私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

誰かの役に立つ喜びを多く体験してきてほしいから

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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2010年9月から、60歳の定年退職後からこれまで、滋賀の中学校に「職業体験前のマナー講習会」をお届けに行っています。

2011年、東日本大震災のあった年です。震源地以外にも日本中が揺らいでいた。そんな気がしていました。

見ただけではいつもの中学生と何ら変わらない姿がありましたが、この地域では、いじめが原因の自殺者が出たことで、大きく報道されたこともあり、地域全体が大きく軸が揺らいでいると肌で感じるものがありました。

元々、中学生という年頃は、どうも物事に真剣に取り組むことに照れがある世代らしい、どちらかと言うとマナーを伝えるには手ごわい相手でした。

大人として、どう向かい合うか?
私はキャリアカウンセラーとしてまた、体験学習を受け入れる職場側として、保護者として多くの視点を持って向かい合ってきました。 

会社に勤めていた総務部時代、職場体験の中学生を毎年受け入れていました。

繊維メーカーでしたので、工場に体験配属をお願いしにいくと、必ず、まずはこう言われました。

「自分たちの仕事は生産を上げることである」
「中学生は足手まといになるから、生産性が落ちる」
「本音は断わってほしい」

そこで
「私が、常に巡回して目を配ってフォローしますから!」
お願いし倒して、引き受けてもらっていました。

ですが…、結果、生産性は落ちていなかったと思います。
職場に中学生がいると、工場の現場の人たちは、ええとこ見せたくて、いつもより頑張るのです。
現場の人たちは、優しく厳しく、本当によく面倒をみてくださいました。指導しているお顔が楽しそうでした。
中学生たちも懸命に聞いて働いてくれました。

職場がキラキラ輝いていました。 人の間は双方向で動くことを目の当たりにしたものでした。

私と一緒で、預かった人は昼間は仕事になっていませんでした。
中学生たちが帰った後残業して、仕事を片付けていました。

そんな私の体験談から講座は始まります。

たくさんの理解があってはじめて、職場体験できることを感謝をして職場に赴いてくださいとお伝えしています。 

ならば、感謝をどう伝えますか?

心は見えないから、形にしましょう。
マナーとは人との関係の潤滑油、感謝を表すことにも繋がる。
言葉と行動にする。
服装を整えることは、心を整えること。言葉に心を吹き込んで丁寧に。
心が伝わる仕草で。

ロールプレイングして、友達の姿に自分を見る。

そうして、最後は未来質問、10年後の叶えたい自分を描いて表現する。
そのために今できることを話し合う時間をとっています。

その年によって、生徒さんの傾向が違っていて面白いです。

元気な年、大人しい年、素直で扱い易い年、難しい年、歳(干支)廻りってありますね〜!
この年は、少し難しい年?だったかもしれません。
講座の直前に、先生にお叱りを受けていたとのこと…、それででしょうか、どんより感がありました。モチベーション下がっていたのですね。食いつき悪っ!と感じてました。

ところが、休憩の時の元気のいいこと、いいこと。そんな大きな声が出るんだ!って、クスッて笑ってしまうぐらい。
この写真は最後に未来質問をしている時間です。
10年後、どんな仕事をしているかを質問し合っています。
 
中学生にとって、マナーって思うだけでハードルが高いのですね。職場という未体験ゾーンに対する不安もある。まだ、まだ子どもでも、中学生にしかできないことがある。
それをお願いしています。
職場体験では、仕事をして、誰かの役に立って嬉しい!という経験をたくさんしてきて下さい!と。

教えません。お願いなのです。

その喜びの体験が、将来幸せになる種を蒔くことになると信じています。

コロナで届けることができなくなりました。職場体験そのものができない。先生方は苦労して、何とかそれをカバーしようとして、せめて座学だけでもとご依頼くださいましたが叶いませんでした。

私もお届けしたい。何とか、形を作ってオンラインで届けることができないか。それを今、模索中です。

子どもたちの成長は待ってくれません。中学2年生は一生で一回ですから。

本当は、経験をたくさん積んできてほしいけれど、せめてという思いでいます。

 

