私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

早春の極東ロシア紀行

3月29日

関西空港から羽田空港から成田空港へ

同じ便に乗る日本人は私たちだけのようです〜!
ツアー以外で行く人は少ないようです。
ワクワクをドキドキが上回っていました。
ウラジオストクに向けて、レッツフライト!
 
深夜に
ウラジオストクAPECのために建設された新空港です。12時、日程をまたいで着。
お迎えのジーマが来ない。深夜の空港は日本語は当然、英語も通用しません。
不安はMAX。旧空港に迎えに行ったらしい。電話は通じない。
半泣き状態でいると、1時間以上遅れで迎えに来てくれて、ホテル着。
ジーマの予定表では、明日から盛り沢山です!
 

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3月30日

ホテルの朝ごはんです!

 

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初日、ジーマは仕事があり、元領事館にお勤めだったナーヂャーさんとその旦那さまのサーシャさんの運転で、ウラジオストクをご案内していただきました。
  

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ランチは、ナーヂャーさんのお母さんの家庭料理をいただきました!
どれもみんな美味しい!
お母さんありがとうございました。
 

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午後からは、日本人センター主催の浦潮旧日本人街散策マップに関する交流会に参加して、セミナーとアルセーニエフ博物館関係者の方の案内で無料でバスで案内していただきました!
 

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仕事が終わったジーマと合流しました。 

夕食も、ジーマの家でおよばれしました。
明るいお父さんとお母さんです!
お料理も美味しい!

 

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 3月31日

朝からジーマの案内で、バスとケーブルカーで展望台に上がって流氷を観たり、マトリョーシカのお土産を買ったり…。
ジーマのお母さんの仕事場の芸術学院でレッスンを見学、加代子さんの日舞の披露など。
 

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昼食はロシア料理のレストランで、ボルシチを始め、どれも美味しい!

 

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午後からは、流氷の海辺を散策したり、博物館に行ったり、ロシアの歌のコンサートに行ったり…。

 
夜中に目覚めて観た満天の星空、月光に照らし出された白樺林、凍る平原から上る朝陽…。
感動の溢れる憧れのシベリア鉄道の旅でした。
 
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4月1日

ハバロフスクまで、ジーマも一緒に!
アンナさんにすっかりお世話になりました。
朝食はアンナさんの手料理をいただきました。
スープ、ポテト料理!絶妙でした!

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アンナさんの娘が通うハバロフスクの小学校で、日本のマナーの授業をさせていただきました。割りばしを用意して大豆を挟んで容器に移してワイワイ!正座の立ち座りで痛がったり、日本の挨拶などを小学校2年生にお伝えしました。

国際交流ができたかな?この子どもたちがこれから日本という国に親しみを覚えてくれたらそれだけでもよかったなと思うのでした。

 

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4月2日
ハバロフスクは、ウラジオストクと同じく美しい街です。
凍ったアムール川に降りて、今この場所にいることが感動でした!
 

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 遅いお昼ごはんは、ウクライナ料理です!

日本人がいくロシアのレストランでは、2番人気のお店だとか…。
この旅でいただく料理は全て美味しく、よく眠れ、ずっと元気いっぱい!
当然ですが、ジーマとアンナが、私たちの旅の安全と安心と感動そのものでした。

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今日も今日とて、異国の地にありながら、また、およばれに預かりました。

アンナのお父様の誕生日のおいわいに乱入!
お母さんの手料理をいただき、コニャックをいただきました!
ロシア式の乾杯でお祝いさせていただきました。
急にお邪魔させていただきましたのに、よくしていただきましてありがとうございました。
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4月3日
ハバロフスクの空港から成田まで2時間の空の旅、これまでは近いのに遠い国でした。
桃山学院大学の教育後援会での国際交流のボランテアがこんな素晴らしいご縁を運んでくれました。
観光旅行ではない。5泊6日の旅の中で4軒の個人のお宅で食事をいただいた。
ロシアの家庭料理は素朴で愛にあふれていた。
ホテルのディナーをいただくことがなかったので比較はできないが、たぶん家庭料理の方が口に合ったような気がする。
これ以上にいい旅はたぶんできない。貴重な経験だった。
全て、奇跡のご縁からの愛の旅でした。
ありがとうございました。
 
