その姿は、またまた周りから冷ややかに見られていたことでしょうが、そこは二人の世界でした。
 大学は国文学を目指していたので、彼は解っていないけれど、おかげで合格したようなものでした。そして、志望した道を歩むことができました。結果はオーライだったのでした。

 何もないような顔をしてやり過ごした数か月。やるべきことに集中する姿を見て、謝罪をしてくれた人もいました。卒業するころ、私の心の中以外はなにもなかったかのようになっていました。本当はもっと向き合った方が、お互いの為だったと、今は理解しています。

 そこからのギフトは、思春期にあって心の痛みとの付き合い方を知ったことでした。
メンタルは少し強くなったかもしれません!

 ずいぶん長い間、思い出せない、思い出したくない状態でした。ずっと人生最大の汚点だと思って蓋をしていました。そのせいで、手を差し伸べてくれた人さえ、いなかったことにしてしまいました。
 ただ、ただ、ごめんなさい。やっと謝ることができました。
 別々の大学に進学して目の前にいなくなると、何もかもないことにしたくて、彼の存在もなかったことにしました。今から思えば人生最大のギフトだったのに、気が付くのは数十年後でした。

 人の心理を学んだ今は、自分も傷ついていたけれど、クラスメートたちも傷ついていたことに気が付きます。そして、大切な人だった人も傷付けたことに愕然とします。
 気付くのに膨大な時間がかかりました。今は謝罪すらできない遠いところに行ってしまいました。

 そこにある心の痛みをないことにすると違うところに出てしまうということを体感したことがのちにカウンセラーとしての大きな資産となりました。
  あの頃は自分のプライドが一番大切だったのだろうと今は思います。
守りたかったのはプライド!だったって今さら気付く。そして、誰かに甘えたかったんだなって思う。

 今は亡き旧い友が、何が大切なのかを教えてくれる。君はこの世での愛の学校でもっと学べと教えてくれています。
 ありがとう。やっと、一つづつ罪悪感から解放されていっています。
もう少し、後始末してから、そちらに行きます。そのとき、きちっと謝らせてください。そして赦してほしい。
 最近は、あの頃のようによく本を読んでいます。最近の文学の話をしてあげることにしますね。

 

 

質問でホスピタリティマインドが育った!

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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2013年4月18日

その日のFBの投稿をアーカイブで見ると

大阪で観光業界各社からの新入社員の集合研修。
そのために向っています。が…(~_~;)
阪和線の50分遅延で焦っています!30分余裕を見て出ていますが、ダメかも!
時間管理を伝える立場なのに…!
もう着きます!これから走ります!では!
 
===================
 
そんな投稿をしていました。
 
その日の研修場所は、阪急梅田の繁華街の中にありました。
何とか時間には間に合いますが、人ごみを分けて必死で走る研修講師63歳の姿が目に浮かびます。
 
その日のプログラムは、接遇訓練「言葉遣い」。
クライアントさんからのご要望は訓練を通じて「ホスピタリティマインド」を育てるでした。
 
どうしたらホスピタリティマインドが育つのだろうか?
そのためにはどんな質問をしたらいいだろうか?
 
魔法の質問というコーチングを紹介してくれた先輩のお薦めの質問が
「目の前の人を幸せにするためにどんなことができますか?」
だったのです。
 
そして案じた一計です。
まず、それぞれのゴールを設定してもらった後は
はじめて隣り合わせた同士でこの質問に答えて伝え合ってもらいました。
「笑顔で接する」「積極的に話しかける」「話を聴く」
「飴をあげる」など・・・
 
そして
「この質問はみなさんのホスピタリティをあげるための質問です」
「今日の最後の時間を使って、どれだけ育ったかをテストしますね」
「この質問を意識して一日、研修に取り組んでくださいね」
とお伝えしておきました。
 
発声練習から始まって接客用語や敬語の課題に取り組みながら
リッツカールトンの素晴らしい接客モデルなども交えて進めました。
 
最後は「ホスピタリティが育っているか」を確かめるための課題です。
「みなさんはホテルマンです。フロント業務をしていると、数人のまだ幼い子供さんたちがキャッキャと走り回っています。他のお客さんはちょっと迷惑そうです。お母さんたちはロビィにいて、談笑なさっています」
「さて、2人1組で役割を分担して、どう対処するか考えて、それぞれのところに、学んだ言葉遣いに留意して話をしに行ってください」
「相談ができたら、前に出てきてそれぞれに演技をしてください」
「あ!お母さんたちは、いつも子育てで大変!今日は非日常を楽しんでおられますよ」と釘を一本、忘れずに刺しておきました。
 