 

旅はうまいもんとご縁にあふれている。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2020年10月、70歳、ひたすらホームステイの日々を過ごしていた。
出口の見えない状況でいつまでかかるかわからない。

ならば、小康状態のこの隙に、行ける限り遠くに行こうと考えた。
70歳まで仕事を続けた。
これからは、行きたいときに行きたいところに行こう。
これまで働き続けたご褒美にハワイホノルルマラソン10Kmを歩くつもりだった。
他にもあちこち行く予定でいたのに・・・
このタイミングでの新型コロナ禍だった。

GOTO使って行けるだけ遠くと思えど、選択肢は国内しかない。南の島か?北の果てか?
それで、利尻・礼文島への一人旅ツアーだった。

北海道稚内を訪れたのは49年ぶりだった。
稚内に若い日の記憶の切れ端を捜したが、見付かるはずもない。
北の果て、執着駅の風情も今はどこにもなかった。

あの日、駅から桟橋に向かう道に夥しい数の魚が落ちていた。
はらわたの飛び出した魚を踏むまいとよけて緊張して歩いた。
腐臭に息ができなかった。

たぶん、この道がそうだろうと思うけれど、そんな影は今はどこにもない小ぎれいな街になっていた。

そこには情緒あふれるアーチ型の北防波堤というすばらしい歴史の遺産があったのに、魚を避けるのに一心不乱で目に入りながらも観ていなかったらしい。こんなに美しかったのに・・・。

昭和30年からやっているという寿司竜という鮨屋を覗いて、おまかせの寿司をつまんだ。そこでやっと、求めていた記憶の欠片を見付けることができた。

同世代ぽい親父さんに、49年前の魚がばらまかれていた話をしてみた。
あの頃は魚がいくらでも獲れたそうだ。
トラックに山積みだったから、いくらでも落として行った。
魚は肥料にするしかなかったという話をこともなげに話してくれた。

学生の貧乏旅で、北海道まで来ているのに、北海のグルメには縁がなかった。当時はグルメという言葉もなかった。

やっと、あの時の心残りを果たすことができた。

お腹も満たされたが、それ以上に心が満たされていた。

私と同じく一人旅の女性と札幌から転勤でという若い人が一人で飲んでいた。
常連らしい男女が後でやってきた。

「おひょうが揚がってたから買ってきた」

親父さんが最高のネタばかりで握るよと言う。そういうお寿司が旨くないはずがない。

二皿目は、ウニ、いくら、数の子だった。たぶん、しばらくはこの上をいくものには当たらないだろう。

旅の鉄板は地元に古くからある店に行くことだ。旅の間、何度も海の幸が並んだけれど、ここの寿司が秀逸だった。


今回はGOTOキャンペーンを利用しての一人旅の団体ツアーだった。
一人旅だけどひとりぼっちではない。いい塩梅な一人具合には満足していた。

旅の喜びは人との出会いでもある。一人旅同士が湯につかりふれあう。食事は、コロナ対策故に、ソーシャルディスタンスを保ちつつ、一方方向を向いてのお食事だったけれど、それも後の語り草だ。これもよしとしよう~。

帰ってきて、4か月、ご縁が繋がった。美味しいもの繋がりだ。
「美味いもんコンシェルジェのだかずこの偏愛自分史」を書くことになった。
利尻・礼文島の旅から始まったご縁である。有難い日々を送っている。

 

参考写真


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満たされて・・・。また逢おうね。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2014年2月、64歳の冬、阪大病院にらぶちゃんのお見舞いに行って来た。

京都のお寺でディープな心理学の勉強をした仲間たちがそれぞれの思いを込めたお見舞いを手にらぶちゃんはこんなに笑っていた。

でも、その夏に、あなたは逝ってしまった。

その前年の10月に山形で、魔法の質問認定講座を受けて、直後に開いたキッズのための質問ライブをらぶちゃん、受けてくれました。そして
「母ちゃんたちを元気にしたいから、早く!トレーナーになって、私たちをインストラクターにして!」
と私を急かしたよね・・・。

