私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

最強の応援団!期間限定の無条件の愛をもらっていた。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1985年私は35歳の冬
友人所有の比良の山小屋に雪が積もると必ずそりやスキー板を持って雪遊びに連れて出かけた。

父親はスキーに興じる間に、兄はスキーでボーゲンの練習、妹はそり遊びをさせた。

子どもの間に多くの経験をさせたい。
親として財産は残せなくても、いい思い出をたくさん残してやりたい。

当時は学童保育保育所に通わせながら、仕事をしていた。
毎日、仕事と育児・家事でくたくただった。それでも、休日は、子供を連れて出た。
妹は保育所で頑張っている分だけ休日はずっとこの写真のようにべったりとまとわりついていた。兄も嬉しくて仕方ないという顔をしている。

私といるだけで、こんなによりかかり、こんなにいい顔をしてくれる。子どもとは有り難いものである。

こんなこともあった。

3歳までは、どうしても自分の手で育てたい。可愛い盛りを一緒に過ごしたくて、一端仕事は辞めた。

そして、下が3歳になってから保育所に入れて7時間のパートタイマーとして働いた。すぐに会社人事の都合で、パートタイマーでありながらも責任のある仕事を任され、超過勤務でパート勤務者ではなくなった。

3年後、社長秘書として登用された。
ただ仕事が面白くて一生懸命にやっていたらそういうことになっていた。

組合員を守るために中途採用を認めていない。組合員外の社長秘書という職務上管理職側として採用された。秘書で採用というのは、つまり組合と折り合いをつけるための口実だった。そして、これまでの業務に秘書業務も加わった。

それは、仕事の荷重だけではなく、他の女子社員との軋轢を生んだ。
パート上がりのくせに・・・、パートやのに大卒やて生意気や・・・
しばらくは、今なら信じられないような陰口が聞こえるようにささやかれた。

春闘になると、非組合員に対しての差別意識はあからさまになった。
私に限ったことではなかった。ただ、風当たりは人一倍きつかった。

努力した。工場を回る時は、事務所にいるときの2倍の笑顔を心掛けて、どんな声も吸い上げて寄り添った。徐々に、そういうことを言う人はいなくなった。

そんな日々だった。

一日中、理不尽と戦って家に帰って、夕食の調理をしていたら泣いてしまっていた。
いつの間にか妹の方がそばに来ていた。何で泣いてるのと聞かれた。玉ねぎ刻んでるからとごまかしたが、納得せずにずっと顔を下から不安気に覗いてくる。我慢できずに、つい、こぼしてしまった。

「おかあさん、会社で絶対泣いたらあかんで!わたしも家に帰ってきてから泣くねん」
「そうなんやね。なんか泣くようなことがあったん?」
「いっぱいあるで~」
「そうか・・・、わかったよ」
 なんや・・・、教えてもらってるやん・・・。

話していると、ふいっと妹はいなくなった。しばらくすると、兄の方がドドドッと階段をものすごい勢いで降りてきた。早速、妹がご注進したらしい。
「おかあさん、いじめたやつは誰やねん!名前、言いや!そいつ殴りに行くから!」 
 と、ものすごい形相で言う。

 わはは・・・、ほんまかいな~。笑ってしまった。
「ありがとうな、もうだいじょうぶやで。殴りにいかんでも、気い済んだわ」

 無条件に愛されている。誰よりも、こんな強い味方はない。二人ともに成長とともに反抗期には、反発もされたし、批判もされた。期間限定の無条件の愛やったなと思う。

 仕事は好きで、可能なら2倍も3倍もしたいと思った。子どもたちが手かせ足かせに感じた日もあった。仕事をしていることで、子どもたちには無理をさせてきていることに後ろめたさもあった。もっと、子どもたちを甘やかしてやりたいと思った。

もっと、一緒に居たかったな・・・。もっとあちこち行きたかったな・・・。いろいろ一緒にしたかったな・・・。いい思い出を残してやりたいと言いながら、いい思い出を作ってもらっていたのは親の方だったと思う。

あの時心配そうにじっと見上げてきたあの子が、働く母親として今は同じ思いをしている。働く母親の永遠のテーマは60年以上経てもそう変わらない。
よく祖母に援けてもらった。この子たちは祖母からも愛されて、祖母を慕った。
私が援けてもらったように娘を援けたいけれど、今はコロナ禍にそれを阻まれているのが口惜しい。
収まったら孫と旅をしよう。財産は残せないけれど、おばあちゃんとのいい思い出だけを残してやりたいと思う。

そして、いい思い出を作ってもらうんだな・・・、やっぱり・・・。