私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

家族の思い出からたどる自分の物語・・・「父の歳を超える」

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父が亡くなって数年は

さくらに青空が透けて見えると

悲しくなりました。

 

あの日は

そういう日でした。

 

平成の元年3月28日に父は亡くなりました。

68歳でした。

 

とうとう

私は父の生きた時間を超えてしまいました。

 


父は60歳を目前にして 

職場で心筋梗塞で倒れ

一命は取り留めても

心臓の半分は壊死した状態。

 

その後、今度発作を起したら

命の保証はないと言われて

数回発作を起し

入退院を繰り返しながらも

その後8年生き長らえました。

永年、営んだ会社を

不本意だったろうが

どこにも迷惑を掛けない形で

自主廃業。

 

それが亡くなる前年の8月。

 

2月に申告を終わらせてすべて完了。

それを待って、旅立っていきました。


 

その8年は

それまでの商売一辺倒から

趣味や地域の奉仕にと

十分に楽しんで生きたようでした。

 

自主廃業と共に財産を失い

家も失いました。

 

残ったのは障害年金と軍人恩給。

 

幸いにも、その額は

高齢者夫婦が

新築の市営のマンションに住み

家賃を払っても十分に

余裕のあるものだったのです。

 

趣味の教室を開いて生徒を集め

謡い、三味線、太鼓や鼓を叩いていました。

 

弟子の中には

新進落語家がお囃子を

習いに来ていたりしていて賑やか!



住居の新しい市営のマンションでは

障害者ということで

1階の管理人室が当り

手当てもいただいていました。


毎日、若い奥さんたちがやってきて

自治会の発足のための会議を開き

規約をつくり

それをワープロで打ちたいからと

パソコンも習いに行っていたのです。

 

初代の自治会長の予定でした。


 
充実した68歳だったと思いました。

 

それぐらい楽しくやっていたら

免疫力も高まる。

 

医師からは

その症状の回復の程度により

障害年金が不支給になるから

診断書には重い目に書いておきましょう」

とまで言われたそうです。



その矢先でした。

 

自宅に帰ってくる途上

ほんの100m手前であっけなく逝ってしまいました。

 

人生ってわからない。
 

母の孤独でつらい最後を看取った時からは

いい死に方だったかもしれないと

思うようになったけれど…

 

その当時は

いきなり逝ってしまったことを

未完了を残して行ったことを

恨んだものです。

 

お父さんは

どうだったんだろう?

どう生きたかったんだろう…

 

その後はどうなりたかったんだろう…

 

お父さんの未知のゾーンに踏み込んで

お父さんのやりたかったことやるね・・・。

 

そのひとつが

あの戦争で生き延びた生きた家族の歴史

孫たちへの命のバトン

家族の物語を残しておくこと。

 

明日から、父の故郷の福井に行ってきます。

 

少し、足跡を歩けたらいいな・・・。

 

また、長くなりましたね・・・
最後まで読んでくださってありがとうございます。