11月に東京で、養成講座を受けて、キッズインストラクタートレーナーになって、12月にインストラクター養成講座1期を開講したけれど、そこにはラブちゃんはいなかった。
重篤な病に倒れ、臨死体験を経て、それでも、やり残したことを片付けにきたかのように還ってきたのでした。
そして、4月に養成講座を受けてくださいました。あなたのシェアは深い真理を、宇宙から届けてくれるようでした。

周りには大変なことが続いても、らぶちゃんはやわらかく笑っていた。

落ち着いたら、子育てをするお母さんたちを、シニアが援ける活動をあなたと一緒にできると思って疑いもしなかった。

ラブちゃんが逝ったなんて知らないまま、大阪城にいたあの夏盛り。
あの夏の日の夜は、京都のホテルでたくさんお話しするつもりだったのに・・・
何にも聞けないままにお別れは突然に訪れた。

あれから数年は片翼飛行を続けているような感覚から抜けられなかった。
一人で養成講座を毎月開講して、優しかったあなたを折々に感じながらその遺志を繋いだ。

時が満ちて、いつしか片翼飛行の感覚は消えた。残されたものが、命のことを考えて、人を想い、その思いが満ち溢れたときに初めてお別れの時がやってくる。それはね、悲しいけれど、次につながっていくんだと思った。

あなたの体はなくても、あの京都のお店にあなたの魂はあの席で私たちと居た。
でも、あなたが用意した花を盛る予定だったドラえもんのマグカップだけが届いたとき、届けてくれる人がいて初めてここにあると知った。
らぶちゃんの命が教えてくれたのは、魂が永遠であること。でも、肉体がなければできないことがある。よく生きて!ってことでした。
あれから、私は、魂を愛のシャンパンで自ら満たして、多くの人に届くように溢れさせて生きることができました。今の私があるのは、あなたが教えてくれたから。

この年は、御岳の噴火や、広島の土砂災害と自然災害の多い年でした。
来る年も、来る年も、大きな自然災害が寸断なく続くいて、悲嘆にくれる人々を見続けている。昨年からは新型コロナ禍が加わって、これまでの当たり前が崩壊しました。

らぶちゃんは、今起きているコロナの世界を知らない。
若い人にとっても大変だけど、今の私たちは、年齢で制限をかけられて、その中で生きることを望まれている。そのことは守ろうとしてくれてるんだとわかっているけれど、結構、揺らぐのですよね。

あなたならこんな世の中をどう思う?どう生きる?あまりにも多くの情報が飛び交って、自分の軸がないとつい揺らいでしまう。一歩、家から出るにも、決めて出ないといけない。あなたなら、どう行動するだろうか?

今度、逢うときに、コロナで変わってしまった世界をどう生きたか。
笑って話せる。そのときのためにもしっかりと生きようと思う。

そうそう、らぶちゃんが体に当てているこのチュニックは私が縫ったもの。よく着てくれていたな・・・。
ありがとうね。
らぶちゃんの魂が愉しいと、私たちも愉しい。私たちが喜ぶと、らぶちゃんの魂も喜ぶ。
また、逢おう・・・。さよならは言わない。それは逢うまでの約束だからね。

愛の旅、早春の極東ロシアへ

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2013年4月1日、当時63歳の早春、極東ロシアへの旅。

ハバロフスクの小学校の2年生の教室で「日本のマナー」を紹介する授業が終わった後の記念撮影である。校長先生と担任の先生とクラスの子どもたち、旅の同行者の加代子さんと私が写っている。撮影は、ロシア人のジーマ(愛称)。通訳も彼がしてくれた。