30人の研修生だったので、15組です。さてどうなったか・・・。
 
たった一組も「他の方のご迷惑になりますので、静かにしてください」はなかったのです。
それぞれに、絵本コーナーや親子コーナーだったりを設けて案内したり、快適に過ごしてもらう工夫していました。
 
なかでも圧巻が、27歳の男性でした。
「子どもたちの前に思いっきり笑って大きく腕を広げて立ちます。そうしたら、必ず子どもたちはこの腕の中に飛び込んできます」
 一体、彼の前職は何なんだろうか?このゆるぎない自信はどこから来るのだろう。
「僕は、いつも子供たちが喜ぶシールを持っています」
 ほう、今なら鬼滅の刃ですね・・・
「みんな、このシール欲しいかな?静かにできたらこのシールをあげようと思うんだけど、一度お母さんに聞いてきてもらえるかな?」
 なるほど、そう来るのか・・・。アイデアだなと思いました。
 
それにしても、質問を介して、ホスピタリティの心が見事に育っていました。
感動しました。これはまさに魔法の質問だ!と心を打ち抜かれていました。
 
その秋には、これはどうしても質問のチカラを極めたいと思い、「魔法の質問認定講座」を受けるために山形にいました。
 
そして、質問によって、私の人生は変わりました。
それまではどこか不安とおそれを抱いていたあの頃とは違う
おそれからではなく愛からの選択ができる自分がいます。
 
研修会場のビルの下にはオープンカフェがありました。
時々、コーヒーの香りが漂ってくる。
繁華街のざわめきや、車が舞い上げる風を思い出します。
私は、27歳の彼やあの時の研修生たちとの出会いから
人生を変えてもらっていました。
「ツナグ」ことをミッションとしている。今に繋がっていました。
 
あれから、大阪はインバウンドに沸き、たくさんの観光客を集めることになりました。
活況の中を観光業界で生きる彼らはどうしていたのでしょうか?
そして、手のひらを返すような、コロナ下の試練をどう生きているのでしょうか。
あのホスピタリティの塊だった彼らが活躍できるそんな日が早く訪れるように祈らずにはおれません。
 
こんな中でも、今できることはあります。やっていこうと思うばかりです。
 
 
 
 
 
 

 

私の読書の原体験…中学一年生の夏

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1962年、12歳中学1年生の夏休み、林間学校で北摂の行者山の登山口での集合写真から切り取っています。

写っているのは、担任で社会科の斎藤先生と仲のよかった友だちで、私の読書に後々まで大きな影響を及ぼした二人です。

この夏休み、担任からパール・バックの「大地」が課せられて、というか、そう勘違いして、よくわからないままに「大地」全3巻を読了しました。

斎藤先生は現地で見ることに熱心で、ことあるごとに社会見学等に引率してくださいました。その後、担任から外れた次の年も、奈良へ古都探訪に行くという朝の集合にケネディ大統領が暗殺されたというニュースを持ってこられました。強烈な想い出になっています。

先生は、シベリア抑留からの帰還兵でした。その体験談や父の戦争からの生還体験を生に聞いたことは私の人生観に影響しないわけにはいきませんでした。

休日に、難波の橋の上で逢ったことがありました。先生は拡声器を抱いて、平和を訴えておられました。その橋のたもとには、傷病兵の姿をしてアコーデオンで軍歌を鳴らして物売りをする人もいました。

終戦後すでに20年近く経っていました。世の中は、「いつでも夢を」「遠くへ行きたい」が流行し、若者が夢を抱いたり、旅へ憧れたりできたいい時代でした。そんな矛盾をはらんだ時代に思春期の入り口にいました。

この頃の私は、写真の友だちのようには笑えていなかったようでした。
友だちは裕福な家の子で、多くの蔵書を持っていました。特に翻訳者が大半を占めていました。その頃、ベストセラーになった「野生のエルザ」「永遠のエルザ」も借りて読みました。おかげで翻訳ものに抵抗がなかったので「大地」が読めたのかもしれません。性格のいい人でした。何時も気持ちよく貸してくれました。
その頃の私は、貸してあげる本も持っていないし、何か返すことも持っていませんでした。そんな自分が友だちとして値打ちがないように思えて、友達の家に行くたびにぎゅーっと心が痛むような気持ちになりました。友だちのお母さんは、こ洒落たお菓子を作ってくれたり、なによりも言葉が標準語できれいな品のいい方でした。私の母は商売が忙しくてそんなものは作ってくれることはありませんでした。

我が家は商売をしていたので盛衰はありましたが、まだましな方で、同級生の中には、内職をしているような子もまだまだいて、貧富の格差は明らかにありました。私はそんなときにも何もできることがないことを心苦しく思ったものでした。

