私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

どうしても島に帰りたい・・・あの子はどうしているのだろう。

 

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1996年3月、46歳
その頃、会社における私は繊維メーカーの人事の仕事をしていて、地方から出てきた女子寮生の生活管理もしていました。

その寮生の一人と一緒に写っています。
写真は、当時、紡績会社が共同出資して運営していた通信制短期大学の通学校「いずみ女子学園」の教室の前で、卒業式と卒業研究発表が終わってから撮った記念写真です。会社の代表者として出席していました。

彼女は、早くに父親を亡くし、母親と年老いた祖母と病気の姉と幼い妹が三人。
奄美大島の中学を卒業して、泉南の紡績工場に勤めながら、定時制高校に4年間通っていました。
すでにバブルは崩壊し、その前年に阪神大震災、地下鉄サリン時間と不安定な世相の中で、地場産業の繊維業界は恒常的な不況へと突き進んでいました。次々と地元企業が経営難で閉鎖するに至って、行き先を失った地方出身者を会社では数人受け入れて、工場で交替番の仕事に就かせながら学園に通わせていました。

彼女は寮に入って、つつましい暮らしをしながら、それでも親元に仕送りを続けていました。学費は会社からの借金でしたから、月々引かれて手元に残る給料はわずかでした。寮生には苦しい中でも社内預金を天引きで無理やりさせていました。親心でやっていたことですが、私は鬼のような人事担当者だったことでしょう。

そのなけなしの社内預金を、台風で島の家の屋根が飛んだから、豚小屋が焼けたから、妹が小学校に入学するから仕送りしたいから下ろしてくださいと言ってきます。

それでも、人一倍楽しそうに毎日を働き勉強していた健気で明るい娘でした。

それなのに、幸薄いっていうのでしょうか。あと1年で卒業というところで、無理がたたり、結核にかかり手術を余儀なくされます。それでも、退院して仕事と学校でがんばっていたのに、卒業を目前にして、再発し、再手術になりました。
そのときは、もう島に帰らせるしかないかと思いましたが、学校の先生方の好意で、病院で勉強を続け、単位を取って卒業だけはできることになりました。しかし、目的の保母の資格は取れなかったのです。

その時の写真です。二人とも嬉しくて泣いた顔が写っています。

入院費も自分の社内預金で賄ったし、手術の時も母親は出てくることはできない。寮母さんや私が代わりに付き添ったし、卒業式も付き添ったのは私でした。

そんな体で、社内預金だってほとんど貯まっていない。それなのに、妹を看護学校に行かせたいから、残っているだけのお金を下ろして欲しいと言って来ます。
「だめ!いい加減にしなさい!自分の体を考えなさい!今のあなたにはお金が必要。まず、自分を大切にしなさい」
といって下ろしてやらなかった。もう、見てられなかったのです!

すると、分厚い手紙が届きます。
私のことを思って下さるのはありがたいし嬉しい!でも、どうしても、家族にしてあげたい。家族には、自分しかいないのやからと・・・。 

その手紙はずっと我が家の書棚の引き出しに入っていて、甘ちゃんのわが子たちに説教するとき、光圀公の印籠みたいに利用してきました。これはね~、後でやっちゃいけなかたって分かるのですがね。

女子寮は2棟あり、20から30人はいましたから、寮母さん一人では手が廻らない。
親元を離れて、不安定な寮生たちにとって、寮母さんは常に優しく受け入れてくれる母親のような存在にするために、わざと嫌われる父親役、叱る役を引き受けていました。

寮には、寮生たちが説教部屋と呼んでいる部屋があって、ただの談話室なんですが、そこがカウンセリングルームになっていました。その頃の私には資格はないけれど、カウンセラーとしての業務を務めていました。

いろいろな悩みを聴きました。あきれるような珍事件も起こりました。次々と事件を起こしてくれて、寮生たちは、私を仕事のできる人に鍛えてくれました。

島に帰っていると思っていました。8年後、2004年に突然、彼女が会社に訪ねてきてくれました。
「もう、30歳ですよ!」って言う。私も歳を取るはずです。

卒業後、島に帰ったが、姉のためにと共に丹波篠山の工場に働きに出てきたけれど、姉はすぐに病んで島に帰ってしまって、一人で7年間勤め続けた。

そして短大のスクーリングに行き、保母の資格をとったし、ヘルパーの資格もとった。仕事も、やりがいを持ってやってきたという。
それでも、どうしても好きな島に帰りたい。帰る前に会いたくてと来てくれました。

島に帰ったら、マグロの養殖場で働くんだと嬉しそうに話してくれる。
少しも変わっていなかった。
女らしくなって綺麗になっていたから、すぐに誰かは解らなかったけれど、話していると、昔の真摯で素朴なままだった。別れる間際まで笑顔のまま。当時の私が痩せてしまっていることを心配しながら帰っていきました。優しい子です。

大好きな島で幸せになってほしいと心から願わずにはいられませんでした。

そして、14年後、一昨々年に奄美大島を訪ねました。

奄美を離れて、工場で交替勤務しながら学ぶ女の子たちは他にもいました。
どの子も家族思いで、頑張りやで純粋で可愛い女の子たちでした。
きっと、青い空と海と澄んだ空気がこんな子を育てるのだろう。

一度、奄美に行ってみたい。そして、あの子たちが今どうしているのか?
いいお母さんになって幸せに暮らす姿を見てみたい。そう思ったのですが、会わずに帰ってきてしまいました。何故か、まだ幸せに暮らしていると思えなかったのです。

今の彼女はこの写真の私と同じ歳になっています。今度こそ、彼女が幸せに暮らす姿に会いに行こう。コロナ禍が去ったなら、奄美を訪ねようと思います。