 
 

最強の応援団!期間限定の無条件の愛をもらっていた。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1985年私は35歳の冬
友人所有の比良の山小屋に雪が積もると必ずそりやスキー板を持って雪遊びに連れて出かけた。

父親はスキーに興じる間に、兄はスキーでボーゲンの練習、妹はそり遊びをさせた。

子どもの間に多くの経験をさせたい。
親として財産は残せなくても、いい思い出をたくさん残してやりたい。

当時は学童保育保育所に通わせながら、仕事をしていた。
毎日、仕事と育児・家事でくたくただった。それでも、休日は、子供を連れて出た。
妹は保育所で頑張っている分だけ休日はずっとこの写真のようにべったりとまとわりついていた。兄も嬉しくて仕方ないという顔をしている。

私といるだけで、こんなによりかかり、こんなにいい顔をしてくれる。子どもとは有り難いものである。

こんなこともあった。

3歳までは、どうしても自分の手で育てたい。可愛い盛りを一緒に過ごしたくて、一端仕事は辞めた。

そして、下が3歳になってから保育所に入れて7時間のパートタイマーとして働いた。すぐに会社人事の都合で、パートタイマーでありながらも責任のある仕事を任され、超過勤務でパート勤務者ではなくなった。

3年後、社長秘書として登用された。
ただ仕事が面白くて一生懸命にやっていたらそういうことになっていた。

組合員を守るために中途採用を認めていない。組合員外の社長秘書という職務上管理職側として採用された。秘書で採用というのは、つまり組合と折り合いをつけるための口実だった。そして、これまでの業務に秘書業務も加わった。

それは、仕事の荷重だけではなく、他の女子社員との軋轢を生んだ。
パート上がりのくせに・・・、パートやのに大卒やて生意気や・・・
しばらくは、今なら信じられないような陰口が聞こえるようにささやかれた。

春闘になると、非組合員に対しての差別意識はあからさまになった。
私に限ったことではなかった。ただ、風当たりは人一倍きつかった。

努力した。工場を回る時は、事務所にいるときの2倍の笑顔を心掛けて、どんな声も吸い上げて寄り添った。徐々に、そういうことを言う人はいなくなった。

そんな日々だった。

一日中、理不尽と戦って家に帰って、夕食の調理をしていたら泣いてしまっていた。
いつの間にか妹の方がそばに来ていた。何で泣いてるのと聞かれた。玉ねぎ刻んでるからとごまかしたが、納得せずにずっと顔を下から不安気に覗いてくる。我慢できずに、つい、こぼしてしまった。

「おかあさん、会社で絶対泣いたらあかんで!わたしも家に帰ってきてから泣くねん」
「そうなんやね。なんか泣くようなことがあったん?」
「いっぱいあるで~」
「そうか・・・、わかったよ」
 なんや・・・、教えてもらってるやん・・・。

話していると、ふいっと妹はいなくなった。しばらくすると、兄の方がドドドッと階段をものすごい勢いで降りてきた。早速、妹がご注進したらしい。
「おかあさん、いじめたやつは誰やねん!名前、言いや!そいつ殴りに行くから!」 
 と、ものすごい形相で言う。

 わはは・・・、ほんまかいな~。笑ってしまった。
「ありがとうな、もうだいじょうぶやで。殴りにいかんでも、気い済んだわ」

 無条件に愛されている。誰よりも、こんな強い味方はない。二人ともに成長とともに反抗期には、反発もされたし、批判もされた。期間限定の無条件の愛やったなと思う。

 仕事は好きで、可能なら2倍も3倍もしたいと思った。子どもたちが手かせ足かせに感じた日もあった。仕事をしていることで、子どもたちには無理をさせてきていることに後ろめたさもあった。もっと、子どもたちを甘やかしてやりたいと思った。

