私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

黄は喜なり、空は藍いろ、生きねばならず

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

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2004年(平成16年)54歳の3月のこと
世間ではヨン様ブーム・・・
一瞬はまりそうになりましたが
それどころではない自分がいました。

その頃、母は特別養護老人施設で暮らしていました。
言いたいことがたくさんある施設でした。
施設が終の棲み家となる母が哀れで、在宅で看ることのできない自分の状況が情けなく後ろめたく苦い思いでいました。
 
認知症が進んで、喜びの感情を忘れたかのように母は笑うことがなくなっていました。
いつも不機嫌な顔をしていて、見るのが辛かった。
痛みを忘れるために自ら感情を手放したかのようでした。

その日も、施設を訪ねると切なくなってきて
人って何のために生まれてきたんだろうと泣けてしまいました。

一緒に尋ねた娘に叱られながら、気を取り直して散歩に連れ出しました。
施設は河川敷に沿ったのどかなところです。
土手に菜の花が咲いて、蒼い空とコントラストを描いています。

菜の花や、紅色の花がついたカラスノエンドウタンポポなどを摘みながら車椅子を押して歩きました。
 
気持ちのいい午後でした。
通りかかる人たちが、「こんにちは」と
母に、私たちに声を掛けてくださいました。
 
土手の上から、やんちゃそうな中学生が自転車を二人乗りして、転がるようにはしゃぎながら降りてきました。
あらあらと思いながら見ていましたが
「おばあちゃん!こんにちは!」って、大きな声を掛けてくれました。
そして、また、二人乗りして
「おばあちゃーん!ば~い!ば~い!」
とキャッキャ言いながら行きました。
母も、「バイバイ!」って嬉しそう!

爽やかな風が吹いていました。
母も散歩中、ちょうちょの歌を歌っていました。
数少ない楽しそうにしていた最期の想い出が甦ります。
 
夕陽の高速道路を帰っていると、カーラジオから「シクラメンのかおり」が流れてきました。
リスナーからのリクエストの文面が読まれます。
「亡くなった息子が好きだった歌です」
 
わたしは、少なくても母にこんな悲しみは味合わせていない。
それだけでもよかった。
娘とシクラメンのかおりを歌いながら泣きました。
一緒にいても遠くに感じる母を少し近くに感じる時間だったのです。

亡くなってからずっと、母の笑顔を思い出せないでいた。
ごめんなさいをずっと完了できずにいました。
親との関係で未完了を抱えていると、いろいろと不具合が出てきます。
それを完了させるのには数年かかりました。

カウンセラーとして、クライアントさんに親との未完了を完了させる
そのお手伝いをする場面が多くあります。
まだまだ、そのお役目があればやっていくね。母さん。
  
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと・・・。
出しそびれたはがきがありました。
菜の花を散歩したときの車椅子の母さんとそれを押す私の姿が写っている、
宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに、本文だけが書いていなかった。
あらためてお別れのハガキを書きあげて送りました。
その時の葉書の写真です。