私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

恩人たちにはどんな感謝を送ればいいのだろう。

人との出会いが
人生の危機的な状態から救ってくれていた
という気付きがありました。

ボランティアを通じて
50代に入るその直前に出会った三人でした。
私たちは二日おきにこの世に生まれました。

時を同じくして生まれても
子ども時代を近い場所でよく似た環境で育ちながらも
大人になってからは違う環境と価値観で生きてきた彼

遠くで生まれながらも
学生時代以降はよく似た環境で生きて
共通する価値観を持って生きてきた彼女

時間を忘れて三人でよく語り合いました。

価値観の違う彼には
私たちは違う生き物だったようでした。
会社という社会での成功体験から見ているらしく
私たちの思考はいつも現実からは遠く
世間の物差しからははみ出して見えるらしく
常に軌道修正をかけられ
ぼろくそに言われ続けました。

出る杭は打たれる。
打たれる姿を見たくないばかりの
思いやりから始まるだけに
始末に負えないマウントでした。

彼女は
あなたの提案は10年は早いと
ことごとく退けられ続けた私を
支持し支えてくれました。
自らは行動は起こさなくても
寄り添って一緒に闘ってくれました。

それぞれの方法で常に寄り添ってくれていました。

その頃の私は
いくつ抱えているのかわからないぐらい
母の介護に始まる家族の問題
自身の会社のリストラにはじまって
これでもかという困難な案件を抱えていました。 

次々と起こるのは
家族の問題とはいえ
それぞれが解決しないといけない問題ばかりで
寄り添うことはできても
自分ではどうにかできる問題ではなかったのです。

リストラされる側に寄り沿いながら
リストラをする立場に立たされている罪悪感など・・・

その頃は課題の分離ができなくて
すべてを自分の問題にして満身創痍で苦しみました。

そして自己不全感から逃れるために
ボランティアに逃げました。

自分史年表を書くうちに
かなたに無理やり押しやっていた記憶が蘇ってきました。
そうや・・・
そして、依存してたな・・・私。

誰かに依存していないと
立っていることができなかった日々でした。

その頃、詩を書いています。

心の平安

  冬の嵐が吹き荒れています

  傘の下にいてもいいですか

  心の平安だけが欲しいって言ってた

  フレーズを覚えていますか

  信じていたらいいのですか

  また、笑ってくれますか

  背中をさすってくれますか

  とても不安です 

  嵐が止むまで傘のしたに、

  もうしばらくはいさせてください

  何もいりませんから

  心に平安が訪れるまで

 

人は一つか二つの困難なら何とかなる。
けれどそれだけ問題を抱えたら心も体も持たない。

そう、今思えば病まなかったことが奇跡のようなものでした。

依存する。そして依存させる。
そこから得られる二次利得で互いに繋がっていました。
セオリー通りのことがあの頃は起こっていました。

やがて、一人は
他を活かし助けるためではなく
自分を活かすために闘うことを選び
依存関係は解消していきました。

もう一人とは
共依存の関係が苦しくなって自分から少しづつ離れました。

そんな出会いから20年経って
あの頃の私を支えてくれたのは
まがうことなくこの二人だったと気付きました。
いやうすうすは気が付いていましたが
はっきりと共依存という関係だったと文字にしました。

その数日後でした。

なんと・・・
その頃、会議の後に繰り出して喧々諤々やっていた
居酒屋さんが閉店することになり
最後の日に集まる機会を何年ぶりかで得ることができました。

そして、いとも自然な形で
「あの頃はめちゃくちゃ依存してたね~!ごめんな~!」
「ある意味、命の恩人だったと思う。ありがとう。」
と軽々と口に出していた。ちょっと軽いぐらい・・・。

そして、二人の口から出たのも
「自分もそうやった!依存しあっていた。」
「こっちこそどれだけ助けてもらっていたかわからない。ごめんな!」だった。

あの頃の私たちは遅れてやってきた青春時代の末期を過ごしていた。
酔いが回るほどに、その頃を懐かしく思い出していた。

恩人たちにはどんな感謝を送ればいいのだろう。

それぞれが老後となるサードステージの入り口に立っている。
どうか幸せなサードステージであれと祈る。

 

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