私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

恩人たちにはどんな感謝を送ればいいのだろう。

人との出会いが
人生の危機的な状態から救ってくれていた
という気付きがありました。

ボランティアを通じて
50代に入るその直前に出会った三人でした。
私たちは二日おきにこの世に生まれました。

時を同じくして生まれても
子ども時代を近い場所でよく似た環境で育ちながらも
大人になってからは違う環境と価値観で生きてきた彼

遠くで生まれながらも
学生時代以降はよく似た環境で生きて
共通する価値観を持って生きてきた彼女

時間を忘れて三人でよく語り合いました。

価値観の違う彼には
私たちは違う生き物だったようでした。
会社という社会での成功体験から見ているらしく
私たちの思考はいつも現実からは遠く
世間の物差しからははみ出して見えるらしく
常に軌道修正をかけられ
ぼろくそに言われ続けました。

出る杭は打たれる。
打たれる姿を見たくないばかりの
思いやりから始まるだけに
始末に負えないマウントでした。

彼女は
あなたの提案は10年は早いと
ことごとく退けられ続けた私を
支持し支えてくれました。
自らは行動は起こさなくても
寄り添って一緒に闘ってくれました。

それぞれの方法で常に寄り添ってくれていました。

その頃の私は
いくつ抱えているのかわからないぐらい
母の介護に始まる家族の問題
自身の会社のリストラにはじまって
これでもかという困難な案件を抱えていました。 

次々と起こるのは
家族の問題とはいえ
それぞれが解決しないといけない問題ばかりで
寄り添うことはできても
自分ではどうにかできる問題ではなかったのです。

リストラされる側に寄り沿いながら
リストラをする立場に立たされている罪悪感など・・・

その頃は課題の分離ができなくて
すべてを自分の問題にして満身創痍で苦しみました。

そして自己不全感から逃れるために
ボランティアに逃げました。

自分史年表を書くうちに
かなたに無理やり押しやっていた記憶が蘇ってきました。
そうや・・・
そして、依存してたな・・・私。

誰かに依存していないと
立っていることができなかった日々でした。

その頃、詩を書いています。

心の平安

  冬の嵐が吹き荒れています

  傘の下にいてもいいですか

  心の平安だけが欲しいって言ってた

  フレーズを覚えていますか

  信じていたらいいのですか

  また、笑ってくれますか

  背中をさすってくれますか

  とても不安です 

  嵐が止むまで傘のしたに、

  もうしばらくはいさせてください

  何もいりませんから

  心に平安が訪れるまで

 

人は一つか二つの困難なら何とかなる。
けれどそれだけ問題を抱えたら心も体も持たない。

そう、今思えば病まなかったことが奇跡のようなものでした。

依存する。そして依存させる。
そこから得られる二次利得で互いに繋がっていました。
セオリー通りのことがあの頃は起こっていました。

やがて、一人は
他を活かし助けるためではなく
自分を活かすために闘うことを選び
依存関係は解消していきました。

もう一人とは
共依存の関係が苦しくなって自分から少しづつ離れました。

そんな出会いから20年経って
あの頃の私を支えてくれたのは
まがうことなくこの二人だったと気付きました。
いやうすうすは気が付いていましたが
はっきりと共依存という関係だったと文字にしました。

その数日後でした。

なんと・・・
その頃、会議の後に繰り出して喧々諤々やっていた
居酒屋さんが閉店することになり
最後の日に集まる機会を何年ぶりかで得ることができました。

そして、いとも自然な形で
「あの頃はめちゃくちゃ依存してたね~!ごめんな~!」
「ある意味、命の恩人だったと思う。ありがとう。」
と軽々と口に出していた。ちょっと軽いぐらい・・・。

そして、二人の口から出たのも
「自分もそうやった!依存しあっていた。」
「こっちこそどれだけ助けてもらっていたかわからない。ごめんな!」だった。

あの頃の私たちは遅れてやってきた青春時代の末期を過ごしていた。
酔いが回るほどに、その頃を懐かしく思い出していた。

恩人たちにはどんな感謝を送ればいいのだろう。

それぞれが老後となるサードステージの入り口に立っている。
どうか幸せなサードステージであれと祈る。

 

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想い出の母の刺し子の着物

18年前の8月の暑い盛り
「優子の着物縫ったから届けに来たよ」
昼休みに母が職場までやってきました。
その時のこと、昨日のように覚えています。

何も、こんな暑い時に持ってこなくてもいいのに・・・
昼休みではゆっくり話す暇もないやん。

しかも、袷やし・・・
なんで今なん?わざわざ・・・?