子ども心に家庭の環境で人はこれほど違うのかと社会の一面を見る体験と「大地」という社会派の大作を読むことで、大人への階段を上り始めていました。

友人関係に悩み、自分のアイデンティティに目覚める中で、本の世界にどっぷりと浸かっているのが一番安心していられる、心地よかったのです。
そして、夏休みに「大地」を読んだこともそうですが、先生からの賞賛が、宝物のような読書の原体験となりました。

両親ともに教育には熱心な方でしたが、本ばかり読んでいると
「本ばっかり読んでないで、家の手伝いをしなさい!」
とよく叱られたものです。読みだすと夢中になって、どんな声も届かない私に手を焼いていたようです。

この歳になって、誰もとやかく言う人もいない。読みたいだけ読める。
今後は息を吸うように読んで、息を吐くように書いて過ごしたい。

人と読書経験を共有する読書会と同人誌の発行は私の最良の道楽となっています。

台北への旅・・・自由過ぎる自分が嬉しくて

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2014年9月19日~21日
台北SOGOデパートの地下の鼎泰豐の前で
何故か、台湾でインドのサリーを着て、キャラクターの包仔(バオザイ)とパチリ!
この旅はただ旅するだけではなくて、30分間だけお志事をして、3時間、学習して、3日間観光をするという旅でした。

台湾1日目には、「魔法のしつもんキッズインストラクター養成講座」を、ファシリテーターのはにわきみこさんのクラスお約束のサリーを着て受講しました。
夜は、サリーでウロウロ…(^_−)−☆
日本ではあり得ない行動です。自由な自分に驚きでした。
鼎泰豊で小籠包、お茶屋さんでまったりと台湾のお茶を味わいました。
台北の夜は不夜城です。紗帽山温泉のBGMは昭和歌謡で、ちょっと不思議な感覚でした。
留学経験のあるはにわきみこさんの全力のアテンドのおかげで台湾の魅力を目いっぱい楽しみました。

2日目は、午前中は大稲進化街で生地屋、乾物屋をひやかしながら台湾を体感。
龍山寺など、台湾のお作法で長いお線香でお参りしたりしたりしたのですが、台湾はあまりにも蒸し暑くて昼間はあまり食欲がわかず、それゆえに、マンゴー氷の美味しさは半端なしでした。
午後からは、台湾在住の親子の皆様へ「なりたい自分になる魔法のしつもん」のワークの一部をファシリテートさせていただいた。
日本を離れて、日本人の良さをお子さんに伝えながらも、台湾人として生きると決めて立つ、親としてのその強さとしなやかさを垣間見ました。二つの国の間に生まれた子供たちのピュアさにも触れることができました。
夜は、MRT(地下鉄)で移動して、お粥やさんで食事。移動するにもたくさんの表示が親切で、台湾は優しい国です。

3日目は台風が台南を襲っていました。昨日まで、台風は何処に?と思わせるほどだったのですが、風は徐々に強くなってきましたが、台北は快晴。
東京組と別れて、関西組のすわさんスワッチと二人で単独行動。まずは、MRT(地下鉄)とバスを乗り継いで九份へ。大陸からの観光客でごった返す中、静かな茶房を選んで、ゆっくりお茶しました。
混沌に身を置いたり、まったりしたり、すべてが自由でした。
道を探して歩き廻り、バスに上手く乗れても、着くまでハラハラドキドキする。
これが外国旅行の醍醐味です。たまりません。
タクシーに乗ってもハラハラドキドキ、台北の運ちゃんは怖い。すごいスピードで突っ込みますから、笑ってられません!
台風で電車はキャンセルも出たりでしたが、そのおかげで、瑞芳でディープを味わいました。昼食は美食街でビーフン30圓で2人分です。
故宮博物院は広くて!足がパンパンになっています。1日かけて回るべきでしょうね。夜は、やっぱり小籠包!もう、それしか食べたくない。
最後はお決まりの全身マッサージに行ってノックダウン!お部屋に帰ったら秒殺で爆睡でした。

4日目、台風は去りましたが。まだ大豪雨の状態でした。
夕方の飛行機に乗るまでは、台北の峰圃茶荘で今日もまったり烏龍茶の甘さを堪能。戦前の東京の大学で学んだというお茶屋のご主人に教えてもらって䑓水楼でまたまた、最後の小籠包三昧しました。
そして、台湾、桃園空港へ。すごいエネルギーが満ち溢れています。我関西空港がアジアのハブ空港とはなれなかったのを見せつけられているようでした。
その後のインバウンドブームはこの時は知り由もありませんでした。

