私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

2004年7月31日(土) 美しい母の顔

2001年からwebで日記をクローズで書いていました。
日記に書いていた母の看取りと
その周辺を改めて書き写しています。

16年前の7月30日に母が逝きました。

WEB日記に残された

その数日の記録や心のさまが甦ります。

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旅立って、一夜明けて

ますます母は美しくなりました。

こんな顔をしていたんだと思うほど・・・。


病院を出るとき

娘がチークをほどこして

ほんのりと赤味をさした頬と瞼

薄い口紅を引いた顔は78歳には見えない。

60代?50代?すっかり皺も伸びている。



一昨年、長年一人暮らししていた実家に

夜中に車を走らせて娘と迎えに行った。

這うようにして出てきた母の姿は

尋常ではなかった。



何故こんなになるまで・・・。

車の後部座席で

安心したのか、昏昏と眠る姿を

目の当たりにして

不安に胸をかきむしられるようだった

あの日から丸二年

母は痛みに耐えかねて苦しむばかりだった。



翌日、即入院。

そして、痛い、痛い日々。

リュウマチの急激な進行で

日を追って行動は制限されていった。

 

一人では立ち上がれなく

歩けなくなった。

 

座ることも、起き上がることも、

寝返りも打てなくなった。

 

認知症はすでに始まっていた。



介護度は5だった。

 

3ヶ月後、我が家から近い老健へ入所

娘と二人であらゆる手を尽くした甲斐あって

6か月後、介護度1まで回復した。


そして、弟の所へ引き取られていった。

 

家に帰りたくても

弟の家の近くに新しい老健ができた

渡りに船で入所することになった。

 

それから9ヶ月

次は終の住処となる予定のグループホーム

移ったその矢先に入院。


次の夏

リューマチとは別に

骨の溶解が見つかった。

 

そして、また痛いばかりの日々。

もう歩くことはできなくなった。
 
あれほど嫌がっていた紙おむつの

世話になることになった。

それでも、リハビリでよくなる

希望は捨ててはいなかった。


元気になって、もう一度、針を持ちたい。

着物を縫いたいと・・・。


もっと、もっと教えてもらいたいことがあった。

なんとか元気になってもらいたかった。



3ヵ月後、リハビリ病院に転院。

環境が変わる度に、認知症は進んだ。

環境に適応できるはずもない。

 

内向的な部分

悲観的な部分ばかりが面に出てきて

戸惑うばかりだった。


逢いに行っても

正視することができず

逃げるようにして帰ってくる。

 

優しくなれない

そんな自分が許せずに苦しかった。


 
痛みは軽減してても、車椅子の生活。

移動もできなくなって

リハビリ病院も3ヶ月で退院。

 

特養に移ると坂道を転がるように

認知症は進んだ。

 

親が壊れて行く姿に向かい合う日々だった。



特養に面会にいく度に認知症が進んでいた。

 

とうとう、動かすと、激痛を訴えるため、

なるだけ動かさずに済むように

大型の車椅子に1日中座っているか

眠くなるとリクライニングして寝かされていた。

 

表情すらなくなって

そして私たちが帰るときだけは

子供のようにごねて泣いた。

 


介護の現場は大変なのは分かるけれど…

どう見ても放置されているように見える。

 

これでだいじょうぶなのか?

施設への懐疑的な思いはあった。

 

連れて帰りたい!!!

 

けれど

ここまで進んでしまったら

プロに任すか仕方がなかった。


短期間で褥創は重症となり

専門のクリニックに入院。

 

手術しないと

感染症の恐れが深刻となり

手立てを施していただき手術した。



そして2週間

高熱が続き、敗血症を併発。

血液中ではブドウ球菌とキラー菌が戦っていた。

ガンマグロブリンも効果はなく

まず肺も腎臓も

そして心臓が菌に負けてしまった。
 
呼吸が困難となり

酸素マスクの下で

三日間喘ぐような息で生きつづけて

皆に別れを告げさせてくれて

そして逝きました。


この二年間

母の顔は苦痛にゆがんで

眉間には皺がきつく刻まれていました。


表情は消えて

目はうつろだったり

うらめしげだったり

元の顔はすっかり消えてしまいました。



今は
眉間の皺がすっかり消えている。

少し笑っているような安らかな顔。

もう、痛い思いはすっかり消えたのですね。



おかあさん、よかったね。

お浄土があるのかどうかわかりませんが

こんなに綺麗な顔で行けるなんて・・・。

本当によかったね。

 
澄ました顔で

挨拶している顔が目に浮かびますよ。

楽しそうですね。

顔を見ていたらそれが解りますよ。

明日は、お通夜、明後日、告別式等々・・・。

私たちも別れを楽しむことにしますね。

 

