私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

米原駅発、姉と弟のバトルは・・・

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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この写真を撮ったのは1956年、姉の私は6歳。弟は1歳の春らしい。
その頃の家業は、鋳造の風呂釜を設置する事業だった。
それで、誰かが面白がって、よちよち歩く弟にこんな前掛けを巻いて写真を撮ったらしい。手にはぽんせんを持っている。よく大人しく写真を撮らせたものだ。やんちゃな弟を大人しくさせるにはこのぽんせんが多いに役だったものだった。

この頃は、まだお菓子でごまかしが効いたのだが・・・。後々、やんちゃぶりには磨きがかかり、ほとほと手を焼くことになっていく。

親たちは、この時代はまだ戦後の復興期で、いつも繁忙の最中にあって、妹や弟のお守りは長女の私の仕事だった。

今回、書こうとするのは、この写真を撮った5.6年後の話である。
家業は、数年は順調だった。いつも夏休みは宿題を持って、私たちは福井県の母の実家に預けられた。
国鉄大阪駅まで母が送ってくれて、周りの乗客たちにどこまで行くかを聞いて、子どもたちだけで行かせるので、この子たちを福井駅で降ろしてほしいと頼んでくれた。誰もがこころよく引き受けてくれるそんないい時代だった。

妹はきさんじな子だったから、ただちょこんと側にいてくれた。けれど、普段でも手に余るのに、大好きな汽車に乗るわけだから、興奮気味の弟の方は小学生の姉には手強かった。この頃から弟の鉄道好きが始まったらしい。

福井に着いたら、叔父が迎えに来てくれることになっていた。叔父の姿が見えると、もう飛びつきたいほど嬉しかったことだけを覚えている。その道中は緊張しすぎで記憶がないのだ。

ただ、はっきりと覚えていることがある。

米原駅だ。東海道線から非電化の北陸線への切り替え駅で30分以上停車する。そこからは蒸気機関車に切り替わる。その作業に半時間はかかった。
その間が、姉ちゃんにとっては地獄だった。
時計など持っていない。どれぐらい停まっているのかもわからない。
なのに、弟は蒸気機関車に切り替えるのを見るためにホームに飛び出していく。
もう、姉ちゃんは、死ぬほど心配なのだ。弟を汽車が置いて出てしまわないかと・・・。「乗って~」とどれだけ叫んでも、聞いてくれない弟とのバトル、毎回、確実に泣かされていた。

そして、べそをかいている私に周りの大人が必ずくれた。冷凍ミカンは甘くて冷たくて、あんなに美味しいものはなかった。

妹と弟の面倒は私が見ますと幼児決断していた。その思い出は、ポーッとなる汽笛に驚かされ、トンネルに入ると慌てて窓を閉めないと煙が入ってくるといったノスタルジーの彼方に残滓となっている。

機会があれば、あの時はどういうつもりやったん?と聞いてみようか。

そんな弟も、今や、親戚一同の頼もしいリーダーとなった。上手いことやってくれている。姉ちゃんとしては大助かりで感謝している。

これからは、願わくば私より先には逝かないでほしい。
順番は守ってなと言いたいけれど言わない。言ったところで憎たらしい答えしか返ってこないのが分かっているから。

相変わらずやんちゃは死ななきゃ治らないみたいだ。