私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

いつも仕事はご褒美だった

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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2013年(平成25年)11月
和歌山県障がい者職業訓練の就職支援の講座を担当していました。

駅前から続く欅の並木を30分歩くとその教室はありました。
いち早く黄葉する欅並木の下を歩くのが好きでした。

和歌山までJR阪和線での移動時間を使って
FBにその日の講座についての取り組みや思いを書いてチェックイン、そのために撮影していた一枚です。

そんな日のこと
結構激しい雨の朝
歩かずにバスを使って向かっていると
半身に不自由を抱えながらも
就職に向けて訓練に通ってくる19歳の青年が
雨の中で、自転車のスタンドをどうにか立てようと悪戦苦闘しています。
普段でもしばらくかかるのです。

こんな雨の日に時間もかかってびしょ濡れになるし、途中も危ない。
怪我をさせたくない。
こんな日ぐらい、休んでもいいのよと言いたくなる。
やりきれなくて、どうしようもなくて
無力感でいっぱいになって
生半可な声をかけそうになってぐっと堪える。

その日の就職支援の講座は、自己理解と仕事理解でした。
そこに学ぶ人たちは、心と体に抱えている問題は様々。
様々に深い霧の中をさまよっています。

時として、教室が地雷原になることがありました。
踏まないように気をつけているのですが
つい、踏んでしまうことがありました。
共に吹き飛ぶ覚悟がなければできません。

それぞれに抱えている問題に、聴いているこちらの方が辛くなる。

「あなたにとって仕事ってなんですか?」
という質問に、19歳の彼は
「人の・役・に・立つ・こと」
しぼりだすようにしないと発声できないのです。
一生懸命に答えてくれました。

定年退職した会社で拗らせた
リストラに纏わる罪悪感を払拭したくて
罪滅ぼしできたらと始めたキャリアカウンセラーでした。

「藤原さん、ぼくらこれからどうやって生きてったらええねん?」
あの時に、答えられなかった質問にカウンセラーになって一生懸命答えてきました。

これまで、ごめんなさいでやっていた仕事が
いい仕事をさせてくれてありがとうになった瞬間でした。

19歳の魂のピュアさに心が震えました!

周りを巻きこんで、他の人にとってもいい時間になりました!

キャリアカウンセラー・コンサルタントの学びだけでは、日々の突き付けられる課題には追い付かず、京都のお寺で、深い心理の学びを積み重ねている頃でした。

折しも
「嫌われる勇気」でアドラー心理学がちょっとしたブームになり
「永遠のゼロ」がベストセラーになり映画もヒットしていました。

リストラがトリガーになって常に心が動いて辛い日々でした。

私の心にも地雷原がありました。
地雷原にあってオアシスみたいな19歳でした。
全身全霊で援けたくなる。
ほんまにええ子やった。

マナーの授業でも
不自由な手足でもきちんとしたお辞儀ができるようにと
手足が攣るほどに頑張る姿に感動と元気をもらいました。

そんな出会いがあって
ずっと名乗れなかったキャリアカウンセラーの名を、いつしか胸を張って名乗れるようになっていました。

おかげで引けてる足を
勇気を持って踏み出すことができた。

欅という木は個体によって紅、橙、黄と紅葉する。
そこに緑が混ざってそれは美しい。
それぞれに色が違うから味わいが増す。

人の世も同じ、違っていいハーモニーが奏でられる。

彩づいた欅の下を歩くとき
これからも、ずっと彼のことを思い出すだろう。

ありがとうね。

70歳を迎え、そろそろキャリアカウンセラーの仕事は
もっと若い人でもできる。
私は、この歳でないとできないことをやっていきたいと思う。

そう思いながらも
なかなか、この仕事から離れられないのです。

だって、若年者の就職支援のお仕事は頑張ってきた私へのご褒美だから。

富士山八合目、ここまで登ったのよ~。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2013年8月25日、63歳の夜明け
富士山の八合目の小屋の前からご来光を仰ぐ。

ご一緒したのは、73歳の中学校の恩師とその娘さんご夫妻。
並んで、ご来光を仰ぎました。
予定ではご来光は頂上から仰ぐことにしていました。

富士山は世界遺産登録まで秒読みだった。
これまで、山小屋の不備や安全性などと紆余曲折があって
なかなか認められませんでした。
そんな中、登山路にある山小屋は新設、増設、改築のラッシュ!
そこかしこに建築中の建物があり
なかなかに騒々しい場所となっていました。