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一枚の自分史・・・1989年決戦の日曜日

テーマ:一枚の自分史「1989年決戦の日曜日」

 

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あの頃の我が家では
いつも夏休みの最終の日曜日は
決戦場になっていました。

母が働いていて家に居ないのをいいことにして
兄妹で遊び惚けて
夏休みの宿題を溜めるだけ溜めていた。

気が付いたら
夏休みはもうすぐ終わる。

最後の土日は
横に張り付いて
深夜まで親子で宿題を片付ける。
私は鬼のような顔をしていたことだろう。

もう堪忍して~!

1989年
上の子は中学1年生男子
下の子は今の孫っこと同じ小学校3年生女子
「夏休みの宿題が早く終わっていたら
何処でも好きなところに連れて行ってあげるから」
という、エサで釣る作戦に出ました。

その年は、ギリギリ何とか終わらせて
めでたく旅に出ることになったのでした。

「独眼竜正宗」「武田信玄」など、その頃
NHK大河ドラマファンの上の子のリクエストは
川中島」に行くことと寝台列車に乗ることでした。

「シャレー軽井沢」(9503M~9318M/9319M~9506M神戸~軽井沢)1989夏臨
早朝、長野駅に着いたところだと思うのですが・・・。

何故か、ここに父親はいない。
たぶん休みが取れなかったのでしょうが
ワンオペ育児・家事の証拠がここにもありました。 

案の定、寝台列車、初体験に興奮して大はしゃぎの二人
私も、学生時代に北海道まで行くのに
寝台特急日本海」に乗った時以来
その頃に戻ったようで
同じようにはしゃいでいました。

よく考えたら
仕事と子育てに追われる日々
ストレスフルな職場にあって
帰省以外でこうして子どもたちと
列車の旅に出るのはとてもよいリフレッシュになりました。

小林一茶の庵
野尻湖を自転車で一周して
子どもたちのスタミナについていけない。
そんなはずはない。
ところが、無理したせいなのかどうか
休憩した喫茶店で実は血尿を見る羽目に・・・
当然、平気なふりをしていましたが
本当は、日々の激務とストレスで
疲れを溜めていたことに気づくことになりました。

もちろん、子供たちにはそんなところは見せられません。
若かったと思います。
一晩、家事から解放されて
美味しい食事と温泉ですっかり元気になっていました。
そりゃそうです。
まだ、30代だったのですから。

黒姫高原ペンションに宿をとって
コスモス畑で遊んだ。
コロコロと斜面を転がっていく娘の姿に
追いかけるどころか
つい大笑いしてしまって
おおむくれされて
ご機嫌を取るのにずいぶん苦労したこと・・・。

次の日は雨の善光寺のお参りして
川中島古戦場跡を訪ねました。
ここが武田信玄上杉謙信の決戦の場・・・

子どもの夏休みは働く母親の戦場でもありました。

夏のそんな旅のことを
40も越えたあの人たちは覚えているのでしょうか。

私にとっては宝物のような思い出です。

孫っこは、この時の娘と同じ小学校3年生。
娘も働いています。
夏休みは母親にとっては戦場
さぞかし同じ苦労をいるだろうと思いきや
孫っこは親に似ず
先にシンドイことは片付けて
後でゆっくり遊ぶ派でした。
どうやら、娘の方が子育て上手のようです。

そうそう
手のかかる兄妹でしたが
その年の決戦の日曜日を境に
ちゃ~んと宿題だけはやる人たちになりましたので
どうかご放念ください。

 

一枚の自分史とは

一枚の自分史の発案者で㈱河出書房の代表者の河出 岩夫さん
こう語っておられます。
一枚の写真や絵から語り継がれる自分史。
人生という大きなパズルのほんの1ピースを切り取って、
思い出の写真とともに短い自分史にまとめてみる「一枚の自分史」。
自分史入門に適しているだけでなく、
10枚、20枚と書き溜めていけば、
やがて一冊の自分史になっていく楽しみがあります。

 

 

 

わたしの幼少時の自分史がここにもあった。

自分史でできることは何だろう?