数年間、地元の大学で留学生へのガイダンス時に「日本のマナー」を伝えていた。
ジーマは2010年度の後期の交換留学生だった。講義が終ると、すぐにそばにやってきて「先生の講座はどうしたら履修出来ますか?」とても丁寧な日本語で聞いてきた。それが始まりだった。留学生とはたいていが一期一会のご縁だった。毎年咲いて散っていく。まるで桜のようだと思っていた。が、ジーマはそうではなかった。

ジーマはロシア、ウラジオストクからの留学生だった。流暢に日本語を話し、合気道や書道を得意とした。そして、書家としての弘法大師を研究していた。帰国するまでに、私たちの国際交流のボランテアのイベントに積極的に参加してきた。

帰国後は通訳をし、閑散期の冬季には日本にやってきた。四国88カ所も歩き遍路した。ご縁は途切れずに続いていた。

芸術学院でダンスの振り付けをしているジーマのママが日本舞踊を学ぶために私の友人宅でホームスティすることになった。その友人との極東ロシアの旅だった。もちろん、ジーマのガイドでの旅だった。ジーマは張り切って超スペシャルなスケジュールを組んでくれた。

ウラジオストクでは、大学でセミナーを受けたり、浦潮旧日本人街をはじめとして街のあちこちを散策した。APECのために街は大掛かりな整備が進んでいた。その反面、旧市街の歴史のある建物や石畳みの街路や寺院は手つかずのままだった。美しい街だった。軍の港が流氷で凍結する上を着物で歩き回った。ダンスの授業を観察したり、民族博物館をたずね、20世紀のロシア音楽のコンサートにも行った。

シベリア横断鉄道の寝台でウラジオストクからハバロフスクまでは夢のような一晩だった。夜中に目覚めて観た満天の星空、月光に照らし出された白樺林、凍る平原から上る朝陽…。今もくっきりと浮かびあがってくる。憧れのシベリア鉄道の旅をした。

ハバロフスクは、ウラジオストクを少し近代的にした感じの街だった。どこに行ってもロシア正教の教会が美しい。アムール川は結氷していて、はるばると白い世界が続いていた。そこにいることだけで感動だった。

子どもたちは小ぎれいな服装をしていて、裕福な子どもたちの通う学校だなと思ったが、当日は日本からのお客様ということで、特におしゃれをしてくれたらしい。よく躾けされているのか、私たちが珍しいのか、総じて大人しい。人見知りなのかもしれない。「日本のどんなこと知ってますか?」と聞くと、「す~し」というお答え。最近、回転すしができてブームらしい。

割りばしで大豆をつまんだり、お辞儀や正座のデモンストレーションをしてロープレさせたら、子供らしくきゃきゃと声を上げていた。世界中、子供はいいなぁ・・・。

子どもたちが日本という国に親しみを覚えてくれたらそれだけで、わたしたちが小学校を訪問したことは小さいけれど国際交流に一役買うことができたのかなと思う。

ジーマは最高のガイドだった。観光旅行では味わえない旅をさせてもらったことには感謝しかない。4軒の個人のお宅で家庭料理のおもてなしを受けた。家族の誕生日の御馳走もお相伴した。ロシアの人たちの日常の生活の場に招き入れてもらえた奇跡のような出会いと旅だった。人とのご縁がもたらした奇跡だ。

富士山が世界遺産になり、この頃から、心斎橋を歩くと外国人ばかりになった。この旅の次の年には、関西空港からウラジオストクに向けて直行便も飛ぶようになった。インバウンドで賑わう直前だったらしい。それも新型コロナショックで今は見る影もない。
あの頃は、国境だってひょいと超えられた。当たり前のことが当たり前にできなくなって思うのは、私たちはいつも奇跡の中で生きているんだってことだ。

そして、ジーマは、多くの出会いを経て、今は日本で僧侶になっている。大阪のお寺の副住職だ。そのことも奇跡だ。人は人との出会いで作られる。私との出会いがもし何かをもたらしているとしたらと思うと、これからも出会いを大切にして、ご縁を深めていきたいとそう思うのだ。

 

 

 

 

 

 

早春の極東ロシア紀行

3月29日

関西空港から羽田空港から成田空港へ

同じ便に乗る日本人は私たちだけのようです〜!
ツアー以外で行く人は少ないようです。
ワクワクをドキドキが上回っていました。
ウラジオストクに向けて、レッツフライト!
 