もっと、一緒に居たかったな・・・。もっとあちこち行きたかったな・・・。いろいろ一緒にしたかったな・・・。いい思い出を残してやりたいと言いながら、いい思い出を作ってもらっていたのは親の方だったと思う。

あの時心配そうにじっと見上げてきたあの子が、働く母親として今は同じ思いをしている。働く母親の永遠のテーマは60年以上経てもそう変わらない。
よく祖母に援けてもらった。この子たちは祖母からも愛されて、祖母を慕った。
私が援けてもらったように娘を援けたいけれど、今はコロナ禍にそれを阻まれているのが口惜しい。
収まったら孫と旅をしよう。財産は残せないけれど、おばあちゃんとのいい思い出だけを残してやりたいと思う。

そして、いい思い出を作ってもらうんだな・・・、やっぱり・・・。

 

 

 

 

いなくなったら風呂を探せ!

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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1952年1月のたぶん2歳の誕生日かその前後に、実家の店頭で撮っている。

私たちきょうだいの幼いころの写真は結構な数に上る。
我が家にカメラがやってきたことははっきりと覚えている。
私が10歳の時だから、幼年時代の写真は誰が撮っていたのかずっと謎だった。
しかも、そこには常に優しい視線があった。

叔父さんしかいない。だから、いい顔して写っていたんだ・・・。
そのことにうん十年もかかって今さらながら気がついた。

叔父は、サラリーマンだった。日曜日は、休みなく1年中商売に励む親たちに代わって、こうやって写真を撮ってくれていたのではないだろうか。
私たちは、カメラが好きで子供好きの優しい叔父のことは、余りにも悲しいお別れをしたために忘れていたのだ。

店頭には、家業の鋳物のおがくずストーブや大きな鍋窯や風呂釜などが並んでいる。
父は満蒙開拓団にいた。そこでであったオンドルのための燃焼器からヒントを得て、戦後、風呂窯などの燃焼効率を高くする鋳物製のロストル(すのこ)を再現して実用新案をとって設置工事販売をしていた。

その頃、ラジオドラマ「君の名は」が人気となる時勢、戦後の燃料不足が続く中、建設ブームでふんだんにあったおがくずを燃料とするストーブは飛ぶように売れた。
そのことで、両親は繁忙を極めていた。当然、子供には手を掛けられない。きょうだいができるまで私はいつも一人で遊んでいた。商売人の家の子はどこも同じような境遇である。特別ではない。そんなころのエピソードである。

私は二度ほど行方不明事件を引き起こしたと大きくなってから聞かされた。

近所中の人を巻き込んで大騒ぎになったが、発見されたのは、3軒向こうにある銭湯に、勝手にかんかん(アルミの湯桶)に手拭いを入れて、2歳児が一人で行って、番台からも死角で、一人で遊んでいたらしい。無銭入湯していたのか?自分で服も脱げたのかな?よく、深い湯船にはまらなかったものだ。

ある時は、夕方になっても姿が見えずに大騒ぎになっていたら、店頭の風呂窯の中に入り込んで寝ていた。寝ぼけ眼で顔中を赤さびらけになってひょっこり・・・。

それで、よほどに風呂好きな子というレッテルを貼られることになった。

どうやら、本質はマイペースで一人遊びが好きだったらしい。

ステイホームで本を読んだり、モノを作ったりと一人でいることがさほどに苦痛ではない。何日でも籠っていられる。人からは外交的な人だと思われているけれど、内向性は自分でも意外なレベルで私の特質でもあったのだ。

後年の環境から、誰かと一緒にいる、誰かのために生きる、それが自分だと思ってきた。やっと近年、自分軸で生きられるようになったこの歳になって元の特性が顔を出してくる。

