私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

同窓会のビールは苦い後悔の味・・・

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

f:id:teinei-life:20200921221631j:plain

1998年(平成10年)4月19日の卒業30周年の同窓会(於:天王寺都ホテル本館)
写真は天王寺の居酒屋で 3年1組の仲間だけが残って流れた3次会。

当時は48歳、阪神淡路大震災の3年後、同級生の身にもいろいろ起こっていた。

おりしも、お気に入りの作家の五木寛之氏の「大河の一滴」が出版されて話題になっていた。
コロナ禍の今、また話題になっていることも不思議なめぐりあわせを感じている。

みんなまだ若いつもりでいるのが可笑しい。
すでに卒業して30年の月日が流れている。
人生の後半に向かっていることに気付かないでいた。
確実にそれぞれの歩んできた人生が
面差しに影を落としつつあるようだった。
それは私も例外ではなかった。

着ていく服に悩んでいた。
写真でも、私の肩広のジャケットはひと際目立っている。
90年代の肩に大きなパットを入れたファッションは
すでに古いデザインとなっていたのだろうに・・・

この時代は2人の子どもを私立の高校と大学に行かせていた。
教育費が最も嵩む世代・・・。
そうか・・・
同窓会のために服装を新調する余裕はなかったんだな・・・。

3次会になって初めて
担任の麻生先生の欠席に話題が及んだ。
これまでの同窓会には必ず出席してくださっていた。

在校中は苦手な英語の先生ということで
どうも、先生のことまで苦手になっていた。
卒業して、少し人生が進むようになって
はじめて恩師としてリスペクトし近しく思うようになっていた。

先生は舌癌を患われて、とても重篤な状態らしいという・・・。

しかも、いつもお世話をしてくれる同窓会クラス委員さんも不在・・・
入院中だという。

お酒が進むなか、みんなでお見舞いに行こうと盛り上がる。
私にその世話を押し付けてくる。そう感じていた。

その頃の私は、超が付くほど多忙で、常に仕事や雑事に追われていた。
たぶん、ここに写っている中で一番多忙を極めている。
そう思いこんでいたのだ。

重篤な状態に、みんなで押しかけるのはいかがなものか・・・。
入院しているところに、女性にとって同級生の見舞いは迷惑でしかないだろう。

行かない理由を捜して断った。
そして、その話は立ち消えになった。というか、もみ消した。

その次の新年
必ず返信を下さった先生から年賀状の返信はなかった。
そして、彼女の訃報もほどなく届いた。

後悔しかなかった。

そのことが、人との係わり方を変えた。

もう、苦い後悔をしたくない。

そして、決めた。
その頃、読んだ五木寛之氏の「他力」にあったように
「他力の風」に吹かれて生きると決めた。
全てのご縁を大切にして生きていく。

そう決めて、この20年。
他力の風に逆らわず、自分に回ってくるお役目はすべて引き受けてきた。
そうすることで多くの人と出会った。

そうすることで
私の人生は常に大きなものに守られてきた。

多くの人との出会いで私の人生はできている。

出会ってくださってありがとうございます。

たくさんの係わってくださった方からいただいた恩を
次の世代に送っていく。

「ツナグ」ことが私のゴールです。
誰かと一緒なら必ずできる。

どうか、どうか、まだまだお付き合いくださいませ。

 

タラのテーマ・・・「風と共去りぬ」

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 f:id:teinei-life:20200919233701j:plain

1942年、17歳の春間近かの頃
天王寺のアポロ座というステーションビルの地下の映画館
憧れの先輩との初めての映画館でデート。

記憶にある私たちは高校の制服だったということは
どうやら、試験の終わった日とかで
午前中で終了した日の帰りだったのでしょうか。

書店で流れるBGM
風と共に去りぬ」のタラのテーマ
「タラララララララララララララ~♪」

先輩から誘われて出かけた思い出の映画が蘇ります。

美術部の文化祭での出し物で似顔絵を描いたことで始まって
1年上の先輩は運動部のキャプテンで女子人気抜群とか。
いつも自信たっぷりに親しげに
「あの似顔絵似てへんで」と話し掛けてきます。
あんまりドキドキするので
姿を見ると逃げ出していたものでした。

