私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

懐かしい山の友へ

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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1996年から1999年、40代後半、この頃の山友はこの人だった。

1999年11月白馬岳でのショット。白馬三山縦走の予定だった。
白馬山荘で朝起きたら雪がついていた。アイゼンはあったが、縦走せずに大雪渓を下るようにと言われた。
この大雪渓が痩せていて危険極まりないコースで苦労したものだった。
会社の後輩で、かなり年齢差のあるにもかかわらずの山友だった。

会社では大卒採用の仕事をしていた。
バブル期には採用したくても、繊維製造業は3Kとあって学生からはそっぽを向かれていた。
上司たちは苦戦していた。
そんな折に、常務から君の方が採用担当に向いているのではないかという無茶振りで担当に抜擢された。

いやいや、それはご時勢のせいで、私に丸投げされても困る。
だけど、やりたい仕事ではあった。自分の力を試したかった。

それまでは、大枚をはたいて広告を出して、R社の言うがままの採用活動を展開していた。
その結果は現場からの苦情となり、ミスマッチ採用の犠牲者を生んでいた。

先ず、採用広告を実情に近付けた。それからはミスマッチを起こすような学生は来なくなった。
そして、バブルは弾けて、世の中は就職氷河期に入っていった。
中堅企業にも採用のチャンスが巡ってきた。

先ず、現場が欲しがっている人材を詳しくリサーチした。
試験室の品質試験や実験のできる人材が欲しいという。
研究者は要らないから、基礎知識があって人あたりのいい人物という。
そうそう思うような学生がこちらを向いてくれない。
とにかく、帯にするには短かくて、襷にするするには長いのである。

そんな時に、ピッタリの学生に出会う。
でも、問題があった。地方出身の女子だった。
それのどこに問題があるのだろう。しかし会社からはそれが理由で待ったがかかった。
だから、まず現場からOKをとった。それで採用に漕ぎつけた。

そんな彼女は、誰よりも仕事に誠意をもって取り組んでいた。
表向きは会社には馴染んでいるようだったがそうでもなかった。
会社以外で自分の居場所を作るしかなかったようだった。

すっかり安心していた。
数年後、彼女にはただならぬ哀しみが張り付いていた。
親に反対されている恋愛が理由だった。そこが唯一居場所だったのに破局した。

山に誘ってみた。

彼女とは、近郷の低山から、白馬岳、表銀座縦走、立山三山、涸沢から穂高小屋、春の千畳敷カール、由布岳伊吹山と書き出してみたら、こんなに一緒に登っていたんだ。

いつまでも旧態依然とした会社にあって女性であることの不自由さ、自分が受けたような理不尽な扱いから守ってあげたかったんだけれど、それも儘ならず、せめて山で元気になるならと、そんなことでもいいから力になりたかったんだと今は思う。

まさに、先ごろの東京オリンピック組織委員会を辞任した森元会長の発言が物議をかもしている。全然変わっていないんだと愕然とした。

私も同じようなものだった。
私は大学を卒業して親の会社に勤めた。決して周りからは受け入れられなかった。
そんな中で、それぞれの道に進んだ友人たちを遠くに感じた。
山岳会に入って山にのめり込んで、寂しさや口惜しさをないことにした。

結婚して、一度は山から遠ざかったが、少し子どもが大きくなったら、また子連れ登山した。子どもたちが成長して、それぞれの世界ができたら、山には付いてきてくれなくなった。その代わりに彼女が現れたのだ。

私は、常に山友に恵まれてきた。
彼女が結婚して退職した後もすぐに誘ってくれる仲間ができた。
それからも途絶えることなく、また別の仲間が見付かった。
引っ越してきたマンションにも歩こう会があって近郷の山に登ってきた。

これまでの山歩きと山友たちを同時に懐かしく思い出す。
それぞれの事情で、ずっと続いている山友がいないのがさみしい。
今も山に登っている人はほとんどいないようだけれどどうか元気でいてほしい。

彼女は年賀状の家族写真では二人の高校生の母になっている。
あの頃の私と同じ年頃になっているようだ。

表銀座を縦走したとき、北アルプス三大急登と呼ばれる合戦尾根を上がった。
合戦小屋で食べたスイカの味を彼女は覚えているだろうか。
頂上に立つ充足感を覚えているだろうか。

コロナが収束したら、山から便りでも出してみようかと思う。