私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

愛の旅、早春の極東ロシアへ

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2013年4月1日、当時63歳の早春、極東ロシアへの旅。

ハバロフスクの小学校の2年生の教室で「日本のマナー」を紹介する授業が終わった後の記念撮影である。校長先生と担任の先生とクラスの子どもたち、旅の同行者の加代子さんと私が写っている。撮影は、ロシア人のジーマ(愛称)。通訳も彼がしてくれた。

数年間、地元の大学で留学生へのガイダンス時に「日本のマナー」を伝えていた。
ジーマは2010年度の後期の交換留学生だった。講義が終ると、すぐにそばにやってきて「先生の講座はどうしたら履修出来ますか?」とても丁寧な日本語で聞いてきた。それが始まりだった。留学生とはたいていが一期一会のご縁だった。毎年咲いて散っていく。まるで桜のようだと思っていた。が、ジーマはそうではなかった。

ジーマはロシア、ウラジオストクからの留学生だった。流暢に日本語を話し、合気道や書道を得意とした。そして、書家としての弘法大師を研究していた。帰国するまでに、私たちの国際交流のボランテアのイベントに積極的に参加してきた。

帰国後は通訳をし、閑散期の冬季には日本にやってきた。四国88カ所も歩き遍路した。ご縁は途切れずに続いていた。

芸術学院でダンスの振り付けをしているジーマのママが日本舞踊を学ぶために私の友人宅でホームスティすることになった。その友人との極東ロシアの旅だった。もちろん、ジーマのガイドでの旅だった。ジーマは張り切って超スペシャルなスケジュールを組んでくれた。

ウラジオストクでは、大学でセミナーを受けたり、浦潮旧日本人街をはじめとして街のあちこちを散策した。APECのために街は大掛かりな整備が進んでいた。その反面、旧市街の歴史のある建物や石畳みの街路や寺院は手つかずのままだった。美しい街だった。軍の港が流氷で凍結する上を着物で歩き回った。ダンスの授業を観察したり、民族博物館をたずね、20世紀のロシア音楽のコンサートにも行った。

シベリア横断鉄道の寝台でウラジオストクからハバロフスクまでは夢のような一晩だった。夜中に目覚めて観た満天の星空、月光に照らし出された白樺林、凍る平原から上る朝陽…。今もくっきりと浮かびあがってくる。憧れのシベリア鉄道の旅をした。

ハバロフスクは、ウラジオストクを少し近代的にした感じの街だった。どこに行ってもロシア正教の教会が美しい。アムール川は結氷していて、はるばると白い世界が続いていた。そこにいることだけで感動だった。

子どもたちは小ぎれいな服装をしていて、裕福な子どもたちの通う学校だなと思ったが、当日は日本からのお客様ということで、特におしゃれをしてくれたらしい。よく躾けされているのか、私たちが珍しいのか、総じて大人しい。人見知りなのかもしれない。「日本のどんなこと知ってますか?」と聞くと、「す~し」というお答え。最近、回転すしができてブームらしい。

割りばしで大豆をつまんだり、お辞儀や正座のデモンストレーションをしてロープレさせたら、子供らしくきゃきゃと声を上げていた。世界中、子供はいいなぁ・・・。

子どもたちが日本という国に親しみを覚えてくれたらそれだけで、わたしたちが小学校を訪問したことは小さいけれど国際交流に一役買うことができたのかなと思う。

ジーマは最高のガイドだった。観光旅行では味わえない旅をさせてもらったことには感謝しかない。4軒の個人のお宅で家庭料理のおもてなしを受けた。家族の誕生日の御馳走もお相伴した。ロシアの人たちの日常の生活の場に招き入れてもらえた奇跡のような出会いと旅だった。人とのご縁がもたらした奇跡だ。

富士山が世界遺産になり、この頃から、心斎橋を歩くと外国人ばかりになった。この旅の次の年には、関西空港からウラジオストクに向けて直行便も飛ぶようになった。インバウンドで賑わう直前だったらしい。それも新型コロナショックで今は見る影もない。
あの頃は、国境だってひょいと超えられた。当たり前のことが当たり前にできなくなって思うのは、私たちはいつも奇跡の中で生きているんだってことだ。

そして、ジーマは、多くの出会いを経て、今は日本で僧侶になっている。大阪のお寺の副住職だ。そのことも奇跡だ。人は人との出会いで作られる。私との出会いがもし何かをもたらしているとしたらと思うと、これからも出会いを大切にして、ご縁を深めていきたいとそう思うのだ。