それでも、そのうちに図書館に出かけ
一緒に勉強するようになっていました。

今度の日曜に奈良に行こうと誘われたとき
両親に話すと
「男と二人っきりで出かけるなんてのは不良娘だ」
と言われて
「親がうるさいので行けません」と
行きたいと思いながらも断わってしまいました。

その後は誘われなくなりました。
そのうち、先輩は受験の真只中に・・・。

そんな日々にあって
映画に行こうと誘われました。

そりゃ嬉しかったです。
もう、親には言いません。

相変わらず、話もできず、目も合わせず
ドキドキするばかり・・・。

風と共に去りぬ」は大作中の大作でした。
あの頃の高校生ですから
二人ともその内容にすっかり圧倒されてしまって
終ったあとも互いに感動しすぎて無言でした。

そしてなんと
そのまま「さよなら」って
分かれて帰ってきてしまったのです。
今ならその内容をいつまでも語り合ったでしょう・・・。

その後は、先輩は受験勉強。
邪魔してはいけないとこちらから連絡することはありませんでした。

その後、先輩は受験に失敗
浪人生活に突入します。

ますます、勉強の邪魔になるからと思うし
自分も受験生の身となっていたこともあり
こちらからは連絡することはありませんでした。

時々架かってくる電話で
お互い受験生同士の会話をするだけでした。

一浪後、先輩は四国の国立大学に合格し
文通が始まりました。

その後どうなったか?
ラブレターが瀬戸内海を何通か渡りましたが
お互いに大学生になった私たちは
それぞれに違った空間を生き始めていました。
少しづつ手紙が疎遠になり、いつしか終わりました。

後日談ですが、奇しくも私の弟が
母校の教師となった先輩の教え子になっていることが発覚。
私の弟だと名乗ると、驚いたことでしょう。

「可愛い人だった!」
「僕は夢中だったけど、彼女はそれほどには思っていなかった」と聞いて
そう思わせてしまったことを悔やみました。

タラのテーマを聴くと、今もソワソワしてしまう。

タラのテーマの流れるのは
ヒロインが力強く立ち上がる最後の名場面
明日は明日の風が吹く~。
風と共に去ったのは私の最初の恋だったのです。

私にもこのテーマは永遠のテーマです。

 

 

 

過疎の郷・・・「最後までお守りしはったんやね・・・」

100人と書く「一枚の自分史」

f:id:teinei-life:20200918062417j:plain

2018年12月 
福井県勝山市、恐竜博物館のすぐ下にある
母の里への悲しい訪問でした。
その年の2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。
雪が着く前にと
3ヶ月も早くに一周忌の法事が営まれました。

父の里は、母の里からまだかなり山の中にありました。
全ての法事が終った後、弟とそこを訪ねることになりました。

父の生まれ育った家を守る人はすでに途絶えていて
家終いの話が出ていました。

間に合ううちに自身のルーツを
今、たどらないとどんどんリセットされてしまう。
何も、次世代には伝わらない・・・。

小さな子供たちに
命のバトンを渡すために伝えたい。

だから、父の生家があるうちに
行ってこなければと思っていました。

車で送ってもらって
集落に入って家を探すのですがありません。
周辺も記憶の中の風景とは違っています。

すぐに、家は途絶えて、集落から出てしまいました。
歩いて引き返してみました。

集落の最後にある家まで引き返して
目にしたものは・・・

行き過ぎても分からないはずでした。

ユンボがまだそこにはありました。
ユンボの爪痕はまだ真新しい。

なんてことでしょう。
わずかに遅かったのです・・・

間に合いませんでした。

そこにはぽつんとお墓だけが遺されていました。

涙が溢れました。

枯れる前の花が供えられていました。

遅かったけれど
それでも、あの場に行けてよかった。
懐かしい人たちの面影を見ることができました。

山村の三男坊だった父が
口減らしのため、早くから村を出されてからも
ずっと援け続け、守ってきた家でした。

泣いている私に
弟がこう言います。
「ねえちゃん、誰も恨んだらあかんで」
「誰も恨んでへん。何でかわからへんけれど、誰かが私に乗り移って泣いてはるねん」
そういう感覚でした。
そういう弟も誰かに言わされていました。
誰が、何を伝えようとしているのでしょうか。