それが母に縫ってもらった最後のきものになるとは
その時はつゆ知らず・・・。

刺し子の着物でした。
一反をひと針、ひと針刺してから縫い上げたものでした。
だから、すぐに見せたかったのだろうな・・・。

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着物が好きで
人に頼まれると気軽に
引き受けて縫っていました。

元々
福井の山の中から東京に出て
東京高等技芸学校で洋裁を学んでいます。
洋裁も和裁も筋金が入っていました。

そんな母も寄る年波には勝てなかったのか
その1年前ぐらいだったか
縫ってもらった襦袢に
待ち針が残されているという事件があり
私のだったからよかった
もう、人のものを縫うのは止めるようにと説得をして
預かっていた反物は、事情を話してお返しをしました。

大分ショックだったらしく
暫くはしょんぼりしていたけれど
いい機会だから、これからは
私や孫娘のものだけを縫ってほしいというと
張り切ってまた縫い始めた。

手仕事がとことん好きな人でした。

花嫁の打掛に刺繍をして作品展に出品したり
着物を手書きしたり、袋物はプロでした。

そんな人が
リューマチという病に侵されて手が動かなくなります。
唯一の楽しみをいきなり取り上げられて
どう暮らしていたのでしょう。
あの世代の人はなんでも我慢してしまう。
気丈に一人で頑張っていました。

そんな状態で長く続けられるわけがない。
ある日、あたふたと迎えに行くことになります。
後は、坂道を転げるように心身ともに弱っていきました。

その頃、留学生に成人のお祝いに
振袖を着せるボランティアをしていました。

日本の親が娘のために用意した特別な着物を
親の思いと一緒に異国で頑張っている留学生たちに着せる。

タンスに眠っている着物を寄贈していただいて着せていました。

そのことを母は喜んでいて、いろいろと手伝ってくれました。

そんな場で刺し子の着物を着ているところを見せたくて
振袖の会で着ることにしました。

喜んでもらおうと、施設まで見せに行ったのですが・・・
もうよくわかっていない様子でした。
それでも着たところを見せることができただけでもよしとしました。

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大連からの留学生が私の中振り袖を着てくれています。

この写真も15年以上経ちました。
皆さん若いです!それぞれに国でどうしているのでしょうね~。

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その次に着たのは
大坂適塾プロジェクト「結」で
「母から繋がる江戸しぐさ」のお話を
最後に縫ってくれた刺し子の着物を着て語りました。

江戸がエコの都市であったことをお伝えするのに
こうして着ている着物もエコであることもお伝えしました。
元々、刺し子の着物は労働着だったのです。
痛んだところを繕ったことから始まったそうです。
チクチクと糸を刺すことで労働に耐えるように頑丈にしたのですね。

まさにぴったりでしたよね。
おかあさん。見ていたよね。

参加した方が書いてくれました。

私の大好きな江戸しぐさの優子さんのお召し物は着物で
優子さんのお母さんが縫われた刺し子だと聞いてビックリ。
じっくり見せてもらうと
確かに手で一針一針丁寧に縫われていて、手間をかけて
相手を思いながら作られたものがここにあって
こうやって受け継がれていくということに
不思議な感動を覚えました。

そのように思っていただける。

着物には思いがこもっています。
着る人を幸せにする。

いろいろな思い入れのある着物があります。
そのなかでも一番!
もっと着たいと思う着物です。

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母とマナーと私

何故、マナーなのか?

母がきっかけでした。
父が68歳で亡くった後、母は天下茶屋で70歳を超えても、一人で元気に暮らしていました。

ある日
福井県の大野の作法の家元のところに通って、師範の看板もらってくるから、二つ入っている生命保険を一つ解約してもいいよな?」
と言って来ました。

確かに、茶道や華道など、こういう習いごとで師範の看板をもらうには百万円近くかかります。何で今さら?

そのころは認知症とは言わず、痴呆症と言ったのですが、いよいよ痴呆症が始まったのか?おかしなことを言い出したな?まさか、その歳で・・・?

