私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

いなくなったら風呂を探せ!

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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1952年1月のたぶん2歳の誕生日かその前後に、実家の店頭で撮っている。

私たちきょうだいの幼いころの写真は結構な数に上る。
我が家にカメラがやってきたことははっきりと覚えている。
私が10歳の時だから、幼年時代の写真は誰が撮っていたのかずっと謎だった。
しかも、そこには常に優しい視線があった。

叔父さんしかいない。だから、いい顔して写っていたんだ・・・。
そのことにうん十年もかかって今さらながら気がついた。

叔父は、サラリーマンだった。日曜日は、休みなく1年中商売に励む親たちに代わって、こうやって写真を撮ってくれていたのではないだろうか。
私たちは、カメラが好きで子供好きの優しい叔父のことは、余りにも悲しいお別れをしたために忘れていたのだ。

店頭には、家業の鋳物のおがくずストーブや大きな鍋窯や風呂釜などが並んでいる。
父は満蒙開拓団にいた。そこでであったオンドルのための燃焼器からヒントを得て、戦後、風呂窯などの燃焼効率を高くする鋳物製のロストル(すのこ)を再現して実用新案をとって設置工事販売をしていた。

その頃、ラジオドラマ「君の名は」が人気となる時勢、戦後の燃料不足が続く中、建設ブームでふんだんにあったおがくずを燃料とするストーブは飛ぶように売れた。
そのことで、両親は繁忙を極めていた。当然、子供には手を掛けられない。きょうだいができるまで私はいつも一人で遊んでいた。商売人の家の子はどこも同じような境遇である。特別ではない。そんなころのエピソードである。

私は二度ほど行方不明事件を引き起こしたと大きくなってから聞かされた。

近所中の人を巻き込んで大騒ぎになったが、発見されたのは、3軒向こうにある銭湯に、勝手にかんかん(アルミの湯桶)に手拭いを入れて、2歳児が一人で行って、番台からも死角で、一人で遊んでいたらしい。無銭入湯していたのか?自分で服も脱げたのかな?よく、深い湯船にはまらなかったものだ。

ある時は、夕方になっても姿が見えずに大騒ぎになっていたら、店頭の風呂窯の中に入り込んで寝ていた。寝ぼけ眼で顔中を赤さびらけになってひょっこり・・・。

それで、よほどに風呂好きな子というレッテルを貼られることになった。

どうやら、本質はマイペースで一人遊びが好きだったらしい。

ステイホームで本を読んだり、モノを作ったりと一人でいることがさほどに苦痛ではない。何日でも籠っていられる。人からは外交的な人だと思われているけれど、内向性は自分でも意外なレベルで私の特質でもあったのだ。

後年の環境から、誰かと一緒にいる、誰かのために生きる、それが自分だと思ってきた。やっと近年、自分軸で生きられるようになったこの歳になって元の特性が顔を出してくる。

どうやら「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。

もちろん、これまでの人生で人に寄り添うことは得意なレベルになっている。
苦手なことをやり続けることでそれはそれでリソースとなった。

そして、老後を楽しむためには案外に一人遊びができるというのは都合がいい。
ソロ活ができるというのは大きなリソースなのだ。