家というのは不思議なものです。
そこにある限り
人の思いも一緒にあるようです。

あの日々の暮らしもままならぬ時代に
自分の家族を養いながら
田舎の家族の生活も援けてきた。

そうした父の思いを
私たちは受け取っていました。
次世代にツナグと決めています。

家とはただ住むだけの箱では決してない。
不思議なものです。
思いが残っているうちは、家は壊されず
思いがそこに亡くなった時、家は役目を終える。

しっかりと思いを繋いで行こう。

集落の入り口にあった看板にある家は
父の家から先は消滅していました。

まさに限界集落の手前にありました。
過疎の郷・・・
逝きし世の面影
日本のいたるところで起きている風景です。

子どもの頃
母の実家は居心地がいいのに
父の実家は寂しくて嫌だった。

なぜか、今は分かった気がします。
平家の落人がひっそりと住んだ地だったから。

ただ、この村の人たちは
長住した家をただ朽ちるに任せるのではなく
きちんと更地に戻していました。
生活の後はなく、草が覆うばかり。
だから、行き過ぎてしまうほど何もなかったのです。

「最後まで守しはったんやね・・・」
この一枚の自分史を書かなかったら気が付きませんでした。

そうだった。
最後まで見届けて、自然にお返ししたんだ。
そこには、村の人たちのその地への感謝が見て取れました。

それで
朽ち果てた家を見ると哀しい。
そこに思いが残っている気がするからだったのかもしれない。
最後まで、家守りできなかった無念がそこにあるのかもしれない。

生者必滅、会者定離
この世に生を受けたものは必ず死に
出会ったものには必ず別れがくる。

去って行った人の心を引き継ぎ
次代に引き継いでいくことを大切にしたい。

いろいろと間に合わなかったことばかり・・・。

だから、今、書かねばと強く思います。
書いて、そこに置いておく。
必要なときに、必要な人が受け取ってもらえるように。

 

 

「また来るから~」最果ての利尻・礼文島を訪ねて・・・一枚の自分史

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

f:id:teinei-life:20200917000413j:plain

1971年、学生最後の夏休み。
6月末に、前期の最後の授業をさぼってフライングして
北海道旅行をした。

すっかり、北海道の大自然と人の優しさに触れて虜になった。

その中でも、強く印象に残っているのが最果ての利尻・礼文島

戦争を知らない子どもたち」が流れ、70年安保の年に二十歳。
学生運動の渦中の学生生活から逃げ出すように
自分を探すために
あの頃の学生たちはザックを担いで旅に出た。
そんな私たちはカニ族と呼ばれていた。
JR、その頃は国鉄。列車の乗り降りや、通路を通るのに
担いでいるザックが横広のため
カニのように横ばいで歩いたのでその名がついた。

旅の相棒は部活仲間の女子一人と男子一人いう、逆ドリカム現象?
時々、その男子は、他の女子にひかれて
のこのことついていってしまう。
許っていたら、また、ひょこっと姿を現す。
自由な旅だった。

この写真は
礼文島のお花畑から「利尻岳」を撮ったもの。
そこに「私」が写り込んでいる。
「私」ではなくて「利尻岳」を撮ってもらっている。
だから体を傾げている。

見せたかったものは
お花畑で笑っている自分ではない。

私が見せたかったのは
串田孫一さんの日本100名山の一番目の座
海の向こうに浮かぶ利尻岳

叫びたかった!
「昨日、あの頂上に立ったよ~」
だからご機嫌なのだった。

このどや顔、50年近くも経ってから発見!
ずっとお花に囲まれている自分ばかり見ていたから
気が付かなかった。

あの頂上に立つたんだと思うと満たされる
そんな若き日の自分が蘇る。

もう、100名山制覇はこれからはないだろう。
100番目の座、屋久宮之浦岳は8年前に・・・。

100名山の一歩目をこの時踏み出したんだ。
そのことをふいに思い出した。

標高1718m、しかも海抜から登るので
日本アルプスの峻峰に登るより高低差はある。
しかも北の果ての山。
今から思えば、登るにはふさわしくない軽装!
若気の至りで、勢いで、いとも軽々と登ってしまったのだ。