事の起こりは
世界遺産に登録されたら
世界中から人が押しかけて登れなくなる。
登るなら、今のうちだと・・・。

中学2年の担任の片岡先生
先生が新任の時に入学、そして初めて担任した時の教え子が私たちでした。
そのご縁は途絶えることなく続き
いつか、その思い出も綴りたいと思っています。

御年73歳の先生は、登山歴もない、普段も登っていない。
それでも、一生で一度は登りたい!
レーニングするから連れて行ってほしい。
ツアーではついていけないから
あなたに頼みたいと言い出されます。

20年近く前に家族で富士山に登っています。
天候さえよければ、先生の足に合わせてゆっくり登れば
大丈夫だろう・・・。
ただし、難しいと判断したら途中で止めることを条件として・・・。

そろって大学の研究職の娘さんご夫婦が
迷惑をかけてはいけないからとサポートについてくださいました。

五合目の吉田口からの登山。
バスを降りると、そこはまるでちょっとした町の中で
20年前の記憶にはない姿です。

観光客がここまで入ってくるのです。

たくさんのお店が建ち並び、あまりの外国人の多さに慄きます。
そこにはモンベルもあって、中国人が登山用品を爆買いしていて
そのまま登山するらしい。

中には、半そで、半パン、サンダル?のようなもので
登山する中国人もいて・・・。死ぬ気なのでしょうか?!

信仰の山を汚すような行為も多々見受けて・・・

信仰の山とは無縁の姿に
世界遺産とは、自然と文化を守り
後世に残すことではなかったのかと憤りを覚えていました。

そんな戸惑う私たちの前に現れたのが大きな虹でした。
大いに励まされて登り始めました。

が、その虹は悪天の始まりでした。
六合目の富士山安全指導センターを過ぎるころから
雨が降り出し
岩場が始まる七合目からは本降りになり
先生の足が止まります。

急な岩場がこれから続いて、ここからは3000m。
3000mを越えてから高山病の危険も加わります。

今日の行程は、下山のための体力も考えて、八合目までと決めます。

先生を娘さんたちに預けて、一人で八合目に先行し
白雲荘に宿を確保したら、山小屋に荷物をデポしておいて
空身で迎えに降りました。

先生のザックは私が背負うことにして
空身になった先生に何とか八合目の小屋まで上がってもらいます。
娘さんご夫婦の様子もかなり気になります。

明日の天気次第では、登らずに下山は当然ですが・・・
天気でも難しいなと判断します。下山こそが最大の難関です。

ここから頂上を目指し、そこからの下山は先生の膝が持たないだろう。
下山ルートに山小屋は少ない。先生、ごめんなさい。

そして、そのことは先生も快諾されます。

山小屋は快適だったし、楽しい時間を過ごし
翌朝、諦めていたご来光がこれでした!

先生は元気を回復して
やはり、登れるのではと言い出す。
迷いました!登りたい!私も!
もしかしたら、登れるかもしれない。

山では、ご来光がきれいで、今は晴天でも
いつ天気は崩れるかわからない。

今日も予報では50%の確率。
山の中では、降らないまでもガスには濡れる。
8月も末で濡れると体温が下がる。体力の消耗が激しい。

迷う!迷う!迷う!
登らせてあげたい!

娘さんが助けてくれた。
「止めましょう」と。

あんなに晴れていたのに・・・
下山を始めるや、ガスに覆われて、雨が降ってくる。

長いルートをゆっくり、ゆっくり下る。
先生の足は頑張っている。

頂上から降りてきた人達と合流するようになると
ふらふらになって倒れそうな人が次々と・・・
やっとで歩いている人に道を譲りながら
先生の顔に納得の表情が浮かぶ。

「あ~。あのまま登っていたら、私もあんなふうになっていたのやね」

「もっと、ひどいことになっていたね」

先生、まだまだ下山道は続くよ、長いよ~、これからよ~
とは心の中で。

無事に、下山して
河口湖に宿をとり、吉田の火祭りを楽しみ
青木ヶ原の樹海と十分に楽しんで帰阪しました。

先生は、退職後を
画廊カフェをなさっています。

後日、伺ったら、富士山の写真が飾ってあり
来店されていたお客さんに、八合目付近を指さして
「私ここまで登ったのよ~」
と、得意そうに、嬉しそうに話しておられました。