深夜に
ウラジオストクAPECのために建設された新空港です。12時、日程をまたいで着。
お迎えのジーマが来ない。深夜の空港は日本語は当然、英語も通用しません。
不安はMAX。旧空港に迎えに行ったらしい。電話は通じない。
半泣き状態でいると、1時間以上遅れで迎えに来てくれて、ホテル着。
ジーマの予定表では、明日から盛り沢山です!
 

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3月30日

ホテルの朝ごはんです!

 

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初日、ジーマは仕事があり、元領事館にお勤めだったナーヂャーさんとその旦那さまのサーシャさんの運転で、ウラジオストクをご案内していただきました。
  

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ランチは、ナーヂャーさんのお母さんの家庭料理をいただきました!
どれもみんな美味しい!
お母さんありがとうございました。
 

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午後からは、日本人センター主催の浦潮旧日本人街散策マップに関する交流会に参加して、セミナーとアルセーニエフ博物館関係者の方の案内で無料でバスで案内していただきました!
 

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仕事が終わったジーマと合流しました。 

夕食も、ジーマの家でおよばれしました。
明るいお父さんとお母さんです!
お料理も美味しい!

 

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 3月31日

朝からジーマの案内で、バスとケーブルカーで展望台に上がって流氷を観たり、マトリョーシカのお土産を買ったり…。
ジーマのお母さんの仕事場の芸術学院でレッスンを見学、加代子さんの日舞の披露など。
 

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昼食はロシア料理のレストランで、ボルシチを始め、どれも美味しい!

 

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午後からは、流氷の海辺を散策したり、博物館に行ったり、ロシアの歌のコンサートに行ったり…。

 
夜中に目覚めて観た満天の星空、月光に照らし出された白樺林、凍る平原から上る朝陽…。
感動の溢れる憧れのシベリア鉄道の旅でした。
 
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4月1日

ハバロフスクまで、ジーマも一緒に!
アンナさんにすっかりお世話になりました。
朝食はアンナさんの手料理をいただきました。
スープ、ポテト料理!絶妙でした!

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アンナさんの娘が通うハバロフスクの小学校で、日本のマナーの授業をさせていただきました。割りばしを用意して大豆を挟んで容器に移してワイワイ!正座の立ち座りで痛がったり、日本の挨拶などを小学校2年生にお伝えしました。

国際交流ができたかな?この子どもたちがこれから日本という国に親しみを覚えてくれたらそれだけでもよかったなと思うのでした。

 

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4月2日
ハバロフスクは、ウラジオストクと同じく美しい街です。
凍ったアムール川に降りて、今この場所にいることが感動でした!
 

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 遅いお昼ごはんは、ウクライナ料理です!

日本人がいくロシアのレストランでは、2番人気のお店だとか…。
この旅でいただく料理は全て美味しく、よく眠れ、ずっと元気いっぱい!
当然ですが、ジーマとアンナが、私たちの旅の安全と安心と感動そのものでした。

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今日も今日とて、異国の地にありながら、また、およばれに預かりました。

アンナのお父様の誕生日のおいわいに乱入!
お母さんの手料理をいただき、コニャックをいただきました!
ロシア式の乾杯でお祝いさせていただきました。
急にお邪魔させていただきましたのに、よくしていただきましてありがとうございました。
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4月3日
ハバロフスクの空港から成田まで2時間の空の旅、これまでは近いのに遠い国でした。
桃山学院大学の教育後援会での国際交流のボランテアがこんな素晴らしいご縁を運んでくれました。
観光旅行ではない。5泊6日の旅の中で4軒の個人のお宅で食事をいただいた。
ロシアの家庭料理は素朴で愛にあふれていた。
ホテルのディナーをいただくことがなかったので比較はできないが、たぶん家庭料理の方が口に合ったような気がする。
これ以上にいい旅はたぶんできない。貴重な経験だった。
全て、奇跡のご縁からの愛の旅でした。
ありがとうございました。
 