朝一番に稚内の港からフェリーで鴛泊に着き
YHに荷物を預け、行動食と水だけを持って、そのまま登った。
最初は10人位で取りついたのが、頂上までたどり着いたのはたったの三人。
下山したのは日が落ちる寸前だった。
夕陽が真っ赤に海を染めて落ちる。
それを見ながら走って降りた。

そんな前日の興奮を引きずっていた。
そりゃ、こんな顔にもなるよね・・・。

礼文島から望む利尻岳は高く美しい。

潮風に吹かれながら、山に向かって
「また来るから~」とつぶやいてみる。

暑い大阪に帰ると、就職活動が始まる。
男子優先社会、大卒女子には厳しい世界が待っている。
進路に悩み、行く手には漠然と不安を抱えていた。

学生の特権、自由を取り上げられる。
好きなことはもうできないのか・・・
この旅を最後に。

旅を楽しみながらも切なさは心のどこかにあった。

はたして
卒業してから、つい最近まで、70歳を超えて
自分ではない誰かのために生き、役割を果たす日々は続いた。

やっと、仕事に一線を引いて再び自由になった。
したいことをして、行きたいときに、行きたいところに行ける。

なのに・・・コロナめ!
このタイミングでやってくるのか?

2月からの巣篭りを解いて
10月に利尻・礼文島に行くことにした。

コロナめ!
GOTOトラベルキャンペーンを使ってやるから!

「また来るから~」とつぶやいたあの日からは
すでに50年近く過ぎている。

過去と現在がどう繋がるのだろうか。
楽しみにしている。

 

その他の写真

f:id:teinei-life:20200917000811j:plain

f:id:teinei-life:20200917000829j:plain

f:id:teinei-life:20200917000841j:plain



 

一枚の自分史 「母と娘の涸沢の山旅2009」

 

 

「はじめよう!自分史生活」講座

一枚の写真から作る自分史の

ワークショップに行ってきました。

 

講師の河出さんは

日本古典文学全集や日本文学全集と

学生時代にお世話になった河出書房の

なんと!

四代目河出岩夫さんでした。

 

その一篇の日本の現代文学史は

河出さんの自分史、家族史に

他なりませんでした。

 

川端康成松本清張・・・他にも多くの文人

写っている三代目の一枚の写真に

ワクワクするミーハーな私。(笑)

 

文学少女だったあの頃に戻る時間でした。

 

一枚の写真からの自分史のワークショップ

ポイントを教えていただいて早速作成しましたので

ご紹介します。

 

ゆっくりと写真を探す時間がなくて・・・

手近かにあったものを使ったので

割りに最近のものです。

とはいえ、2009年秋のものです。

 

「母と娘の涸沢の山旅2009」

 

もうすぐ娘が嫁いで行く。

それまでに

「おかあさんと想い出に残る旅がしたいね」

という娘。

 

母娘別れ旅は

娘がまだ小学生だった頃に奥穂高岳に登ったときに

テントで露営した涸沢まで行こうということになりました。

 

折しも

涸沢では山と渓谷社の主宰で

「からさわフェスティバル2009」をやっていて

山好きな人が集まってにぎわう山での

楽しい旅となりました。

 

エベレストに初めて登頂した女性

田部井淳子さんがご主人とご一緒に来ておられて

娘や若い人たちの中に気軽に入って来られて

小屋のテラスの隣の席でお茶をいただいたことなどの

サプライズもありました。

 

思い出に残ることは、数々あるのですが・・・。

 

横尾を過ぎて徳沢園に着く頃

日ごろの運動不足がたたって

足が重くて思うように前に進みません。

どんどん若い人たちに追い抜かれて行きます。

 

今回は小屋泊まりにして

荷物は軽量化しているのに…。

久しぶりの山歩き

 

本格的な登りにかかると

荷物が重く肩に食い込みます。

 

ただひたすらに足を進めているうち

記憶にある小さなあの子の

前を歩く足元を見ていました。

 

ザックに寝袋を入れて

上に荷物を高く重ねているので

頭が隠れて見えない。

ザックをピョンピョンと揺らしながら

登っていく我が子の姿が目の前にありました。

 

石に躓きそうになってなって

ハッと我に返ると・・・。

 

あの日

あの子の足元を見守った私と同じように

私の足元を気遣って

一歩一歩、歩調を合わせてくれている

気配が後ろにありました。

 

ようやく涸沢小屋に到着。

 

懐かしい奥穂、北穂の姿や

彩とりどりのテントの群れを眺めながら

あの夏盛りに雪渓ではしゃいでいた姿を

思い出しながらビールで祝杯!