「自分で掛けている保険だから好きにしたらいいやん!」
とどうせ言ってるだけだろうと、
「ふんふん」
と聞き流していました。

すると、本当に毎月通い出したのです。
「勉強はこの歳では大変やねん!」
と言いながら・・・。

それよりは、4時間もかけて泊りがけで行く方が大変じゃないの?
そんな心配をよそに、しゃきっとおしゃれして楽しそうに出かけていたようです。
しかも、大野は、母が生まれた勝山の隣町で、故郷に帰ったり、学生時代の友人の家に泊まったりと、今から思えば、若いころに戻った思いだったのでしょう。

そこでですが!
何故、いまさらだったのでしょう!

母には、5人の孫娘がいました。その孫娘たちの行儀の悪さが気になったそうです。
特に!一番上の孫娘!ほとんどこの娘が主にお行儀が悪かったのですが・・・。
親の顔が見たいわー!と思ったそうです・・・。
ちょっと、おかあさん!それって私の事?

電車に乗れば、若い女の子がだらしなく腰掛けて、ことば遣いも悪いし、お化粧も平気でする。

また、親の顔が見たいわー!と思ったそうです・・・。
それで、はたと気がついたそうです。これは、自分たちの責任だって!
戦争が終わって、生きて行くことだけに一生懸命で躾もなにもできていなかった!
だから、自分が勉強してきて、ちゃんと孫たちに伝えなくちゃ!

そこから、6年、母は福井県大野に通いました。
口述筆記したものをワープロ起しするのは私の仕事でした。
嫌々やってましたから、
「こんな汚い字ぃ、読めへんやん!」
とプリプリしながら調べながらでしたが、今思えばそれがいい勉強になっていました。

そんな母の想いから、そのころの私は仕事に追われ、子育てに追われて、面倒臭くて逃げ回っていました。

ただ、子供たちは、作法のお勉強ですと言って座らされていました。
座布団の使い方など、よくもまあ嫌がらずに聞いていたものです。

みんなおばあちゃんのことが大好きだったのです。

「2年で看板とってくるわー」
と言ってましたが、案外かかりました。
通い始めて5年後、2月に看板が届きました。

母が、70歳になってから作法の家元に通い始めて、作法師範の看板をもらったのが76歳になった2月でした。
6月、病に倒れ、そのまま2年半、病院と施設を行き来することになりました。
できるだけ母のことに間を空けないようにしていたのに、少し疎になった時に限って・・・。

悔やんでも悔やみきれなかった。
半分、心はどこかに置いてきたような母の姿。
リューマチに侵されて、痛い痛い病院での日々。
介護度は5・・・。
一人だと食事にも手をつけないから、会社に行く前に寄り、お昼休みに駆けつけ、会社の帰りにも病院によって一緒に食事を採るようにした3ヶ月間。
ダメなときは大学4回生で就活中の娘が私の代わりをしてくれた。

退院してからは、老健の施設に入った。
ずいぶん元気になった。介護度は1!

3ヶ月後、施設を出るにあたって、優子のところで暮らしたいというのが母の希望でした。それなのに、弟のところに行くようにと説得を毎日繰り返した。家では母を引き取ることには全員の同意を得ることができなかったから・・・。

弟のところでも同じような老健施設に入居することになります。
最初は施設で一番元気なおばあちゃん!
他の入居者さんの洗濯ものを畳んだりとお世話を焼いていたらしい・・・。

学んだ作法のファイルが数冊に及んでいたものを本にしてほしいと言う。
弟たちは、母が呆けてきたから「何とか諦めるように説得して!」と言う。

いやいや、なんとかその望みは叶えてあげたい!
どうしたら、本にできるか?
ブログで発信し、それを纏めて出版がいいのではと思っていた。

その矢先でした。
何時までも家に帰れない自分のことが辛くても、あの世代の人はとことん我慢をする。
病気で手が動かない。好きな手仕事もできない。絶望しかなかったろう。
どんどん坂道を転げて行くように呆けていった。
まるで、自ら選んだように・・・。

作法のこと、後を継いでやってほしいと何度も何度も言う。
するすると逃げ回っていた。
しまった!と思った時は、いつも遅い。
会社のリストラで、毎日が残業で、どうしようもなかった。

言い訳しているうちに逝ってしまった。

後悔の念で食事ができなくなった。
それでも働き続けたら、介護を始めたときから10Kg以上痩せていた。
その夏は異例の炎暑だったそうだが、一切暑さを感じない夏だった。