そして、台湾で遭遇した台風に追いかけられながら帰阪したわけです。
同じ台風が関西を直撃!二度同じ台風に見舞われるという貴重で奇妙な経験というお土産付きでした。
 
 

私は、何故遍路するのか・・・。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト  

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2004年3月、54歳、この年より、春のお彼岸には行き当たりばったりな四国88カ所札所巡り、区切り打ちを始めました。最初の一歩は、就職する直前の娘と一緒に、63番吉祥寺から歩き始めました。

もう、覚えていませんが、不思議なお寺でした。桜が満開で、そこにいるだけで嬉しくてはしゃいでいる私たちを、単独で廻っていた年輩のお遍路さんが笑って見ておられました。バスで団体で来られる方とは一体感が無いのですが、歩き遍路同士は何となく言葉をかわさずしても同志としての一体感がありました。

それからは、とにかく自分の足で廻りたいと思っています。だからといって、ツアーがよくないとか、車で廻ることをよくないと思っているわけではありません。どういう方法であれ、その人のやり方でやればよしです。

この朝も気ままに発ち、行き当たりばっちりでした。その日の行程は7~8kmと大した距離ではありませんでしたが、歩き遍路の大変さを初回にして実感したものでした。 

その後、中国からの留学生と打った他は、ずっと一人・・・、いや、同行二人でした。

一人の歩き旅はいつも辛くて、それ故に、お接待をいただいたり、心をかけていただけることが有難く嬉しい。 

15年以上も区切り打ちしているのに、コンプリートできているのは阿波国だけで、ゴールは遥か彼方です。

定年退職したら、日程を取って廻る、それまでは少しずつ歩を進めておこうと思っていたにもかかわらず、フリーになって仕事量は会社時代を上回り、思うようにお遍路できませんでした。
昨年、仕事を整理して、さあ、これからと思っていたらコロナショックで、動けなくなりました。

何故遍路するのか?

お遍路さんに向かって一番してはいけない質問だそうです。でも、一番問い続けている質問であり、自身が一番答えたい質問でもあると思います。

問わず語りに語ってしまいます。

それは、修業なのか?現実逃避なのか?癒しを求めてなのか?チャレンジなのか?
そのどれでもでありました。
10年ぐらいたった時に、何故お遍路するのかを問いかけたときに気付きました。

一番一番、プロセスゴールを積み重ねて、最終ゴールを達成する。目標達成そのものだったと。
目標達成が楽しいから、時々、高次な感動が欲しいからだったのです。

お遍路を始めた動機は不順でした。
その前年の大失恋した大学生の娘とのセンチメンタルジャーニー。その帰り道を今治から自転車でしまなみ海道を渡った時でした。思いがけなくお接待を受けました。
「おかあさん、人から情けを受けるのって、こんなに嬉しいものなんやね」
 とそれは嬉しそうでした。それが、きっかけでお遍路を始めたのです。

人の情けをいただけることは心地よいことでした。実は、それは今でも変わりません。むしろ、今の方が心が動きます。年々、歳を重ねて歩くことが辛くなってからは、喜びは大きくなっています。そのおかげで何とか歩けています。

お接待とは受けるだけではなくてするものでもあるのです。お接待を返しながら遍路をする。わたしのするお接待はお話を聴くことです。これまで、たくさんの想いをお聴きしました。

いつも、自分も含めてですが、歩き遍路さんのセカンドライフにあって、自分を探す姿が愛おしく見えてこころに染み入るものがあります。

帰阪しても、しばらくは、体はここにあっても、魂は88番に向かって歩き続けている感覚がありました。
すぐにでも行きたいけれど、お大師さんからお声がかかるのはいつのことやら。この歳になって、後どれぐらい歩けるのか分かりません。だからこそ、無理をせずにコツコツ、コツコツ、何とか結願したいと思います。

少ないでしょうが、今年も春のお遍路さんは歩き始めておられることでしょう。四国も急激な気温の昇降でお遍路さんの体調が狂いませんように。どうかお気をつけて。

お遍路はやめられない。
この季節は、遍路道に落ち椿、山吹の花や山桜の花びらが夥しい。菜の花畑の前を歩くお遍路さんの杖についている鈴の音がちりんちりんとひびく。麦秋の畑が続いて、あるはずのないところでうどんやさんから出汁が匂ってくる。道は間違う、いつも絶対に。永遠に着かないような気がする。動物の鳴き声に怯えながら人が恋しい。もう歩けないギリギリでたどりついた遍路宿の温かさ。一人の宿はうら寂しい。帰宅するとホッとする。もっと滞在したかったのにとやさぐれる
だから、お遍路はやめられない。

私のお遍路は遊び遍路でお花見遍路。なので、寄り道だらけですが・・・。

 
 

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