私の思春期の中学時代
若くて颯爽としていた先生
その後も、女性が働くという姿をずっと見せていてもらいました。

先生、人生を下山するってのもなかなか難しいですよね~。

画廊カフェも20年過ぎましたね。
コロナ禍でどうなさっているかな。
久しぶりにお会いしに行こうかな・・・。

 

その他の写真

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同窓会のビールは苦い後悔の味・・・

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1998年(平成10年)4月19日の卒業30周年の同窓会(於:天王寺都ホテル本館)
写真は天王寺の居酒屋で 3年1組の仲間だけが残って流れた3次会。

当時は48歳、阪神淡路大震災の3年後、同級生の身にもいろいろ起こっていた。

おりしも、お気に入りの作家の五木寛之氏の「大河の一滴」が出版されて話題になっていた。
コロナ禍の今、また話題になっていることも不思議なめぐりあわせを感じている。

みんなまだ若いつもりでいるのが可笑しい。
すでに卒業して30年の月日が流れている。
人生の後半に向かっていることに気付かないでいた。
確実にそれぞれの歩んできた人生が
面差しに影を落としつつあるようだった。
それは私も例外ではなかった。

着ていく服に悩んでいた。
写真でも、私の肩広のジャケットはひと際目立っている。
90年代の肩に大きなパットを入れたファッションは
すでに古いデザインとなっていたのだろうに・・・

この時代は2人の子どもを私立の高校と大学に行かせていた。
教育費が最も嵩む世代・・・。
そうか・・・
同窓会のために服装を新調する余裕はなかったんだな・・・。

3次会になって初めて
担任の麻生先生の欠席に話題が及んだ。
これまでの同窓会には必ず出席してくださっていた。

在校中は苦手な英語の先生ということで
どうも、先生のことまで苦手になっていた。
卒業して、少し人生が進むようになって
はじめて恩師としてリスペクトし近しく思うようになっていた。

先生は舌癌を患われて、とても重篤な状態らしいという・・・。

しかも、いつもお世話をしてくれる同窓会クラス委員さんも不在・・・
入院中だという。

お酒が進むなか、みんなでお見舞いに行こうと盛り上がる。
私にその世話を押し付けてくる。そう感じていた。

その頃の私は、超が付くほど多忙で、常に仕事や雑事に追われていた。
たぶん、ここに写っている中で一番多忙を極めている。
そう思いこんでいたのだ。

重篤な状態に、みんなで押しかけるのはいかがなものか・・・。
入院しているところに、女性にとって同級生の見舞いは迷惑でしかないだろう。

行かない理由を捜して断った。
そして、その話は立ち消えになった。というか、もみ消した。

その次の新年
必ず返信を下さった先生から年賀状の返信はなかった。
そして、彼女の訃報もほどなく届いた。

後悔しかなかった。

そのことが、人との係わり方を変えた。

もう、苦い後悔をしたくない。

そして、決めた。
その頃、読んだ五木寛之氏の「他力」にあったように
「他力の風」に吹かれて生きると決めた。
全てのご縁を大切にして生きていく。

そう決めて、この20年。
他力の風に逆らわず、自分に回ってくるお役目はすべて引き受けてきた。
そうすることで多くの人と出会った。

そうすることで
私の人生は常に大きなものに守られてきた。

多くの人との出会いで私の人生はできている。

出会ってくださってありがとうございます。

たくさんの係わってくださった方からいただいた恩を
次の世代に送っていく。

「ツナグ」ことが私のゴールです。
誰かと一緒なら必ずできる。

どうか、どうか、まだまだお付き合いくださいませ。

 

タラのテーマ・・・「風と共去りぬ」

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1942年、17歳の春間近かの頃
天王寺のアポロ座というステーションビルの地下の映画館
憧れの先輩との初めての映画館でデート。

記憶にある私たちは高校の制服だったということは
どうやら、試験の終わった日とかで
午前中で終了した日の帰りだったのでしょうか。

書店で流れるBGM
風と共に去りぬ」のタラのテーマ
「タラララララララララララララ~♪」

先輩から誘われて出かけた思い出の映画が蘇ります。

美術部の文化祭での出し物で似顔絵を描いたことで始まって
1年上の先輩は運動部のキャプテンで女子人気抜群とか。
いつも自信たっぷりに親しげに
「あの似顔絵似てへんで」と話し掛けてきます。
あんまりドキドキするので
姿を見ると逃げ出していたものでした。