暗い話に付き合わせてごめんなさい。

この後、立ち直りますが、それには作法の学びがありました。

毎日、仕事に追われる私。

どんどん坂道を転げるように弱っていった母。
それでも、まだ大丈夫と思っていた私。

命を助けるための手術が、死を早めてしまいました。

何も話せず、聴くこともできずに母は逝ってしまいました。
何をしてほしかったのだろう・・・。

1ヶ月は、何も考えられず、仕事と家事に費やす時間以外はひたすら眠っていました。
その後に来たのが喪失感と深い後悔でした。
誰からも痩せたねと驚かれるようになっていました。

3ヶ月目、母は何がやりたかったのだろう・・・。
探しました。
作法のファイルが何冊か残されました。

母が病んでいるうち、作法の師であった先生は亡くなられ
その後継者もいませんでした。

母に作法を繋いでほしいと懇願されても仕事を理由に逃げ回っていました。
取り返しのつかないことをしたと思うと居たたまらない日々でした。

関西にある作法会を探し、何も考えずに説明会に参加しました。
そしてすべてはご縁だと思い、そこで作法を学ぶことにしました。

1年くらいは、母の所作の美しかったことを思い出します。
自分の姿勢の悪さや付け焼刃ではできないことを思い知るばかり・・・
なんて勿体ない事をしてしまったのかと
ますます後悔するばかりでした。

作法会では、年齢は重ねながらもできていないことを思い知ります。
会長や先輩方から注意を受ける度に自信喪失していきました。

作法を学んで解ったことは、
知っているようで解っていなかったこと。
解っていてもできないこと。
意識したらできても、自然にはできてはいないことでした。
貴重な学びでした。

ですが、私は、生来できないことがあると嫌なんですよね!
反発力で生きてきたようなところがあります。
ここは結構な頑張りでした。

そして、その1年後に娘が入会してきます。
ほんまにびっくりしますわ!
説明会に行って、試し授業を受けて入会してきたからという事後報告!

娘は働いて3年経った時、
このままこれからもずっと同じように勤めているだけだろうかと思った。
このままでは嫌だ!ステップUPしたい!
そのために、何をしたらよいのかを色々探していました。

娘が入会したきっかけは
「祖母が亡くなって落ち込んでいた母が作法会で学び出してから元気になったこと」
だったと聞きました。

後ろから娘が走ってきます!
嬉しいけれど、ボヤボヤしてられませんよねぇ・・・。

ちょっと待って!
でも、これって!?もしや母の陰謀では?
母が作法の道を目指した原因は、まがうことなくこの孫娘にあったのでは?

おかあさん、やってくれるね!
あの世からきっちり送ってるよね・・・?
違ってる?

亡くなっても、母の野望は果てしなく続きました。
これでは終わりませんでした!

母が作法を始めたのが、この娘のお行儀の悪いことが始まりでした。
母が亡くなった後、私は母の後姿を追いかけました。
そして、娘が私の後を追いかけてきました。

ということは?
ははーん!
そういうことだったのやね・・・。
母の目的は、この娘でした。
ということは?私はその橋渡し役だったの?
やってくれますね!おかあさん!
我が意を得たりでしたね!

その頃は、作法会では本町に大阪教室があって、娘の会社は西長堀
7時からの授業に間に合わないので、会社の自転車で暴走して来て、終わると会社に戻って、また仕事をして、11時ごろ帰宅するというパターンで週2回!

ほんまによう頑張りました・・・。
私もぼやぼやしてられませんでした!

総務部の仕事は、何もなければ定時で終わる仕事ですが、授業がある日に限って、何かトラブルが起こります。
5時過ぎて内線が入ると嫌ーな予感!
バタバタと仕事を片づけることを苦々しく思っていた人もいたでしょう・・・。
毎回、電車に飛び乗るというアクロバットを繰り返しながら
皆勤で修了しました。
マナーの講師なのに顰蹙ものでした。

そうこうして、準師範をいただきましたところ、早速、仕事が入りました。

和泉市にある大学で、1年に4回から6回、留学生たちに日本のマナーを伝える非常勤の講師です。有給休暇を工面して4年続けました。

そして、定年退職を迎えました。
同時に、兵庫県の福祉系の大学の留学生に「ビジネス日本語」の講座を2コマ通年で開講することになりました。

何かを始めると、仕事の方からやってきました。
これぞ、我がはからいにあらず!
その後も、30年事務職だったのですが、サービス接遇職の方が適性があったらしく、接遇の勉強を始めたところ、すぐにサービス接遇指導の仕事が入るという準備のよさ!