今日のしつもんZEN瞑想から

忘れていること。
忘れたいから忘れたのか?
思い出したのなら
何か意味があって、そういうタイミングだったのだろう。

瞑想に入って
「自分史で何ができるのか?」と質問を置いてみた。

いきなり、そういきなりだった。
幼い自分へと還っていた。
2歳か3歳の私。

家の前で遊んでいる。
前には国道26号線が通っている。

ジープが止まって
若い米兵たちが下りてきて
何かを話しかけてくる。
「可愛い子だね~。こんにちは。何をしてるの?」

暫くはきょとんとして固まっているけれど
そのうちにうわーんと泣き始める。

米兵たちは
ソーリー!ソーリー!と言って
チョコレートやビスケットを持たしてくれる。

覚えているわけではない。

少し大きくなってから親たちから聞いたこと。

その頃、国道沿いに行くと浜寺に米軍の駐屯地があって
よく、家の前をジープが通っていた。

「最初から泣いて逃げ出していたらお菓子はもらえない」
「いつもお菓子をもらってから逃げてきたもんな~、この子は」
と笑って親たちが話していた。

泣かないし、逃げないから嬉しそうに兵士たちは構いに来たらしい。
「きっと、国に同じ年頃の子どもがいるんだろうな~」
みんなが優しい顔をしていた。

そのことを思い出していた。

渇えていたんだ。
その頃は、誰もが・・・
突然、哀しみがこみあげてきた。

お腹がすいているし、お母ちゃんもまだ帰ってこない・・・。
まるで子供が泣きじゃくるみたいに泣いた。

覚えてもいないのに
若い米兵たちの顔が優しい父親の顔に見える。
人と人が殺し合う戦争が悲しくてまた泣けた。

これは瞑想じゃないな・・・
これじゃ、ヒプノセラピー
インナーチャイルドのセルフ療法やっているよな・・・。

潜在意識が表出してきて
今日は全く瞑想できずに終わってしまった。

そのことは
悪いこととは思わない。

むしろ、よくぞ出てきてくれたと感謝しかない。
わたしの幼少時の自分史はここにもあった。

書いておこうと思う。

今ここにを意識しないと
体勢を整え、深い呼吸をするだけで
時々どこかに行ってしまう。

日によっては
今ここよりも
行きたいところがあることにも気が付いてしまった。

そりゃ、行くよね・・・。

魂の呼ぶところへ。

戦争の記憶がそこにあるらしい。
今世のテーマがそこにあるらしい。

自分史で何ができるのか?
答えはそこにあるらしい。

そして
終わらない旅はこれからも続くらしい。

 

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親を送ったように

大抵は
人は親を送ったように子どもから送られる。 

必ずではありませんが… 

因果応報
世代間連鎖…

子どもたちは見ています。
親をどう送ったかを…。

私には、母の思うようには送ってあげられなかったという悔いがあります。
しかも、しばらくは、そのことをずっと誰かのせいにしてきました。

でも
自分が送られる側に立っていることを実感した時
誰も悪くしたくない。
そう思うのです。

子どもたちの行く手を阻むことはしたくない。
そのためには
どうしておくことができるのだろうか…。

考えながら、17年前の日記を読み返しています。

長くなります。

 2003年9月19日(金) 映画「折り梅」を観て

市の文化協会主催の映画鑑賞会に、
定時で仕事を切り上げていってきました。

 第14回東京国際女性映画祭で上映された松井久子監督
「折り梅」

老人介護を扱った映画で
同居を始めた夫の母親の認知症
徐々に進んでいくことから起る
嫁と姑、夫婦間、子供たちとの
さまざまな葛藤が描かれています。

今まさに自分がぶつかっているテーマを扱っているということで
以前から必ず観ようと思っていました。

娘も一緒でした。
娘は「そんな映画を観て、余計に落ち込んだりせんときや」
と言いますが…

「こういう映画には、きっと救いが用意されているはず、参考になることがきっとあるはず」と…。

娘は
プロローグの二人が歩いている姿を見ているだけで
涙をこぼしていました。
映画が始まって10分ぐらいから終るまで涙が止まりません。
途中嗚咽を漏らしそうになるほどでした。

夫に早くに死に別れ
4人の男の子を女手ひとつで育てた気丈な母(吉行和子)。
その母の痴呆を認めたくない息子は
介護に疲れ果て施設に入れたいと願う妻(原田美枝子)に
相談を持ちかけられても
「君がいいと思うなら・・・」と
肝心なところで逃げてばかりいる
そんな気弱な身勝手な夫(トミーズ雅

本当に我が家と同じで男はこういうとき頼りにならない!