 
 

最強の応援団!期間限定の無条件の愛をもらっていた。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1985年私は35歳の冬
友人所有の比良の山小屋に雪が積もると必ずそりやスキー板を持って雪遊びに連れて出かけた。

父親はスキーに興じる間に、兄はスキーでボーゲンの練習、妹はそり遊びをさせた。

子どもの間に多くの経験をさせたい。
親として財産は残せなくても、いい思い出をたくさん残してやりたい。

当時は学童保育保育所に通わせながら、仕事をしていた。
毎日、仕事と育児・家事でくたくただった。それでも、休日は、子供を連れて出た。
妹は保育所で頑張っている分だけ休日はずっとこの写真のようにべったりとまとわりついていた。兄も嬉しくて仕方ないという顔をしている。

私といるだけで、こんなによりかかり、こんなにいい顔をしてくれる。子どもとは有り難いものである。

こんなこともあった。

3歳までは、どうしても自分の手で育てたい。可愛い盛りを一緒に過ごしたくて、一端仕事は辞めた。

そして、下が3歳になってから保育所に入れて7時間のパートタイマーとして働いた。すぐに会社人事の都合で、パートタイマーでありながらも責任のある仕事を任され、超過勤務でパート勤務者ではなくなった。

3年後、社長秘書として登用された。
ただ仕事が面白くて一生懸命にやっていたらそういうことになっていた。

組合員を守るために中途採用を認めていない。組合員外の社長秘書という職務上管理職側として採用された。秘書で採用というのは、つまり組合と折り合いをつけるための口実だった。そして、これまでの業務に秘書業務も加わった。

それは、仕事の荷重だけではなく、他の女子社員との軋轢を生んだ。
パート上がりのくせに・・・、パートやのに大卒やて生意気や・・・
しばらくは、今なら信じられないような陰口が聞こえるようにささやかれた。

春闘になると、非組合員に対しての差別意識はあからさまになった。
私に限ったことではなかった。ただ、風当たりは人一倍きつかった。

努力した。工場を回る時は、事務所にいるときの2倍の笑顔を心掛けて、どんな声も吸い上げて寄り添った。徐々に、そういうことを言う人はいなくなった。

そんな日々だった。

一日中、理不尽と戦って家に帰って、夕食の調理をしていたら泣いてしまっていた。
いつの間にか妹の方がそばに来ていた。何で泣いてるのと聞かれた。玉ねぎ刻んでるからとごまかしたが、納得せずにずっと顔を下から不安気に覗いてくる。我慢できずに、つい、こぼしてしまった。

「おかあさん、会社で絶対泣いたらあかんで!わたしも家に帰ってきてから泣くねん」
「そうなんやね。なんか泣くようなことがあったん?」
「いっぱいあるで~」
「そうか・・・、わかったよ」
 なんや・・・、教えてもらってるやん・・・。

話していると、ふいっと妹はいなくなった。しばらくすると、兄の方がドドドッと階段をものすごい勢いで降りてきた。早速、妹がご注進したらしい。
「おかあさん、いじめたやつは誰やねん!名前、言いや!そいつ殴りに行くから!」 
 と、ものすごい形相で言う。

 わはは・・・、ほんまかいな~。笑ってしまった。
「ありがとうな、もうだいじょうぶやで。殴りにいかんでも、気い済んだわ」

 無条件に愛されている。誰よりも、こんな強い味方はない。二人ともに成長とともに反抗期には、反発もされたし、批判もされた。期間限定の無条件の愛やったなと思う。

 仕事は好きで、可能なら2倍も3倍もしたいと思った。子どもたちが手かせ足かせに感じた日もあった。仕事をしていることで、子どもたちには無理をさせてきていることに後ろめたさもあった。もっと、子どもたちを甘やかしてやりたいと思った。