これも我がはからいにあらず!
こういうことが重なるのが不思議です!

これも、みな母がやりたかったことらしい。
野望は留まるところを知らず・・・。

だから、私のライフワークの中にはキッズマナーがあります。
マナー(作法)を孫たちに伝えるのは母の思いでした。
完全に母がやりたかったことです。

どうやら、私の周りにいつも母はいるような気がします。
はい!はい!おかあさん!
私、妄想ばかりしている場合ではないですよね。

自分のキャリアの集大成をしながら、父の物語を書く。
それが済んだら、おかあさんのしたかったことするからね。
順番待たせてごめんなさい。
ちゃんと見ていてくださいね!

私、いよいよ始めたよ。
キッズマナーに係わっていくこと。
休校になった子どもたちに向けた無料オンラインスクール
「親子で考えよう!子どものマナーしつもん授業」という動画を作って載せたよ。

絵本を出版し、テキストを作成して
ジャッジしない、コントロールしない子どものマナーしつもん授業をする。
それを広める。キッズマナーインストラクターを輩出する。

それが母の野望です!

そして私の野望でもあるのです!

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家族の思い出からたどる自分の物語・・・「父の歳を超える」

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父が亡くなって数年は

さくらに青空が透けて見えると

悲しくなりました。

 

あの日は

そういう日でした。

 

平成の元年3月28日に父は亡くなりました。

68歳でした。

 

とうとう

私は父の生きた時間を超えてしまいました。

 


父は60歳を目前にして 

職場で心筋梗塞で倒れ

一命は取り留めても

心臓の半分は壊死した状態。

 

その後、今度発作を起したら

命の保証はないと言われて

数回発作を起し

入退院を繰り返しながらも

その後8年生き長らえました。

永年、営んだ会社を

不本意だったろうが

どこにも迷惑を掛けない形で

自主廃業。

 

それが亡くなる前年の8月。

 

2月に申告を終わらせてすべて完了。

それを待って、旅立っていきました。


 

その8年は

それまでの商売一辺倒から

趣味や地域の奉仕にと

十分に楽しんで生きたようでした。

 

自主廃業と共に財産を失い

家も失いました。

 

残ったのは障害年金と軍人恩給。

 

幸いにも、その額は

高齢者夫婦が

新築の市営のマンションに住み

家賃を払っても十分に

余裕のあるものだったのです。

 

趣味の教室を開いて生徒を集め

謡い、三味線、太鼓や鼓を叩いていました。

 

弟子の中には

新進落語家がお囃子を

習いに来ていたりしていて賑やか!



住居の新しい市営のマンションでは

障害者ということで

1階の管理人室が当り

手当てもいただいていました。


毎日、若い奥さんたちがやってきて

自治会の発足のための会議を開き

規約をつくり

それをワープロで打ちたいからと

パソコンも習いに行っていたのです。

 

初代の自治会長の予定でした。


 
充実した68歳だったと思いました。

 

それぐらい楽しくやっていたら

免疫力も高まる。

 

医師からは

その症状の回復の程度により

障害年金が不支給になるから

診断書には重い目に書いておきましょう」

とまで言われたそうです。



その矢先でした。

 

自宅に帰ってくる途上

ほんの100m手前であっけなく逝ってしまいました。

 

人生ってわからない。
 

母の孤独でつらい最後を看取った時からは

いい死に方だったかもしれないと

思うようになったけれど…

 

その当時は

いきなり逝ってしまったことを

未完了を残して行ったことを

恨んだものです。

 

お父さんは

どうだったんだろう?