施設へ送って行く道すがら
実の息子さえも知らない姑の過去
幼い日の生母との別れや若い時の苦労話を淡々と語るのを聞いて
同じ女として、母として、また子どもの立場として
姑を愛しく思い
もう一度がんばってみようと決心する嫁。

姑と参加したある集会で
「今までお姑さんを何回褒めてあげましたか」
と問われて
咎めたり、怒ってばかりいたことに気がつく場面があります。

帰り道、娘は
「あの画面、一番応えたなぁー」
「おばあちゃんにあかんことばっかり言ってたと心が痛んだわ!」
「何も褒めてあげていない!」
と・・・

「お母さんは、帯の縫い方習うことで、おばあちゃんのことちゃんと認めてあげてた」
「正解やな!」

いいえ、あなたの方がずっと巧まずにおばあちゃんを看ていたと思う。
私の方がずっと理で言い聞かせたり、難しいことを要求していたと思う。

映画はそれに気付かせてくれました。

誰でも褒められると嬉しい。
子育てと一緒。
年を取ることは子供に還ること。
できる範囲のことで、あるいは得意な分野で認めてあげなくては。

あと、子供に還るということに、過剰反応してあげないこと。
上手に合わせてあげることがいいのですね。
昔の話の中で自分が行ったこともない所でも、想像を膨らませているうちに行ったように思うらしい。

これはかなり早く始まっていたのを
今まではいちいち違うでしょと訂正していたけれど
害のない話なら否定せずに
「それで誰と行ったの?」
と話を続けてあげたらいいのですね。
やさしい表情で聞いてあげたらいいのですね。

原田美枝子さんの優しい表情のように穏やかに。
この人はほんとうに綺麗に歳をとられた女優さんですね。

呆けは神様の贈り物という。
老人が生きる智恵かも知れない。

わが母はリュウマチの苦痛や
家族と暮らせない寂しさから
呆けることで逃避しているのかも知れない。

なら、付き合ってあげよう。
その方が楽ならね。
 
「折り梅」とは
梅は折れて老木となっても
枝からつぼみが生まれて美しい花を咲かせること。

浅き春に先駆けて凛と咲く古木の梅、素敵ですね。

温かい視点で老人介護を描いている「折り梅」という映画を
同じ介護に苦しむ人たちに観ていただきたいです。

 

この映画を思い出させてくださったことに感謝いたします。

そして
松井久子監督が昨日のお誕生日を機に
noteでマガジンをスタートされたそうです。

是非、読もうと思います。

http://松井久子のNoteマガジン「鏡のなかの言葉」

 

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老にして学べば、死して朽ちず。

自分史において40代までは
ずっと誰かの子どもであったり
誰かの母であり、妻であり
会社では総務人事の人だった。
なかなか自分だけの為には生きられなかった・・。
 
2003年5月のWEB日記には
50歳になって
人生においてやりたかったことのやり残しがたくさんあることに気付いた。
夢が叶わなかったことはすでに自明の理となり
それでも精一杯やったからええやんと言い聞かせても
心の奥底では、何かしら寂しい。
そのことを自分自身に納得させる年齢らしいけれど
何かをやって叶わなかったどころか
実現どころか夢さえ見ていないような気がする。

今から、夢の実現に向けて再挑戦するに
残されている時間はあるのだろうか?

切羽詰って、固まっている自分が居た。
 
周囲からは、何故何もやらないんだ?
今の状態から跳び出せ!
やりたいことがあることを
あの人たちは知っているから・・・。
 
でも、生活に捉われるのが常でしょう・・・。
勇気のない言い訳です。
それまで
数え上げるほど、山ほどできない訳があった。

 ナイターの中継流るる居間に独り開く歌集か「無援の抒情」
 一行の歌に涙すを今さらと呪縛の解けぬ五十路にありて

「無縁の叙情」は道浦母都子さんの歌集です。
同じ時代に青春を通りぬけててきた世代の抱く無援感は共通のものでしょう。
多少なりとも、思想という名の荒野で傷付いていたものです。
ノンポリを恥じた日がありました。
学園紛争の日常の中、集会に出かけて、ますます混迷したこと。
ただ人についてデモに参加した日。
集会中にいきなり石を投げられたこと。
部活中に無実の後輩が機動隊に追われ
目の前で棍棒で押さえ込まれたこと。
違うからと交渉したときの恐怖。
 