 

星空は騒々しいほど・・・

 

次に来るときは

孫っこたちも一緒だったらいいなと話しながら

すし詰めの小屋の喧騒の中で

久しぶりにくっついて眠りにつきました。

 

 

一枚の写真からの自分史を語る一コマでした。

 

こうして何枚かの写真と物語を重ねていくと

それが自分の物語りになりますよね。

 

楽しみながら

空いた時間に積み重ねていけたらいいなと

思っています。

 

この時のサプライズ!

ヤマケイJOYという登山誌のグラビアに

私と娘も写っています。

これもいい思い出です。

 

 

この世は愛を育てる

愛の学校です。

 

絶賛実習中です!(笑)

わたしの幼少時の自分史がここにもあった。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

f:id:teinei-life:20210425180045j:plain

 

自分史でできることは何だろう?

今日のしつもんZEN瞑想から

忘れていること。
忘れたいから忘れたのか?
思い出したのなら
何か意味があって、そういうタイミングだったのだろう。

瞑想に入って
「自分史で何ができるのか?」と質問を置いてみた。

いきなり、そういきなりだった。
幼い自分へと還っていた。
2歳か3歳の私。

家の前で遊んでいる。
前には国道26号線が通っている。

ジープが止まって
若い米兵たちが下りてきて
何かを話しかけてくる。
「可愛い子だね~。こんにちは。何をしてるの?」

暫くはきょとんとして固まっているけれど
そのうちにうわーんと泣き始める。

米兵たちは
ソーリー!ソーリー!と言って
チョコレートやビスケットを持たしてくれる。

覚えているわけではない。

少し大きくなってから親たちから聞いたこと。

その頃、国道沿いに行くと浜寺に米軍の駐屯地があって
よく、家の前をジープが通っていた。

「最初から泣いて逃げ出していたらお菓子はもらえない」
「いつもお菓子をもらってから逃げてきたもんな~、この子は」
と笑って親たちが話していた。

泣かないし、逃げないから嬉しそうに兵士たちは構いに来たらしい。
「きっと、国に同じ年頃の子どもがいるんだろうな~」
みんなが優しい顔をしていた。

そのことを思い出していた。

渇えていたんだ。
その頃は、誰もが・・・
突然、哀しみがこみあげてきた。

お腹がすいているし、お母ちゃんもまだ帰ってこない・・・。
まるで子供が泣きじゃくるみたいに泣いた。

覚えてもいないのに
若い米兵たちの顔が優しい父親の顔に見える。
人と人が殺し合う戦争が悲しくてまた泣けた。

これは瞑想じゃないな・・・
これじゃ、ヒプノセラピー
インナーチャイルドのセルフ療法やっているよな・・・。

潜在意識が表出してきて
今日は全く瞑想できずに終わってしまった。

そのことは
悪いこととは思わない。

むしろ、よくぞ出てきてくれたと感謝しかない。
わたしの幼少時の自分史はここにもあった。

書いておこうと思う。

今ここにを意識しないと
体勢を整え、深い呼吸をするだけで
時々どこかに行ってしまう。

日によっては
今ここよりも
行きたいところがあることにも気が付いてしまった。

そりゃ、行くよね・・・。

魂の呼ぶところへ。

戦争の記憶がそこにあるらしい。
今世のテーマがそこにあるらしい。

自分史で何ができるのか?
答えはそこにあるらしい。

そして
終わらない旅はこれからも続くらしい。

 

 





 

 