どう生きたかったんだろう…

 

その後はどうなりたかったんだろう…

 

お父さんの未知のゾーンに踏み込んで

お父さんのやりたかったことやるね・・・。

 

そのひとつが

あの戦争で生き延びた生きた家族の歴史

孫たちへの命のバトン

家族の物語を残しておくこと。

 

明日から、父の故郷の福井に行ってきます。

 

少し、足跡を歩けたらいいな・・・。

 

また、長くなりましたね・・・
最後まで読んでくださってありがとうございます。

マイストーリー From CINEMA~映画から自分史を書く~「母べえ」(2007)

今日は自分史活用アドバイザーの活動を紹介します。

 

自分史だとなんだか大層になってしまいますが・・・

 

マイストーリー From CINEMA

 

このぐらいのネーミングだと書きやすい、読みやすいかもしれませんね。

 

誰もが印象に残っている映画があるでしょう。

それにまつわる思い出も・・・。

 

映画のシーンと

それぞれのシーンを絡ませて書いちゃいましょう!マイストーリー

 

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はぼ10年ぐらい前に観た映画

吉永小百合主演の「母べえ」を観たときのことです。

 

そのころ、地域では月に1回

市の文化協会が映画会をしていました。

 

会社では、行政の調査が入っていて、大忙し・・・

母べえ」は観たいと思いながら

観損ねていた映画だったのです。


母の優しさと強さがテーマの映画でした。

当然のように、子供のころの「お母ちゃん」との思い出が胸を巡りました。


映画では、丸い卓袱台が常に中心にありました。

懐かしいなあ・・・。


丸い卓袱台を囲む家族の姿

小さかった私や妹弟の姿、裸電球を思い出しました。


夕食の時間に商売で忙しい父と母の姿はなくても

そこには温かい雰囲気がありました。

 

食事は決まって卓袱台を囲んでいたし

学校の宿題をするのも

絵を描くのも卓袱台でした。


家族はもちろん

人が丸く囲んで、時を過ごす。共有する。

そういうことが必要なんでしょうね。

会場で椅子に座るとき

横のご高齢のご婦人に会釈をしたところ

静かに微笑んでくださいました。


仕事終わりに急いで来たので

サンドイッチを買って持ち込んでいました。

食べるのにお隣の方に気が引けて

「すいません。お行儀の悪いことしますね。今仕事を終えたばかりなので・・・」

言い訳したことで、会話が始まりました。


80歳を過ぎたご高齢で一人で映画を観に来られる姿に心が動き

「映画がお好きなんですね。どんな映画を観られましたか?」と話しかけてみました。


1年前にご主人を亡くされて、2年ぶりだと・・・

いつも同じ場所でお二人で観に来ていたこと

戦場のピアニスト」「半落ち」がよかったと話される。

感性が枯れておられない・・・。

 

終わっても、感想を話し合いながら帰ってきました。

母べえ」を観にきて、

母が生きていたら同じ年頃・・・

よく似た雰囲気の方

こうしてお会いするのもご縁だろうか・・・

と思ったことでした。


次月の映画会でも、是非お会いして、映画のお話をしたい。

少し足がご不自由なので、階段の上がり下りを、また介助して差し上げたい。


また、会えたら「母べえ」とお呼びするつもりでした。

 

あれから、お会いすることもなく10年以上過ぎてしまいました。

映画の内容と現実が微妙にオーバーラップする思い出になりました。

 

お元気なら90歳オーバー

あのまま

ますますお元気でいらしゃるような気がしています。

どうか、またどこかで会えますように・・・。

 

見どころ

山田洋次監督が昭和初期につつましく生きる家族の姿をとらえて、

現代の家族へのメッセージとしてつづった感動の家族ドラマ。

夫のいない家族を支える強くてけなげな母親を演じた

主演の吉永小百合をはじめ、坂東三津五郎浅野忠信

子役の志田未来佐藤未来が、戦前の動乱に翻弄されながらも

懸命に生き抜く人々にふんする。

戦争の悲劇を描きながらも、平和や家族の大切さ、幸せとは何かを

改めて思い出させてくれる。

 

あらすじ

世界情勢が緊張を帯びてきた昭和15年

ドイツ文学者の父・滋(坂東三津五郎)が、

反戦を唱えたとして逮捕されてしまう。

悲しみにくれる母・佳代(吉永小百合)と

2人の娘(志田未来佐藤未来)だったが、

父の教え子や親類、近所の人たちに支えられ、

明るく力強く生きていこうとする。

一枚の自分史 「妹と弟のご飯は私が食べさせる」

幸せを次世代に送る

 

自分史活用アドバイザーの藤原優子です。

 

 

一枚の写真から作る自分史

「妹と弟のご飯は私が食べさせる」

 

 

この写真はどこの現場の飯場でしょう・・・

幼かった頃の我が家のダイニングキッチンです。(笑)

 