それでも、そのうちに図書館に出かけ
一緒に勉強するようになっていました。

今度の日曜に奈良に行こうと誘われたとき
両親に話すと
「男と二人っきりで出かけるなんてのは不良娘だ」
と言われて
「親がうるさいので行けません」と
行きたいと思いながらも断わってしまいました。

その後は誘われなくなりました。
そのうち、先輩は受験の真只中に・・・。

そんな日々にあって
映画に行こうと誘われました。

そりゃ嬉しかったです。
もう、親には言いません。

相変わらず、話もできず、目も合わせず
ドキドキするばかり・・・。

風と共に去りぬ」は大作中の大作でした。
あの頃の高校生ですから
二人ともその内容にすっかり圧倒されてしまって
終ったあとも互いに感動しすぎて無言でした。

そしてなんと
そのまま「さよなら」って
分かれて帰ってきてしまったのです。
今ならその内容をいつまでも語り合ったでしょう・・・。

その後は、先輩は受験勉強。
邪魔してはいけないとこちらから連絡することはありませんでした。

その後、先輩は受験に失敗
浪人生活に突入します。

ますます、勉強の邪魔になるからと思うし
自分も受験生の身となっていたこともあり
こちらからは連絡することはありませんでした。

時々架かってくる電話で
お互い受験生同士の会話をするだけでした。

一浪後、先輩は四国の国立大学に合格し
文通が始まりました。

その後どうなったか?
ラブレターが瀬戸内海を何通か渡りましたが
お互いに大学生になった私たちは
それぞれに違った空間を生き始めていました。
少しづつ手紙が疎遠になり、いつしか終わりました。

後日談ですが、奇しくも私の弟が
母校の教師となった先輩の教え子になっていることが発覚。
私の弟だと名乗ると、驚いたことでしょう。

「可愛い人だった!」
「僕は夢中だったけど、彼女はそれほどには思っていなかった」と聞いて
そう思わせてしまったことを悔やみました。

タラのテーマを聴くと、今もソワソワしてしまう。

タラのテーマの流れるのは
ヒロインが力強く立ち上がる最後の名場面
明日は明日の風が吹く~。
風と共に去ったのは私の最初の恋だったのです。

私にもこのテーマは永遠のテーマです。

 

 

 

過疎の郷・・・「最後までお守りしはったんやね・・・」

100人と書く「一枚の自分史」

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2018年12月 
福井県勝山市、恐竜博物館のすぐ下にある
母の里への悲しい訪問でした。
その年の2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。
雪が着く前にと
3ヶ月も早くに一周忌の法事が営まれました。

父の里は、母の里からまだかなり山の中にありました。
全ての法事が終った後、弟とそこを訪ねることになりました。

父の生まれ育った家を守る人はすでに途絶えていて
家終いの話が出ていました。

間に合ううちに自身のルーツを
今、たどらないとどんどんリセットされてしまう。
何も、次世代には伝わらない・・・。

小さな子供たちに
命のバトンを渡すために伝えたい。

だから、父の生家があるうちに
行ってこなければと思っていました。

車で送ってもらって
集落に入って家を探すのですがありません。
周辺も記憶の中の風景とは違っています。

すぐに、家は途絶えて、集落から出てしまいました。
歩いて引き返してみました。

集落の最後にある家まで引き返して
目にしたものは・・・

行き過ぎても分からないはずでした。

ユンボがまだそこにはありました。
ユンボの爪痕はまだ真新しい。

なんてことでしょう。
わずかに遅かったのです・・・

間に合いませんでした。

そこにはぽつんとお墓だけが遺されていました。

涙が溢れました。

枯れる前の花が供えられていました。

遅かったけれど
それでも、あの場に行けてよかった。
懐かしい人たちの面影を見ることができました。

山村の三男坊だった父が
口減らしのため、早くから村を出されてからも
ずっと援け続け、守ってきた家でした。

泣いている私に
弟がこう言います。
「ねえちゃん、誰も恨んだらあかんで」
「誰も恨んでへん。何でかわからへんけれど、誰かが私に乗り移って泣いてはるねん」
そういう感覚でした。
そういう弟も誰かに言わされていました。
誰が、何を伝えようとしているのでしょうか。

