私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

自分史を書く・・・映画「風とともに去りぬ」マイラブストリー

幸せを次世代に送る 

自分史活用アドバイザーの藤原優子です。

 

 

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すさまじいばかりの光を放って

凍てついた月があたりを睥睨しています。

 

この頃が一番寒さも厳しさを増す

暦の矛盾を最も感じる時季ですね。

 

私のシューカツ(集大成活動)の一つは
セカンドライフの生き方を考える活動です。

 

昨年末に自分史活用アドバイザーを取って

そのための引き出しを増やしました。

 

まだまだ学ぶことはたくさんあります。

実践もこれから・・・

 

まずは

ありきたりの自分史のマイラブストーリーですが・・・

書いてみました。


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書店では、「20世紀のシネマ館」という雑誌のデモンストレーションで

CDの音楽がBGMとして流されていました。


風と共に去りぬ」のタラのテーマが

立ち読みタイムに流れてきます。

「タラララララララララララララ~♪」

高校時代に先輩から誘われて出かけた思い出の映画が蘇ります。
 
美術部の文化祭での出し物の似顔絵コーナーで

自信たっぷりでちょっと軟派な男子学生を相手に

似顔絵を描きました。

 

普通は描くほうが被写体を見詰めるものだけど

まるで反対で、描いている間中

あんまりじーっと見詰められるものですから

すっかりのぼせあがってしまい

元々苦手な人物画がますます似ていない。

焦って描けば余計似ていない!

恥ずかしくて逃げ出してしまったことがありました。
 

今思えば純情可憐な高校生だったこと・・・。
 
その後も、出逢う度に

「あの似顔絵は似てへんなー!」とからかってきます。

 

聞けば、1年先輩のラグビー部のキャプテン

女子人気抜群とかで・・・。


いつも自信たっぷりに

親しげに話し掛けられ

正面からじっと見詰めてきます。

あんまりドキドキするので

姿を見ると逃げ出すようになってしまいました。


 
それでも、そのうちに

市立の図書館に出かけ

一緒に勉強するようになっていました。

 

相変わらずじーっと見詰められて

タジタジするばっかりの私でした。
先輩は明らかにそれを面白がっていました。
 
君がスケッチをしている横で

僕は昼寝をするんだ 

それが僕の夢

という詩の手紙。(何故か覚えている!)


今度の日曜に奈良に行こうと誘われたとき

親に話したら

「男と二人っきりで出かけるなんてのは不良娘だ」

と言われて

「親がうるさいので行けません」と

行きたいと思いながらも断わってしまった。

 

何故話したのでしょうね?

箱入り娘だったのです。(笑)
 
きっと嫌われたと思ったことでしょう。

その後は誘われなくなりました。

 

そのうち、先輩は受験の真只中に・・・。


逢えないか、逢えないかと思うほど

同じ学校の中でも逢えないものです。


ある日のばったり出会ったときの

まっすぐに届けられた眼差しを

時が経っても鮮やかに覚えているものです。


忘れていたその眼差しが

ある映画を観たことで

突然蘇ってきたというのが正確です。

で、「風と共に去りぬ」がどうしてん?ですが

 

そんな日々にあって

映画に行こうと誘われました。

そりゃ嬉しかったです。

もう、親には言いません。

逢って、すぐに映画に行きました。

相変わらず、話もできず、目も合わせず、

想いが募った分だけ余計ドキドキしていました。


風と共に去りぬ」は大作中の大作でした。

あの頃の高校生ですから

二人ともその内容にすっかり圧倒されてしまって

終ったあとも互いに感動しすぎて無言でした。


そしてなんと

そのまま「さよなら」って

分かれて帰ってきてしまったのです。

今ならその内容をいつまでも語り合ったでしょう・・・

その後は、先輩は受験勉強。

邪魔してはいけないと連絡することはありませんでした。

映画「ラブストリー」が初恋の純粋な感情を思い起こさせたのです。

お恥ずかしい!