私の育った家は

このころは戦後10年を経て

次々と建設される個人宅や旅館などに

風呂の窯を設置する

窯付きという家業をしていて

数人を雇っていました。

そのころは、その人たちの三度の食事は

雇い主が提供していました。

 

大きなお釜ややかんが後ろに写っていますね。

ここには写っていませんが、

たぶん、横には4歳下の弟もいたはずです。

 

大人が食事をした大きな丼鉢の中で

私も妹もモリモリ食べていますね。

 

中々にたくましく育っています。

誰がこんな写真を撮ったのでしょうか?(笑)

 

昭和30年初頭の我が家には

こういうスナップがあるのが不思議です。

 

我が家にカメラがやってきたのは

私が4年生の時ですから

誰かカメラマニアの人が身近にいたのでしょう。

 

母は朝から晩まで商売に追われていて

幼い子ども3人のことに構っていられなくて

食事もお店の人たちと一緒に済ませる毎日でした。

 

この当時から数年したらすでに

大勢の食事の買い物をする役目を果たしていました。

 

このころから

母を援けるために

「妹と弟のご飯は私が食べさせる」

私は幼児決断したらしいのです。

それから

ウン十年つい数年前まで

それをやり続けてきた人生だったらしい。

 

自分の習慣で困ったことの一つに

「ご飯を作り過ぎる」があります。

適度な量は2人分なのに

気が付けば4人分作ってしまう。

そしてそのことが食べ過ぎを招いてしまう。

 

その原因がどこにあるかを心理学的に探ったとき

「妹と弟のご飯は私が食べさせる」にあったのです。

 

夜もすっかり更けて

裸電球の灯る居間で

丸いちゃぶ台の周りに

放射線状にうたた寝ている幼い姉弟たち

 

慌てて駆け込んだ母

そのちゃぶ台の上には夕食を食べた後のお茶碗が・・・

「ねえちゃんが食べさせてくれたんや・・・」

「ごめんな・・・」そう呟いている母の疲れた顔

そのイメージが蘇ったのです。

 

「そうか、わたし、ずっと妹弟に今でも

ご飯食べさせないといけないと思っていたんだ・・・」

 

何しろその妹弟はすでに60歳を過ぎている

大きな大人であり、その必要はすでにない。

 

それに気付いたとき

作る量はかなり適量に近付きました。

 

が・・・

食べ過ぎる習慣は収まらず・・・

困ったものです。(笑)

 

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一枚の写真からの自分史を語る一コマでした。

 

こうして何枚かの写真と物語を重ねていくと

それが自分の物語りになりますよね。

 

楽しみながら

空いた時間に積み重ねていけたらいいなと

思っています。

 

この世は愛を育てる愛の学校です。

絶賛実習中です!(笑)

 

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自分史を書く

 

一枚の自分史 「母と娘の涸沢の山旅2009」

 

 

 

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自分史にご興味をお持ちの方はお問い合わせください。

          ⇓

        コチラまで

 

永遠のハルマヘラ~還ってきてくれてありがとう 父がないことにしたことは・・・

父さん 
 何で、わたしは父さんの戦争を書こうと思ったんだろう。
それは、京都のお寺での心理の学びから始まっていました。
そのことを書いてみたいとずっと思っていました。

定年退職後のセカンドキャリアにキャリアカウンセラーを選びました。
クライアントや受講生と接しているうちに
経験だけではなくて理論も必要であること
カウンセリングのスキルがこれでは足りないと感じて
7年前から数年間、京都のお寺で心理カウンセラーの学びをすることになり、
学ぶ中であまりにも多くの深い気付きに打ちのめされていきました。

阿弥陀様のおられる方丈が教室でした。
カウンセラーにとって自己ヒーリングは必須で
クライアントに向かう前には自分の問題を解決しておくことが必要でした。

そのための修行のひとつが「繋がる」ことでした。

自己の深い部分と繋がり、
過去、現在、未来に繋がりました。
他者と繋がり、想念と繋がり
善意と繋がるのはもちろん、悪意にも繋がりました。
大いなるものにも繋がりました。

これまでの自分には及ばないような深い世界でした。

その中で学んだのが究極のヒーリングでした。
癒しとは「人と繋がること」でした。

その日も、ジョイニングセッションが始まりました。
受講生同士がその日必然で選んだバディにただ向き合うのですが、
その日は25年も前に亡くなった父と繋がったのです。