どうやら「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。

もちろん、これまでの人生で人に寄り添うことは得意なレベルになっている。
苦手なことをやり続けることでそれはそれでリソースとなった。

そして、老後を楽しむためには案外に一人遊びができるというのは都合がいい。
ソロ活ができるというのは大きなリソースなのだ。

 

 

米原駅発、姉と弟のバトルは・・・

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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この写真を撮ったのは1956年、姉の私は6歳。弟は1歳の春らしい。
その頃の家業は、鋳造の風呂釜を設置する事業だった。
それで、誰かが面白がって、よちよち歩く弟にこんな前掛けを巻いて写真を撮ったらしい。手にはぽんせんを持っている。よく大人しく写真を撮らせたものだ。やんちゃな弟を大人しくさせるにはこのぽんせんが多いに役だったものだった。

この頃は、まだお菓子でごまかしが効いたのだが・・・。後々、やんちゃぶりには磨きがかかり、ほとほと手を焼くことになっていく。

親たちは、この時代はまだ戦後の復興期で、いつも繁忙の最中にあって、妹や弟のお守りは長女の私の仕事だった。

今回、書こうとするのは、この写真を撮った5.6年後の話である。
家業は、数年は順調だった。いつも夏休みは宿題を持って、私たちは福井県の母の実家に預けられた。
国鉄大阪駅まで母が送ってくれて、周りの乗客たちにどこまで行くかを聞いて、子どもたちだけで行かせるので、この子たちを福井駅で降ろしてほしいと頼んでくれた。誰もがこころよく引き受けてくれるそんないい時代だった。

妹はきさんじな子だったから、ただちょこんと側にいてくれた。けれど、普段でも手に余るのに、大好きな汽車に乗るわけだから、興奮気味の弟の方は小学生の姉には手強かった。この頃から弟の鉄道好きが始まったらしい。

福井に着いたら、叔父が迎えに来てくれることになっていた。叔父の姿が見えると、もう飛びつきたいほど嬉しかったことだけを覚えている。その道中は緊張しすぎで記憶がないのだ。

ただ、はっきりと覚えていることがある。

米原駅だ。東海道線から非電化の北陸線への切り替え駅で30分以上停車する。そこからは蒸気機関車に切り替わる。その作業に半時間はかかった。
その間が、姉ちゃんにとっては地獄だった。
時計など持っていない。どれぐらい停まっているのかもわからない。
なのに、弟は蒸気機関車に切り替えるのを見るためにホームに飛び出していく。
もう、姉ちゃんは、死ぬほど心配なのだ。弟を汽車が置いて出てしまわないかと・・・。「乗って~」とどれだけ叫んでも、聞いてくれない弟とのバトル、毎回、確実に泣かされていた。

そして、べそをかいている私に周りの大人が必ずくれた。冷凍ミカンは甘くて冷たくて、あんなに美味しいものはなかった。

妹と弟の面倒は私が見ますと幼児決断していた。その思い出は、ポーッとなる汽笛に驚かされ、トンネルに入ると慌てて窓を閉めないと煙が入ってくるといったノスタルジーの彼方に残滓となっている。

機会があれば、あの時はどういうつもりやったん?と聞いてみようか。

そんな弟も、今や、親戚一同の頼もしいリーダーとなった。上手いことやってくれている。姉ちゃんとしては大助かりで感謝している。

これからは、願わくば私より先には逝かないでほしい。
順番は守ってなと言いたいけれど言わない。言ったところで憎たらしい答えしか返ってこないのが分かっているから。

相変わらずやんちゃは死ななきゃ治らないみたいだ。

 

 

 

 

 

 

 

どうしても島に帰りたい・・・あの子はどうしているのだろう。

 

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1996年3月、46歳
その頃、会社における私は繊維メーカーの人事の仕事をしていて、地方から出てきた女子寮生の生活管理もしていました。