家というのは不思議なものです。
そこにある限り
人の思いも一緒にあるようです。

あの日々の暮らしもままならぬ時代に
自分の家族を養いながら
田舎の家族の生活も援けてきた。

そうした父の思いを
私たちは受け取っていました。
次世代にツナグと決めています。

家とはただ住むだけの箱では決してない。
不思議なものです。
思いが残っているうちは、家は壊されず
思いがそこに亡くなった時、家は役目を終える。

しっかりと思いを繋いで行こう。

集落の入り口にあった看板にある家は
父の家から先は消滅していました。

まさに限界集落の手前にありました。
過疎の郷・・・
逝きし世の面影
日本のいたるところで起きている風景です。

子どもの頃
母の実家は居心地がいいのに
父の実家は寂しくて嫌だった。

なぜか、今は分かった気がします。
平家の落人がひっそりと住んだ地だったから。

ただ、この村の人たちは
長住した家をただ朽ちるに任せるのではなく
きちんと更地に戻していました。
生活の後はなく、草が覆うばかり。
だから、行き過ぎてしまうほど何もなかったのです。

「最後まで守しはったんやね・・・」
この一枚の自分史を書かなかったら気が付きませんでした。

そうだった。
最後まで見届けて、自然にお返ししたんだ。
そこには、村の人たちのその地への感謝が見て取れました。

それで
朽ち果てた家を見ると哀しい。
そこに思いが残っている気がするからだったのかもしれない。
最後まで、家守りできなかった無念がそこにあるのかもしれない。

生者必滅、会者定離
この世に生を受けたものは必ず死に
出会ったものには必ず別れがくる。

去って行った人の心を引き継ぎ
次代に引き継いでいくことを大切にしたい。

いろいろと間に合わなかったことばかり・・・。

だから、今、書かねばと強く思います。
書いて、そこに置いておく。
必要なときに、必要な人が受け取ってもらえるように。

 

 

「また来るから~」最果ての利尻・礼文島を訪ねて・・・一枚の自分史

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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1971年、学生最後の夏休み。
6月末に、前期の最後の授業をさぼってフライングして
北海道旅行をした。

すっかり、北海道の大自然と人の優しさに触れて虜になった。

その中でも、強く印象に残っているのが最果ての利尻・礼文島

戦争を知らない子どもたち」が流れ、70年安保の年に二十歳。
学生運動の渦中の学生生活から逃げ出すように
自分を探すために
あの頃の学生たちはザックを担いで旅に出た。
そんな私たちはカニ族と呼ばれていた。
JR、その頃は国鉄。列車の乗り降りや、通路を通るのに
担いでいるザックが横広のため
カニのように横ばいで歩いたのでその名がついた。

旅の相棒は部活仲間の女子一人と男子一人いう、逆ドリカム現象?
時々、その男子は、他の女子にひかれて
のこのことついていってしまう。
許っていたら、また、ひょこっと姿を現す。
自由な旅だった。

この写真は
礼文島のお花畑から「利尻岳」を撮ったもの。
そこに「私」が写り込んでいる。
「私」ではなくて「利尻岳」を撮ってもらっている。
だから体を傾げている。

見せたかったものは
お花畑で笑っている自分ではない。

私が見せたかったのは
串田孫一さんの日本100名山の一番目の座
海の向こうに浮かぶ利尻岳

叫びたかった!
「昨日、あの頂上に立ったよ~」
だからご機嫌なのだった。

このどや顔、50年近くも経ってから発見!
ずっとお花に囲まれている自分ばかり見ていたから
気が付かなかった。

あの頂上に立つたんだと思うと満たされる
そんな若き日の自分が蘇る。

もう、100名山制覇はこれからはないだろう。
100番目の座、屋久宮之浦岳は8年前に・・・。

100名山の一歩目をこの時踏み出したんだ。
そのことをふいに思い出した。

標高1718m、しかも海抜から登るので
日本アルプスの峻峰に登るより高低差はある。
しかも北の果ての山。
今から思えば、登るにはふさわしくない軽装!
若気の至りで、勢いで、いとも軽々と登ってしまったのだ。

朝一番に稚内の港からフェリーで鴛泊に着き
YHに荷物を預け、行動食と水だけを持って、そのまま登った。
最初は10人位で取りついたのが、頂上までたどり着いたのはたったの三人。
下山したのは日が落ちる寸前だった。
夕陽が真っ赤に海を染めて落ちる。
それを見ながら走って降りた。

そんな前日の興奮を引きずっていた。
そりゃ、こんな顔にもなるよね・・・。

礼文島から望む利尻岳は高く美しい。

潮風に吹かれながら、山に向かって
「また来るから~」とつぶやいてみる。

暑い大阪に帰ると、就職活動が始まる。
男子優先社会、大卒女子には厳しい世界が待っている。
進路に悩み、行く手には漠然と不安を抱えていた。

学生の特権、自由を取り上げられる。
好きなことはもうできないのか・・・
この旅を最後に。

旅を楽しみながらも切なさは心のどこかにあった。

はたして
卒業してから、つい最近まで、70歳を超えて
自分ではない誰かのために生き、役割を果たす日々は続いた。

やっと、仕事に一線を引いて再び自由になった。
したいことをして、行きたいときに、行きたいところに行ける。

なのに・・・コロナめ!
このタイミングでやってくるのか?