あの頃はみんなが迷い憂えていた時代だった。

「少にして学べば、壮にして為すあり、壮にして学べば、老いて衰えず、老にして学べば、死して朽ちず。」
 
それから20年近くたって
私は何かを為したかどうかわかりませんが
学び続けています。
そして
いよいよ老いていきます。
老いての学びはこの裡にありそうです。
その学びを書くこと。
そのことで繋いでいきたいと思う。
死して朽ちずとはそういうことなんだろう。
 
やっと、見え始めたように思います。
 
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母へのラストレター

2004年8月2日の日記から
11時に告別式は始まった。
月初めの月曜日ということでお越しいただける方は極少ないだろうと
予想した通りでした。
でも、母さん、かえって、身内ばかりで
心おきなく別れを告げることができましたよね。

お寺のご住職から
自分たちの告別式をしなさいと言われていました。
言われたときは突然だし、何も浮かばなかった。
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと・・・。
出しそびれたはがきがありました。
 
土日しか施設に会いに行けないから
会社の昼休みに絵葉書を書いて送っていました。

菜の花を散歩したときの車椅子の母さんと
それを押す私の姿が写っている、
宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに
本文だけが書いていなかった。
あらためてお別れのハガキを書きあげました。
 
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それを見て、娘や姪たちが
私たちもお手紙を書いて
写真を入れてあげようと決めたのです。

それなら、ちゃんとそれぞれが読んであげて
それから入れてあげたほうが
心が届くのではないかとご住職に言われて
それが私たちの告別式になるのではないかと・・・。
嫌がるのかと思ったら、素直にそうすると言う。
葬儀社の担当者にお願いすると
気持ちよく承知してくれました。

そして、それぞれ7人の思いがこもったお手紙を
哀しみを堪えて読み上げてくれました。
 
来てくださった方がそれを聞いて
涙を流してくださいました。
いいお別れでしたねと・・・。
 
一番泣いてくださったのは
家族ではなくて、葬儀社の若い担当者さん
おいお~い!
この葬儀社さんでよかった。
担当者があなたでよかった。

お母さん、聞こえましたか?
貴女の愛した孫たちの最後のラブレター。

一番年上のお兄ちゃんと一番下の姪っ子は
おばあちゃんを独占できた時期があったけれど
後の5人は何時でも、おばあちゃんを取り合いしていました。
誰がおばあちゃんの横に寝るかで争奪戦だった。
時にエスカレートして泣き出す子がいるくらい。
随分、騒がしかったことでしょうね。
幸せだったよね。

一番最初はお兄ちゃんだった。
手紙はおばあちゃんだけが読んでくれたらいいからと言って
読むのは止めてしまった。
「でも、たくさん愛してくれてありがとう。」
「いっぱい感謝しているよ。」
「その中でも一番感謝しているのが僕のお母さんを生んでくれたことです。」
「おばあちゃんがお母さんを生んでくれなかったら僕はこうして存在していなかった。
本当にありがとう!」

妹は、介護が必要になったとき、一番やってくれたよね。
そして一番苦しんだのです。
どんどん壊れていくことが辛過ぎて、優しくなれないことを
私と一緒に苦しんでくれましだ。
大好きな人がそうでなくなる切なさを一緒に。

昨夜も、会館で棺を抱きしめ、何時間でもそのまま居ましたね。
一人でおばあちゃんの側で過ごしたよね。
「私は、いい孫だっただろうか?」
と介護の途上のジレンマからの言葉だった。
「優しくなれないこともあった。ごめんね」と・・。
「いつも抱きしめてくれたのに、もう抱きしめてあげられない」
「もっと抱きしめてあげたらよかった」
「でも、おばあちゃんは、どこかに行ったって思えない」
「また、うちの居間に現れて、私の行儀の悪さを叱ってくれそうな気がする」
とも・・・。
「お浄土へ続く明るい花が一杯咲いている草原を、背筋をぴんと伸ばし、出会う人たちに丁寧に挨拶をしていることだろう」
「おばあちゃんのこと心から愛しています」