その寮生の一人と一緒に写っています。
写真は、当時、紡績会社が共同出資して運営していた通信制短期大学の通学校「いずみ女子学園」の教室の前で、卒業式と卒業研究発表が終わってから撮った記念写真です。会社の代表者として出席していました。

彼女は、早くに父親を亡くし、母親と年老いた祖母と病気の姉と幼い妹が三人。
奄美大島の中学を卒業して、泉南の紡績工場に勤めながら、定時制高校に4年間通っていました。
すでにバブルは崩壊し、その前年に阪神大震災、地下鉄サリン時間と不安定な世相の中で、地場産業の繊維業界は恒常的な不況へと突き進んでいました。次々と地元企業が経営難で閉鎖するに至って、行き先を失った地方出身者を会社では数人受け入れて、工場で交替番の仕事に就かせながら学園に通わせていました。

彼女は寮に入って、つつましい暮らしをしながら、それでも親元に仕送りを続けていました。学費は会社からの借金でしたから、月々引かれて手元に残る給料はわずかでした。寮生には苦しい中でも社内預金を天引きで無理やりさせていました。親心でやっていたことですが、私は鬼のような人事担当者だったことでしょう。

そのなけなしの社内預金を、台風で島の家の屋根が飛んだから、豚小屋が焼けたから、妹が小学校に入学するから仕送りしたいから下ろしてくださいと言ってきます。

それでも、人一倍楽しそうに毎日を働き勉強していた健気で明るい娘でした。

それなのに、幸薄いっていうのでしょうか。あと1年で卒業というところで、無理がたたり、結核にかかり手術を余儀なくされます。それでも、退院して仕事と学校でがんばっていたのに、卒業を目前にして、再発し、再手術になりました。
そのときは、もう島に帰らせるしかないかと思いましたが、学校の先生方の好意で、病院で勉強を続け、単位を取って卒業だけはできることになりました。しかし、目的の保母の資格は取れなかったのです。

その時の写真です。二人とも嬉しくて泣いた顔が写っています。

入院費も自分の社内預金で賄ったし、手術の時も母親は出てくることはできない。寮母さんや私が代わりに付き添ったし、卒業式も付き添ったのは私でした。

そんな体で、社内預金だってほとんど貯まっていない。それなのに、妹を看護学校に行かせたいから、残っているだけのお金を下ろして欲しいと言って来ます。
「だめ!いい加減にしなさい!自分の体を考えなさい!今のあなたにはお金が必要。まず、自分を大切にしなさい」
といって下ろしてやらなかった。もう、見てられなかったのです!

すると、分厚い手紙が届きます。
私のことを思って下さるのはありがたいし嬉しい!でも、どうしても、家族にしてあげたい。家族には、自分しかいないのやからと・・・。 

その手紙はずっと我が家の書棚の引き出しに入っていて、甘ちゃんのわが子たちに説教するとき、光圀公の印籠みたいに利用してきました。これはね~、後でやっちゃいけなかたって分かるのですがね。

女子寮は2棟あり、20から30人はいましたから、寮母さん一人では手が廻らない。
親元を離れて、不安定な寮生たちにとって、寮母さんは常に優しく受け入れてくれる母親のような存在にするために、わざと嫌われる父親役、叱る役を引き受けていました。

寮には、寮生たちが説教部屋と呼んでいる部屋があって、ただの談話室なんですが、そこがカウンセリングルームになっていました。その頃の私には資格はないけれど、カウンセラーとしての業務を務めていました。

いろいろな悩みを聴きました。あきれるような珍事件も起こりました。次々と事件を起こしてくれて、寮生たちは、私を仕事のできる人に鍛えてくれました。

島に帰っていると思っていました。8年後、2004年に突然、彼女が会社に訪ねてきてくれました。
「もう、30歳ですよ!」って言う。私も歳を取るはずです。

卒業後、島に帰ったが、姉のためにと共に丹波篠山の工場に働きに出てきたけれど、姉はすぐに病んで島に帰ってしまって、一人で7年間勤め続けた。

そして短大のスクーリングに行き、保母の資格をとったし、ヘルパーの資格もとった。仕事も、やりがいを持ってやってきたという。
それでも、どうしても好きな島に帰りたい。帰る前に会いたくてと来てくれました。