最期まで書くしかないのですが・・・。

実はさほど何もなくって・・・。

その後、先輩は受験に失敗。

浪人生活に突入します。

ますます、勉強の邪魔になるからと思うし

結構身辺も慌しいこともあって

こちらからは連絡することはありませんでした。
 
時々架かってくる電話で

お互い受験生同士の会話をするだけでした。

「いつも僕からばかりだね、

だけど、どれだけ励みになっているかしれない。」

といった直球が飛んでくると

いつもかわしてしまう私でした。

電話の架かってくることもなくなった頃

私学の合格発表が大阪新聞紙上に掲載されました。

 

忘れもしません。

そこには、先輩の名前があり

その下に私の名前がありました。

並んで載っていたのです。

 

二人のために世界はあると確信しました。
 
初めて、勇気を振り絞って先輩に電話を架けました。

「見たよ!おめでとう!

初めて電話をくれたね、ありがとう!」


先輩の本命はこれからの国立二期校だということでした。

がんばって欲しい

けれど落ちたら

また一緒に学生生活ができると思うと複雑でした。

先輩は四国の国立大学に合格し

二人の文通が始まりました。

 

映画の二人のように

ラブレターが瀬戸内海を何通も渡りました。

たくさんの詩をもらいました。

みかん箱に一杯もありました。

 

桂浜でほほ笑む写真が同封されていて

いつ高知に遊びに来るのかという手紙・・・

お互いに大学生になった私たちは

それぞれに違った空間を生き出していました。

 

少しづつ手紙が疎遠になり

二回生の夏

帰省している先輩に

お互いの友人と歩いているところをばったりと会いました。

「あれ、こんにちは!帰っていたのですね」

「うん」

それが最後になりました。

 

私の身辺はその頃も相変わらず慌しく賑やかだったので

余り気にはならなりませんでした。

お別れが決定したのは初冬でした。

美術部のOBの集まりがあり

後輩からいきなり謝られました。

先輩と付き合っていると・・・。

 

彼女は、すでに社会人で

毎月四国に通っているんだと・・・。

それで手紙が来なくなったんだと・・・。

先輩の中では終っていたのですね。

 

桂浜での写真は笑っているけど

遠い人になっていたんだと・・・。

朝まで泣いて泣いて・・。

 

私の中ではなかなか終らなかった。

失恋した時にはじめて

本当の恋愛が始まるものだと知りました。

その喪失感に翻弄される日々でした。

もう、心から笑える日は来ないとさえ思いました。

あんなに切ない想いが怖くて

二度目の恋はなかなかできませんでした。

何度目かの恋は、今から思えば不純でした。

この人なら気を使わないで気楽に暮らせるだろう。

絶対に裏切らないだろう。

打算がありました。

その仕返しは充分に食らっているようです。

そんなに人生は思い通りには行かないものです。

真実の愛は、人生においてたった一度だけ。

運命の人は一人だけ。

映画「ラブストリー」は語ります。


私は、真実の愛に、運命の人に逢えたのでしょうか。

まだ、逢っていないのでしょうか?
何を馬鹿なことを・・・。

後日談ですが

弟が、奇しくも

母校の教師となった先輩の教え子になっていることが発覚。

 

弟が告知すると、驚いたことでしょうね。

 

「可愛い人だった!僕は夢中だったけど、

彼女はそれほどには思っていなかった」とのこと

 

あーあ、つくづく世の中は思うようにはならない・・・。

家族の思い出からたどる父の物語・・・「時代の波に流されないうちに」

父が亡くなったのは
平成元年の3月

来年は33回忌です。

お葬式は4月1日
消費税導入の日でした。

葬儀社さんに「消費税かかりますよね」とお聞きすると
「3月の契約なのでかかりませんよ」とのことでした。

悲しみの中でも
冷静な私がいました。

そして今
令和元年

何かと平成の始まりが報道で流されます。

ついつい
あの当時を思い出しています。


今、私は
父さんの未知のゾーン令和にいます。
令和がどんな時代になるのかこの目で見てからいきます。

そして
父さんのやりたかったことやるからね・・・。

そのひとつが
あの戦争から帰って
マラリアの後遺症を抱えながら
生き切ってくれた生きた父の物語

生きた家族の歴史

孫たちへの命のバトン
家族の物語を残しておくことです。


そろそろ始めようと思います。

まずは軍歴証明をあげること。

あげようと思いながらできていない。
できないわけではないのに
何かに阻まれています。
どういう抵抗が働いているのだろう・・・

そろそろやらねば

時代の波が大きく流してしまわないうちに!