ほかの子達も、それぞれの思いを、それぞれの言葉で伝えた。
いい告別式になったね。お母さん。

火葬場へ、行った時もさほどに感じなかった。
私はどうしてこうも冷静でおられるのだろう。
まだ、居なくなったという実感が無かった。

骨になったのを見て、初めて現実に目覚めた気がした。
喪失感に突然、襲われた。
静かに涙が止め処なく流れ落ちた。
呆然と立ち尽くすしかなかった。
何故、こんな辛い行事をこなさなきゃならないのだろう。
すべて燃やしたらいいじゃないの。
すべて灰にすればいい。跡形もなく。
骨を拾うなんて、そんなにリアルな哀しみは要らない。

初七日の法要を終えて帰って来た。
水曜日から続いた長い非日常から帰って来たのに
日常を刻む時間は狂ったまま。
しばらくは戻れないんだろうな。

お母さん、今、蓮の花が見事に咲く季節ですよね。
蓮の花に乗っていくのかしら・・。
 

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子どものときの記憶ってどのあたりまでが本物なんだろう。

子供のときの記憶って、どの辺りまでが本物なんだろう。

「子供って、何をしでかすかわからないね」
幼い頃、まだよちよち歩きだった娘が
おにいちゃんの風邪の水薬を全部飲んでしまった
その時のことを
騒ぎの張本人が話し始めた。

そういえば、そんなことがあった。
風邪をひいた4歳のおにいちゃんを病院に連れていって
水薬を処方してもらってきた。
それを飲ませて、兄の方にばかり何やかやとかまっていると
じーっと羨ましそうな顔をして妹が見ていた。
その視線の先に水薬がある。
危ないなと思い
手の届かないようにタンスの上に置いておいた。

用にかまけていて、時間がたっていた。
あれ?なにかおかしい?
おにいちゃんは薬を飲んで寝ていはず・・・。

あれ?
いもうとの方は、一人でどうしているのだろう?
大人しすぎる。

胸騒ぎがして
子どもたちのいる部屋に入ると
遊んでいるうちに寝てしまったらしい。
兄の布団の側で大の字になって寝ている。

並べて寝かせて、また用に戻った。

時々覗いても、ずーっと寝ている。

お昼ごはんも食べずに、何時間でも寝ている。
おかしい?

もしやと思って薬を置いたタンスを見やると・・・。
薬のビンがない!

部屋のすみに空っぽになった薬ビンが放り出されていた。

え!
血の気が引いた。

かかりつけの小児科の先生が往診してくれて
洗浄騒ぎになった。
本人はぐうぐう寝ている。

先生のおかげで大事には至らなかったけれど
そこから20時間眠り続けた。

どうして、そんな高い場所にあるものがとれたのだろう。
まだヨチヨチ歩きだったのに・・・。

なんと本人に聞いたところ
はっきりとはしないが
どうやら
タンスの引き出しを順に階段に引き出したらしい。

しかも、その後は、ちゃんと戻している。
おかあさんにみつかったら叱られるから・・・。

「そんな、危ないことを・・・」
絶句しました。

「子供って何をしでかすかわからない」
そのとおりです。
でも、そんなこと覚えてるの?
まだ2歳だったでしょう。
後で聞いたことを覚えてるだけじゃないの?

本人は何となく覚えてるのだというのですが・・・?

2歳の記憶ってあるのだろうか・・・。

そういえば
父方の祖父が亡くなったのもこのころ
不思議なことをたくさん話していました。

目が覚めて
さっき、おじいちゃんが来て
「まだ、寝てるんか~」って言って
また、とことこと帰っていったよ。
と言ってくる。
あら?
寝ぼけてるのかな?
おじいちゃんは、お空から来たのかな?
「ほんとに来たよ!こうやって・・・それで・・・」
ってリアルな説明をしてくれた。

自転車を走らせていたら
後ろに乗っていて、いきなり
「おじいちゃんがお寿司を食べたい」
って言ってるよ!
ちょうど、お寿司屋さんの横を通り過ぎようとしていた。
「お寿司食べたいの?」
お空のおじいちゃんはそんなこと言わないから
自分が食べたいのかなって聞いたけれど
「ううん、おじいちゃんがここのお寿司がおいしいからって!」
またか~と
思いながら聞いていた。

その頃は、そんなことよく言っていたな。

あるかもしれませんね。
その子がお母さんになって
孫っこが4歳になった日
体内記憶をはっきりと話し始めたとき
あ~
やっぱり親子だなって思ったものです。

今はすっかり話しませんけれど・・・。

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