島に帰ったら、マグロの養殖場で働くんだと嬉しそうに話してくれる。
少しも変わっていなかった。
女らしくなって綺麗になっていたから、すぐに誰かは解らなかったけれど、話していると、昔の真摯で素朴なままだった。別れる間際まで笑顔のまま。当時の私が痩せてしまっていることを心配しながら帰っていきました。優しい子です。

大好きな島で幸せになってほしいと心から願わずにはいられませんでした。

そして、14年後、一昨々年に奄美大島を訪ねました。

奄美を離れて、工場で交替勤務しながら学ぶ女の子たちは他にもいました。
どの子も家族思いで、頑張りやで純粋で可愛い女の子たちでした。
きっと、青い空と海と澄んだ空気がこんな子を育てるのだろう。

一度、奄美に行ってみたい。そして、あの子たちが今どうしているのか?
いいお母さんになって幸せに暮らす姿を見てみたい。そう思ったのですが、会わずに帰ってきてしまいました。何故か、まだ幸せに暮らしていると思えなかったのです。

今の彼女はこの写真の私と同じ歳になっています。今度こそ、彼女が幸せに暮らす姿に会いに行こう。コロナ禍が去ったなら、奄美を訪ねようと思います。

事務機器の変遷とともに働いて

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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 一九七二年(昭和四十七年)に大学を卒業。当時、女性の仕事は事務職中心でした。

就職活動の中で就職部主催の講習会でタイプライターに出会いました。それまでは部活の中でガリ版で原稿を切って謄写版で刷っていたので、何か特別な存在になれたような気がしたものでした。
早速、当時やっていた工学部の教授秘書のアルバイトで先生の英文の論文をポチポチと打っていました。

仕事についてしばらくは、手作業による事務処理が中心でした。伝票を起こし、帳簿は手書き、計算はソロバンでした。文書はタイプライターに入力。湿式コピー機が出始めていました。 

 三年後、結婚して、しばらくは子育てに専念し、一九八三年、社会復帰したのは繊維メーカーの総務部でした。
事務室はオフィスに様変わりして、オフィスコンピューターが主流となり、文書の処理は日本語ワープロでした。
早速、給与計算が主な仕事となり、オフコンの利便性にすっかり魅せられて、それを扱えることが楽しく思えたものでした。湿式は姿を消し、乾式コピー機となっていました。
ソロバンは二級、使いこなしていたので、いつまでも計算機と二刀流でした。

 バブルとともに、大きなオフコンはパーソナルコンピューター、パソコンにとって代わります。そこからは目まぐるしくオフィスは変わっていきました。
文書処理のソフトも「松」から「新松」に始まって、ある時期は「一太郎」そして「ワード」、計算ソフトも「ロータス123」から「エクセル」「アクセス」と、使いこなせるようになったと思ったら、また次のソフトに切り替わる。よくついていけたものです。

 FAXが登場し、電話も多機能になり、移動電話やポケベル、携帯電話、インターネット・・・、全部使いました。

 やがて、事務作業から採用や社員教育や社内カウンセラーのような業務が中心になっても、パソコンはなくてはならないアイテムになり、パワーポイントで仕事をすることが増え、HPにも必死で取り組むうちにインターネットは仕事の中心になっていました。

 二〇一〇年、定年退職するまで、どれだけの事務機器のお世話になったことでしょう。その変遷史をこの目で見て、この手で使って、ともに変わり続けてきました。そのことをこの写真が思い出させてくれました。