5月のタスクにいれておきましょう。

ここにも

どんどん書いていきますね。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

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父の最期は

 

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平成の元年3月28日に父は亡くなりました。
68歳でした。
私は父の生きた時間を超えてしまいました。

父は60歳を目前にして、職場で心筋梗塞で倒れ
一命は取り留めても心臓の半分は壊死した状態。

その後、今度発作を起したら命の保証はないと言われて
数回発作を起し、入退院を繰り返しながらも
その後8年生き長らえました。

永年、営んだ会社を不本意だったろうが
どこにも迷惑を掛けない形で自主廃業。 

それが亡くなる前年の8月。 

2月に申告を終わらせてすべて完了。
それを待って、旅立っていきました。

その8年は、それまでの商売一辺倒から
趣味や地域の奉仕にと
十分に楽しんで生きたようでした。

自主廃業と共に財産を失い、家も失った。

残ったのは障害年金と軍人恩給。

幸いにも、その額は、高齢者夫婦が
新築の市営のマンションに住み
家賃を払っても十分に余裕のあるものだったのです。

趣味の教室を開いて生徒を集め
謡い、三味線、太鼓や鼓を叩いていました。

弟子の中には新進落語家がお囃子を習いに来ていたり
賑やか!

住居の新しい市営のマンションでは
障害者ということで1階の管理人室が当り
手当てもいただいていました。

毎日、若い奥さんたちがやってきて
自治会の発足のための会議を開き、規約をつくり
それをワープロで打ちたいからと
パソコンも習いに行っていたのです。

初代の自治会長の予定でした。

充実した68歳だったと思います。

それぐらい楽しくやっていたら
免疫力も高まる。

医師からは、その症状の回復の程度により
障害年金が不支給になるから診断書には重い目に
書いておきましょう」
とまで言われたそうです。

その矢先でした。

自宅に帰ってくる途上、ほんの100m手前で
あっけなく逝ってしまいました。

人生ってわからない。 

母の孤独でつらい最後を看取った時からは
いい死に方だったかもしれないと
思うようになったけれど…

その当時は
いきなり逝ってしまったことを恨んだものです。

お彼岸に
奈良のお墓にお参りしてきました。

お彼岸の花が、次々と供えられて
花生けからはみ出していました。

お父さんはどうだったんだろう?
どう生きたかったんだろう…
その後はどうなりたかったんだろう…

千の風になって / 千の風になって
あの大きな空を / 吹きわたっていきます 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

今、書かねばと強く思います。

昨年の12月
悲しい訪問でした。

2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。

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生者必滅、会者定離

この世に生を受けたものは必ず死に、

出会ったものには必ず別れがくる。

去って行った人の心を引き継ぎ

次代に引き継いでいくことが大事。

雪が着く前に
3ヶ月も早くに一周忌の法事が営なまわれました。

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商売人の繁忙の家に育ちました。

あの頃はみんながそんなものでした。 

夏休みになると

福井の母の実家に私たち三人は預けられました。
長女の私は子どもながらにも気を使うことが多くて
本当は家にいたいと思っても
それは言えませんでした。

叔父も叔母も優しい人たちだったことが救いでした。
おばちゃんは二人目の優しい母のような存在で
おばちゃんにとっても私は「うちの娘なんにゃ〜」と・・・

そして、ファミリーヒストリーを語る
最後の証人だったのです。

間に合いませんでした…。

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ファミリーヒストリーは書けなくなりました。
ファミリーストーリー(お話し)しか書けません。

