私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

母へのラストレター

2004年8月2日の日記から
11時に告別式は始まった。
月初めの月曜日ということでお越しいただける方は極少ないだろうと
予想した通りでした。
でも、母さん、かえって、身内ばかりで
心おきなく別れを告げることができましたよね。

お寺のご住職から
自分たちの告別式をしなさいと言われていました。
言われたときは突然だし、何も浮かばなかった。
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと・・・。
出しそびれたはがきがありました。
 
土日しか施設に会いに行けないから
会社の昼休みに絵葉書を書いて送っていました。

菜の花を散歩したときの車椅子の母さんと
それを押す私の姿が写っている、
宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに
本文だけが書いていなかった。
あらためてお別れのハガキを書きあげました。
 
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それを見て、娘や姪たちが
私たちもお手紙を書いて
写真を入れてあげようと決めたのです。

それなら、ちゃんとそれぞれが読んであげて
それから入れてあげたほうが
心が届くのではないかとご住職に言われて
それが私たちの告別式になるのではないかと・・・。
嫌がるのかと思ったら、素直にそうすると言う。
葬儀社の担当者にお願いすると
気持ちよく承知してくれました。

そして、それぞれ7人の思いがこもったお手紙を
哀しみを堪えて読み上げてくれました。
 
来てくださった方がそれを聞いて
涙を流してくださいました。
いいお別れでしたねと・・・。
 
一番泣いてくださったのは
家族ではなくて、葬儀社の若い担当者さん
おいお~い!
この葬儀社さんでよかった。
担当者があなたでよかった。

お母さん、聞こえましたか?
貴女の愛した孫たちの最後のラブレター。

一番年上のお兄ちゃんと一番下の姪っ子は
おばあちゃんを独占できた時期があったけれど
後の5人は何時でも、おばあちゃんを取り合いしていました。
誰がおばあちゃんの横に寝るかで争奪戦だった。
時にエスカレートして泣き出す子がいるくらい。
随分、騒がしかったことでしょうね。
幸せだったよね。

一番最初はお兄ちゃんだった。
手紙はおばあちゃんだけが読んでくれたらいいからと言って
読むのは止めてしまった。
「でも、たくさん愛してくれてありがとう。」
「いっぱい感謝しているよ。」
「その中でも一番感謝しているのが僕のお母さんを生んでくれたことです。」
「おばあちゃんがお母さんを生んでくれなかったら僕はこうして存在していなかった。
本当にありがとう!」

妹は、介護が必要になったとき、一番やってくれたよね。
そして一番苦しんだのです。
どんどん壊れていくことが辛過ぎて、優しくなれないことを
私と一緒に苦しんでくれましだ。
大好きな人がそうでなくなる切なさを一緒に。

昨夜も、会館で棺を抱きしめ、何時間でもそのまま居ましたね。
一人でおばあちゃんの側で過ごしたよね。
「私は、いい孫だっただろうか?」
と介護の途上のジレンマからの言葉だった。
「優しくなれないこともあった。ごめんね」と・・。
「いつも抱きしめてくれたのに、もう抱きしめてあげられない」
「もっと抱きしめてあげたらよかった」
「でも、おばあちゃんは、どこかに行ったって思えない」
「また、うちの居間に現れて、私の行儀の悪さを叱ってくれそうな気がする」
とも・・・。
「お浄土へ続く明るい花が一杯咲いている草原を、背筋をぴんと伸ばし、出会う人たちに丁寧に挨拶をしていることだろう」
「おばあちゃんのこと心から愛しています」

ほかの子達も、それぞれの思いを、それぞれの言葉で伝えた。
いい告別式になったね。お母さん。

火葬場へ、行った時もさほどに感じなかった。
私はどうしてこうも冷静でおられるのだろう。
まだ、居なくなったという実感が無かった。

骨になったのを見て、初めて現実に目覚めた気がした。
喪失感に突然、襲われた。
静かに涙が止め処なく流れ落ちた。
呆然と立ち尽くすしかなかった。
何故、こんな辛い行事をこなさなきゃならないのだろう。
すべて燃やしたらいいじゃないの。
すべて灰にすればいい。跡形もなく。
骨を拾うなんて、そんなにリアルな哀しみは要らない。

初七日の法要を終えて帰って来た。
水曜日から続いた長い非日常から帰って来たのに
日常を刻む時間は狂ったまま。
しばらくは戻れないんだろうな。

お母さん、今、蓮の花が見事に咲く季節ですよね。
蓮の花に乗っていくのかしら・・。
 

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