  ただ、これまで、便利になった分、ヒトとしての退化が始まっていたなと感じています。例えば、携帯電話を持つ前は、親戚や友人知人の電話番号は常に頭に入っていて、自在に使えたのに、覚える必要がなくなると、どんどん、忘れていっていませんか。
パソコンを使うようになって、漢字は読めても書けなくなっていることにも愕然としています。そしてちょっと困ったら、なんでもグーグル先生に聞いてしまって、調べたり、深めたり、広めたりするということがない。苦労して答えを出していないので、すぐにまた忘れてしまいませんか。 

 どうしようもなく依存してしまっている昨今、すでに、老性退化も始まっています。
老化防止のクイズとかしないでも、ここらで、辞書を引くとか、手紙を手書きするとかできることがあるような気がします。


 そろそろ、丁寧な暮らしにライフシフトする。できるところから始めるしかありませんね。

留学生たちに振袖を着せてあげたい!

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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2002年1月12日、52歳になってすぐの頃
「留学生振袖の会」がスタートした日でした。
この会は、来年、コロナ禍がなければ、2021年で20回目となる予定でした。

その2年前、娘が通う桃山学院大学の学園祭、保護者の会の活動でバザーの会場には、500円のタオルセットを買うのに逡巡する台湾からの男子留学生の姿がありました。国の親への土産にするという。親孝行に免じて半額にしてあげるというと、やっと愁眉を開いた。日本の学生たちは、もう、500円を消費するのにこんなに悩むことはない時代なのに、聞けば、急激な円高が留学生たちの生活を直撃しているという。それが留学生たちとの出会いでした。

その後も、国で思っていたよりも厳しくて寂しいと言いながらも健気で真摯に学ぶ姿に触れる機会がありました。「日本の女の子のように成人式に振袖を着るのが憧れ」という。

日本で学ぶことを励まし、いい思い出になるのならばと「振袖を着せる会」を企画しました。家のタンスに眠っている振袖を持ち寄って、私たちで何とか着せてあげられないだろうか、喜ぶ顔だけを思い描いて、同じ年頃の娘を持つ身、わが子も、遠い国で学ぶことがあった親の立場からの個人ができる会の範囲で始めたのです。

ところが、多くの人や大学を動かすことになり、私にできるのかという不安の中、人の善意だけを頼りにスタートしました。

振袖が20組集まり、着付けのボランテア、写真撮影のボランテア、ヘアー担当の女子学生、初詣に案内するお父さんたちとどんどん協力者が集まりました。
学校側からは、チャペルの談話室を更衣室に使わせてくださいました。

当日、お天気までも応援してくれているかのようなぽかぽか天気。留学生たちは次々とかわいい姿に出来上がりました。

お母さんたちが持ち寄った手作りのお赤飯やおむすびで心づくしのお祝いをし、集合写真も撮りました。そこではまたも奇跡が起こりました。たまたま学長が通りかかって、記念写真に収まって下さいました。

留学生たちははしゃぎっぱなしの1日でした。みんなが「お母さんありがとうございました」と涙をいっぱい溜めて言ってくれました。こちらこそ、こんなに熱い思いにさせてくれたことにありがとう。

昔、親たちが娘へ贈った特別な思いの振袖を惜しげなく着せてくれたこと。単に美しい着物を着せてもらったのではなく、日本の親の娘を思う美しい心も一緒に着せてもらったことをお伝えしました。多くの無償の善意に出会えた奇跡の一日でした。

困難なこともたくさんありましたが忘れました。
それから7回を数えて、寄贈の振袖も充実し、モノも揃い、いろいろと整った形で現役の大学生の保護者のお母さま方に引き継ぎました。

今は継続を目的として組織化され、恒例化された華やかな会となり、始まりの思いがそのまま継続されることは難しくなりました。
けれど、毎年、あの頃の善意だけしかなかった思いをぶちまけたような自分の作った文面が恥ずかしげもなくそのまま残された案内が届くたびに、やり続けてくださっていることが有難いと思うばかりです。

2021年の会は中止になってしまいましたが、これまで一度も休みなく行われてきたこと続けられたことこそが奇跡だと思います。

多くの人の優しさに感謝しかありません。