母のことは、まだ亡くなって数年だということもあり
また、遺志を継いでいることもあり、常に胸にあったのですが、
つい、「去る者は日々に疎し」となっていました。

「ごめんなさい」と「ありがとう」がどんどん沸き上がってくる。
そのことで、心のパイプが通る感覚がありました。
父のことを近くに感じていました。

続くセッションではもっと自分の問題の核心に触れることになりました。
他の人の問題を扱ったセッションだったのですが・・・。

お祖父さまが激戦の地から還ってこられた。
亡くなった戦友に対する罪悪感をないことにしたことで
孫娘が償いを続けていることでその方の人生は疲弊していました。

もしや、これは自分の姿を見せてくださっているのか?
父の抱えていた問題もこれではなかったのか!
だとしたら腑に落ちる…。

人の心は触れたくないものにはふたをする。
見たくない問題は見ないようにする。
最初からなかったかのように。
しかし、問題はなくなったわけではないから
そうするととんでもないところでそれが表に出てくることがある。

父のこと、自分のルーツを考えて、自分も同じ問題を抱えていること
これまで、父のことを何もわかってなかったことに気が付きました。

心のパイプの詰まりが通り始めますが、それには痛みが伴いました。

決して楽なことではありませんでした。

仕事をセカンドキャリアを援けることにシフトしています。
「マンダラエンデイングノート」ファシリテーターの養成講師としての活動も
その詰まりを通すための緩やかな援けとなりました。
「自分史活用アドバイザー」の学びが書くための大きなスキルとなっています。

この世は愛の学校で、そこでの学びには何一つ無駄がありません。

いずれ父の戦争史を書きたいと思うようになりました。
ただ、今は書けない。どう書いていけばいいのかもわからない。

躊躇しているうちに
昔を語れる最後の叔母が福井の豪雪禍で急逝してしまいます。
間に合わなかったのです。

もう、それは史実ではなく史実に基づいた物語にするしかなくなりました。

父さん
そこから、早く書かないとどんどん風化すると思っても
どう書いたらいいのか、わからなくなったよ。
そして、凄いことにも気が付いてしまいました。

夢を見たのは、会社ではリストラが終わったころのことでした。

真っ暗な海岸は何処かで見た風景でした。
砂浜の砂にろうそくを立てて、灯りを燈す。
何本も何本も立てて、燈し続ける。
ただ、ひたすらに、無になって・・・
やがて、海岸一帯がろうそくの灯の海になっても
闇はなくならない。
それでもやり続けている。
夢から覚めても、また眠ると、また灯し続ける。
不思議な夢でした。
ずっと、気になって覚えている夢でした。

お寺での心理の学び、ユング夢分析のところで
その夢にフォーカスしてもらえることになりました。

師は、ろうそくに火を灯すことは「鎮魂」を意味すると分析。
リストラをお手伝いする側となったことに対する罪悪感が影響をしている。
仕事とはある意味「いのち」である。
仕事を失うことは「いのち」を失うこと。

だから、あなたは「魂を鎮めていたのだ」と・・・。

師の「鎮魂」です!という言葉を聞いたとき
漆黒の闇っだった海が明るい月の光に照らし出されました。
不思議なことでした。
闇を消すことはできない。けれど、闇は恐ろしいものではない。
灯りを燈し続けていこう・・・。
そんな学びでした。

父さん
そうじゃなかったのですね。

わたしはあの海が見たこともないけれど
ハルマヘラの海だって気が付いてしまいました。

どうしよう。
書けなくなりました。

あの海にジャングルを逃げ惑い、飢餓と戦い、病魔に倒れた魂を
鎮めに行かなきゃ、「鎮魂」に行かなきゃ何にも書けない。
書いても意味がないと・・・。

そして、その島に行くことがなによりも怖い・・・。
費用だって工面できそうもないし・・・

わたしにどんな鎮魂ができるというのだろう。

書けない・・・。

父さん!

そんな私にある出来事が起こります。
おかげで、今こうして書いています。

無意識が止めていた兵歴簿も取ってくることができました。
そこには驚くべき事実と真実がありました。
書くことであの不幸な時代をねぎらいたい。

次からは、そこから書いていきますね。

※父のないことにした罪悪感を娘が引き受けていた。
トリガーとなったのはリストラの罪悪感だった。
心理学からの学びがそこにありました。

 

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