2月からの巣篭りを解いて
10月に利尻・礼文島に行くことにした。

コロナめ!
GOTOトラベルキャンペーンを使ってやるから!

「また来るから~」とつぶやいたあの日からは
すでに50年近く過ぎている。

過去と現在がどう繋がるのだろうか。
楽しみにしている。

 

その他の写真

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一枚の自分史 「母と娘の涸沢の山旅2009」

 

 

「はじめよう!自分史生活」講座

一枚の写真から作る自分史の

ワークショップに行ってきました。

 

講師の河出さんは

日本古典文学全集や日本文学全集と

学生時代にお世話になった河出書房の

なんと!

四代目河出岩夫さんでした。

 

その一篇の日本の現代文学史は

河出さんの自分史、家族史に

他なりませんでした。

 

川端康成松本清張・・・他にも多くの文人

写っている三代目の一枚の写真に

ワクワクするミーハーな私。(笑)

 

文学少女だったあの頃に戻る時間でした。

 

一枚の写真からの自分史のワークショップ

ポイントを教えていただいて早速作成しましたので

ご紹介します。

 

ゆっくりと写真を探す時間がなくて・・・

手近かにあったものを使ったので

割りに最近のものです。

とはいえ、2009年秋のものです。

 

「母と娘の涸沢の山旅2009」

 

もうすぐ娘が嫁いで行く。

それまでに

「おかあさんと想い出に残る旅がしたいね」

という娘。

 

母娘別れ旅は

娘がまだ小学生だった頃に奥穂高岳に登ったときに

テントで露営した涸沢まで行こうということになりました。

 

折しも

涸沢では山と渓谷社の主宰で

「からさわフェスティバル2009」をやっていて

山好きな人が集まってにぎわう山での

楽しい旅となりました。

 

エベレストに初めて登頂した女性

田部井淳子さんがご主人とご一緒に来ておられて

娘や若い人たちの中に気軽に入って来られて

小屋のテラスの隣の席でお茶をいただいたことなどの

サプライズもありました。

 

思い出に残ることは、数々あるのですが・・・。

 

横尾を過ぎて徳沢園に着く頃

日ごろの運動不足がたたって

足が重くて思うように前に進みません。

どんどん若い人たちに追い抜かれて行きます。

 

今回は小屋泊まりにして

荷物は軽量化しているのに…。

久しぶりの山歩き

 

本格的な登りにかかると

荷物が重く肩に食い込みます。

 

ただひたすらに足を進めているうち

記憶にある小さなあの子の

前を歩く足元を見ていました。

 

ザックに寝袋を入れて

上に荷物を高く重ねているので

頭が隠れて見えない。

ザックをピョンピョンと揺らしながら

登っていく我が子の姿が目の前にありました。

 

石に躓きそうになってなって

ハッと我に返ると・・・。

 

あの日

あの子の足元を見守った私と同じように

私の足元を気遣って

一歩一歩、歩調を合わせてくれている

気配が後ろにありました。

 

ようやく涸沢小屋に到着。

 

懐かしい奥穂、北穂の姿や

彩とりどりのテントの群れを眺めながら

あの夏盛りに雪渓ではしゃいでいた姿を

思い出しながらビールで祝杯!

 

星空は騒々しいほど・・・

 

次に来るときは

孫っこたちも一緒だったらいいなと話しながら

すし詰めの小屋の喧騒の中で

久しぶりにくっついて眠りにつきました。

 

 

一枚の写真からの自分史を語る一コマでした。

 

こうして何枚かの写真と物語を重ねていくと

それが自分の物語りになりますよね。

 

楽しみながら

空いた時間に積み重ねていけたらいいなと

思っています。

 

この時のサプライズ!

ヤマケイJOYという登山誌のグラビアに

私と娘も写っています。

これもいい思い出です。

 

 

この世は愛を育てる

愛の学校です。

 

絶賛実習中です!(笑)