親を送ったように

大抵は
人は親を送ったように子どもから送られる。 

必ずではありませんが… 

因果応報
世代間連鎖…

子どもたちは見ています。
親をどう送ったかを…。

私には、母の思うようには送ってあげられなかったという悔いがあります。
しかも、しばらくは、そのことをずっと誰かのせいにしてきました。

でも
自分が送られる側に立っていることを実感した時
誰も悪くしたくない。
そう思うのです。

子どもたちの行く手を阻むことはしたくない。
そのためには
どうしておくことができるのだろうか…。

考えながら、17年前の日記を読み返しています。

長くなります。

 2003年9月19日(金) 映画「折り梅」を観て

市の文化協会主催の映画鑑賞会に、
定時で仕事を切り上げていってきました。

 第14回東京国際女性映画祭で上映された松井久子監督
「折り梅」

老人介護を扱った映画で
同居を始めた夫の母親の認知症
徐々に進んでいくことから起る
嫁と姑、夫婦間、子供たちとの
さまざまな葛藤が描かれています。

今まさに自分がぶつかっているテーマを扱っているということで
以前から必ず観ようと思っていました。

娘も一緒でした。
娘は「そんな映画を観て、余計に落ち込んだりせんときや」
と言いますが…

「こういう映画には、きっと救いが用意されているはず、参考になることがきっとあるはず」と…。

娘は
プロローグの二人が歩いている姿を見ているだけで
涙をこぼしていました。
映画が始まって10分ぐらいから終るまで涙が止まりません。
途中嗚咽を漏らしそうになるほどでした。

夫に早くに死に別れ
4人の男の子を女手ひとつで育てた気丈な母(吉行和子)。
その母の痴呆を認めたくない息子は
介護に疲れ果て施設に入れたいと願う妻(原田美枝子)に
相談を持ちかけられても
「君がいいと思うなら・・・」と
肝心なところで逃げてばかりいる
そんな気弱な身勝手な夫(トミーズ雅

本当に我が家と同じで男はこういうとき頼りにならない!

施設へ送って行く道すがら
実の息子さえも知らない姑の過去
幼い日の生母との別れや若い時の苦労話を淡々と語るのを聞いて
同じ女として、母として、また子どもの立場として
姑を愛しく思い
もう一度がんばってみようと決心する嫁。

姑と参加したある集会で
「今までお姑さんを何回褒めてあげましたか」
と問われて
咎めたり、怒ってばかりいたことに気がつく場面があります。

帰り道、娘は
「あの画面、一番応えたなぁー」
「おばあちゃんにあかんことばっかり言ってたと心が痛んだわ!」
「何も褒めてあげていない!」
と・・・

「お母さんは、帯の縫い方習うことで、おばあちゃんのことちゃんと認めてあげてた」
「正解やな!」

いいえ、あなたの方がずっと巧まずにおばあちゃんを看ていたと思う。
私の方がずっと理で言い聞かせたり、難しいことを要求していたと思う。

映画はそれに気付かせてくれました。

誰でも褒められると嬉しい。
子育てと一緒。
年を取ることは子供に還ること。
できる範囲のことで、あるいは得意な分野で認めてあげなくては。

あと、子供に還るということに、過剰反応してあげないこと。
上手に合わせてあげることがいいのですね。
昔の話の中で自分が行ったこともない所でも、想像を膨らませているうちに行ったように思うらしい。

これはかなり早く始まっていたのを
今まではいちいち違うでしょと訂正していたけれど
害のない話なら否定せずに
「それで誰と行ったの?」
と話を続けてあげたらいいのですね。
やさしい表情で聞いてあげたらいいのですね。

原田美枝子さんの優しい表情のように穏やかに。
この人はほんとうに綺麗に歳をとられた女優さんですね。

呆けは神様の贈り物という。
老人が生きる智恵かも知れない。

わが母はリュウマチの苦痛や
家族と暮らせない寂しさから
呆けることで逃避しているのかも知れない。

なら、付き合ってあげよう。
その方が楽ならね。
 
「折り梅」とは
梅は折れて老木となっても
枝からつぼみが生まれて美しい花を咲かせること。

浅き春に先駆けて凛と咲く古木の梅、素敵ですね。

温かい視点で老人介護を描いている「折り梅」という映画を
同じ介護に苦しむ人たちに観ていただきたいです。

 

この映画を思い出させてくださったことに感謝いたします。

そして
松井久子監督が昨日のお誕生日を機に
noteでマガジンをスタートされたそうです。

是非、読もうと思います。

http://松井久子のNoteマガジン「鏡のなかの言葉」

 

f:id:teinei-life:20200522111416j:plain