それでよしとするしかありません。

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誰かが聞いていたことを書き綴っておこう。
それが事実かどうかは分からなくても・・・

それでも
記憶だけではなく
現場に立って、本人の感情に浸ってみるのは
書くモチベーションになります。

その意味では
今回は大切なチャンスでした。

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自身のルーツ
一族からの言い伝えや
親たちから聞いていた祖先の話
そして戸籍謄本が教えてくれる大切なこと・・・。

今、たどらないとどんどんリセットされてしまう。

何も、次世代には伝わらない・・・。

それでいいのだろうか・・・と深く考えました。

 

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父が戦争で悲惨な状況から生還してくれたからこそ
私がこうして生まれ
娘が生まれて
孫っ子は小学一年生

孫っ子に
大切な人たちを自らの死をもって守ろうとした人がいたから
そして、生き残ってくれた人がいたから
あなたは生まれることができた・・・

そのことを伝えないと・・・。

ファミリーストーリー
伝えることができる人が伝えなければ・・・。

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だから、父の生家があるうちに
行ってこなければと思っていました。

そうして
目にしたものは・・・

行き過ぎても分からないはずでした。

ユンボがまだそこにはありました。
ユンボの爪痕はまだ真新しい。
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なんてことでしょう。
わずかに遅かったのです・・・

また、間に合いませんでした。

そこにはぽつんとお墓が遺されていました。

涙が溢れました。

誰かが私に乗り移って泣いている。
そんな感覚がありました。

枯れる前の花が供えられていました。

遅かったけれど
それでも、あの場に行けてよかった。
懐かしい人たちの面影を見ることができました。


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これはおばちゃんがくれたんやね・・・。
おばちゃんのおかげです。

ありがとうね。おばちゃん。

いつも働いてばかりだったけれど
もう、ゆっくりしていますよね。

過疎の郷・・・
逝きし世の面影
日本のいたるところで起きている風景です。

間に合わなかったことばかり・・・

だから
今、書かねばと強く思います。

書いて、そこに置いておく。
必要なときに
必要な人が受け取ってもらえるように。

旧陸軍兵器学校の跡を訪ねて

1/16

旅の最終日
父が学んだ陸軍兵器学校があった
麻布大学獣医学部を訪ねて
その場所に立ってきました。

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朝、横浜線淵野辺に向かおうとすると
横浜線が運転見合せって!

エーッ!そんな…
とにかく東神奈川まで行こう。

降りたら
向かいのホームから
電車が動き始めるところでした。

たぶん
全部上手くいくんだろうな…
根拠なく
その時にそう思いました。(笑)

もうすぐ淵野辺
雲が龍になって
電車と並走している!?

旧陸軍兵器学校の校舎に
麻布にあった
〇〇が空襲で焼けだされて
この地に移って
麻布大学獣医学部となっている。

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駅から15分
全く迷うことなく直感で到着。

この冬で一番の寒気を体感しながら
冷たい風のせいだ!

私は目の粘膜が弱いから
寒風に吹かれると涙が流れる。

そうだったはず…
感情が動くことで流れる涙とはまた違う!

まただ!
また、誰かが泣いてる。

一本道を15分ほど歩く
道すがら
静かに涙が流れ続ける。

また、誰かが泣いている。

いきなり
旧正門前
記念碑の前に立っていました。

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時間が歪曲したようでした。

麻布大学では
若い守衛さん
管財課の職員さん
情報センターの職員さん
博物館の職員さん

ありがとうございました😊

誰方からも親切にしていただきました。
ありがかったです。

前庭跡のベンチでは
頭上を飛び交う飛行機の轟音が 
深い意識の淵に誘ってくれる。
若き父たちの志しや思いを 
感じさせてくれました。

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震える私を
古いアルバムにある写真に
写り込んだ木々が
時を経て
大木となって
私を見下ろしていました。

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帰阪の途上
書きたいことが溢れています。

この土日は執筆三昧をしたいなと思います。

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