もっと、一緒に居たかったな・・・。もっとあちこち行きたかったな・・・。いろいろ一緒にしたかったな・・・。いい思い出を残してやりたいと言いながら、いい思い出を作ってもらっていたのは親の方だったと思う。

あの時心配そうにじっと見上げてきたあの子が、働く母親として今は同じ思いをしている。働く母親の永遠のテーマは60年以上経てもそう変わらない。
よく祖母に援けてもらった。この子たちは祖母からも愛されて、祖母を慕った。
私が援けてもらったように娘を援けたいけれど、今はコロナ禍にそれを阻まれているのが口惜しい。
収まったら孫と旅をしよう。財産は残せないけれど、おばあちゃんとのいい思い出だけを残してやりたいと思う。

そして、いい思い出を作ってもらうんだな・・・、やっぱり・・・。

 

 

 

 

いなくなったら風呂を探せ!

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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1952年1月のたぶん2歳の誕生日かその前後に、実家の店頭で撮っている。

私たちきょうだいの幼いころの写真は結構な数に上る。
我が家にカメラがやってきたことははっきりと覚えている。
私が10歳の時だから、幼年時代の写真は誰が撮っていたのかずっと謎だった。
しかも、そこには常に優しい視線があった。

叔父さんしかいない。だから、いい顔して写っていたんだ・・・。
そのことにうん十年もかかって今さらながら気がついた。

叔父は、サラリーマンだった。日曜日は、休みなく1年中商売に励む親たちに代わって、こうやって写真を撮ってくれていたのではないだろうか。
私たちは、カメラが好きで子供好きの優しい叔父のことは、余りにも悲しいお別れをしたために忘れていたのだ。

店頭には、家業の鋳物のおがくずストーブや大きな鍋窯や風呂釜などが並んでいる。
父は満蒙開拓団にいた。そこでであったオンドルのための燃焼器からヒントを得て、戦後、風呂窯などの燃焼効率を高くする鋳物製のロストル(すのこ)を再現して実用新案をとって設置工事販売をしていた。

その頃、ラジオドラマ「君の名は」が人気となる時勢、戦後の燃料不足が続く中、建設ブームでふんだんにあったおがくずを燃料とするストーブは飛ぶように売れた。
そのことで、両親は繁忙を極めていた。当然、子供には手を掛けられない。きょうだいができるまで私はいつも一人で遊んでいた。商売人の家の子はどこも同じような境遇である。特別ではない。そんなころのエピソードである。

私は二度ほど行方不明事件を引き起こしたと大きくなってから聞かされた。

近所中の人を巻き込んで大騒ぎになったが、発見されたのは、3軒向こうにある銭湯に、勝手にかんかん(アルミの湯桶)に手拭いを入れて、2歳児が一人で行って、番台からも死角で、一人で遊んでいたらしい。無銭入湯していたのか?自分で服も脱げたのかな?よく、深い湯船にはまらなかったものだ。

ある時は、夕方になっても姿が見えずに大騒ぎになっていたら、店頭の風呂窯の中に入り込んで寝ていた。寝ぼけ眼で顔中を赤さびらけになってひょっこり・・・。

それで、よほどに風呂好きな子というレッテルを貼られることになった。

どうやら、本質はマイペースで一人遊びが好きだったらしい。

ステイホームで本を読んだり、モノを作ったりと一人でいることがさほどに苦痛ではない。何日でも籠っていられる。人からは外交的な人だと思われているけれど、内向性は自分でも意外なレベルで私の特質でもあったのだ。

後年の環境から、誰かと一緒にいる、誰かのために生きる、それが自分だと思ってきた。やっと近年、自分軸で生きられるようになったこの歳になって元の特性が顔を出してくる。

どうやら「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。

もちろん、これまでの人生で人に寄り添うことは得意なレベルになっている。
苦手なことをやり続けることでそれはそれでリソースとなった。

そして、老後を楽しむためには案外に一人遊びができるというのは都合がいい。
ソロ活ができるというのは大きなリソースなのだ。