私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

米原駅発、姉と弟のバトルは・・・

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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この写真を撮ったのは1956年、姉の私は6歳。弟は1歳の春らしい。
その頃の家業は、鋳造の風呂釜を設置する事業だった。
それで、誰かが面白がって、よちよち歩く弟にこんな前掛けを巻いて写真を撮ったらしい。手にはぽんせんを持っている。よく大人しく写真を撮らせたものだ。やんちゃな弟を大人しくさせるにはこのぽんせんが多いに役だったものだった。

この頃は、まだお菓子でごまかしが効いたのだが・・・。後々、やんちゃぶりには磨きがかかり、ほとほと手を焼くことになっていく。

親たちは、この時代はまだ戦後の復興期で、いつも繁忙の最中にあって、妹や弟のお守りは長女の私の仕事だった。

今回、書こうとするのは、この写真を撮った5.6年後の話である。
家業は、数年は順調だった。いつも夏休みは宿題を持って、私たちは福井県の母の実家に預けられた。
国鉄大阪駅まで母が送ってくれて、周りの乗客たちにどこまで行くかを聞いて、子どもたちだけで行かせるので、この子たちを福井駅で降ろしてほしいと頼んでくれた。誰もがこころよく引き受けてくれるそんないい時代だった。

妹はきさんじな子だったから、ただちょこんと側にいてくれた。けれど、普段でも手に余るのに、大好きな汽車に乗るわけだから、興奮気味の弟の方は小学生の姉には手強かった。この頃から弟の鉄道好きが始まったらしい。

福井に着いたら、叔父が迎えに来てくれることになっていた。叔父の姿が見えると、もう飛びつきたいほど嬉しかったことだけを覚えている。その道中は緊張しすぎで記憶がないのだ。

ただ、はっきりと覚えていることがある。

米原駅だ。東海道線から非電化の北陸線への切り替え駅で30分以上停車する。そこからは蒸気機関車に切り替わる。その作業に半時間はかかった。
その間が、姉ちゃんにとっては地獄だった。
時計など持っていない。どれぐらい停まっているのかもわからない。
なのに、弟は蒸気機関車に切り替えるのを見るためにホームに飛び出していく。
もう、姉ちゃんは、死ぬほど心配なのだ。弟を汽車が置いて出てしまわないかと・・・。「乗って~」とどれだけ叫んでも、聞いてくれない弟とのバトル、毎回、確実に泣かされていた。

そして、べそをかいている私に周りの大人が必ずくれた。冷凍ミカンは甘くて冷たくて、あんなに美味しいものはなかった。

妹と弟の面倒は私が見ますと幼児決断していた。その思い出は、ポーッとなる汽笛に驚かされ、トンネルに入ると慌てて窓を閉めないと煙が入ってくるといったノスタルジーの彼方に残滓となっている。

機会があれば、あの時はどういうつもりやったん?と聞いてみようか。

そんな弟も、今や、親戚一同の頼もしいリーダーとなった。上手いことやってくれている。姉ちゃんとしては大助かりで感謝している。

これからは、願わくば私より先には逝かないでほしい。
順番は守ってなと言いたいけれど言わない。言ったところで憎たらしい答えしか返ってこないのが分かっているから。

相変わらずやんちゃは死ななきゃ治らないみたいだ。

 

 

 

 

 

 

 

どうしても島に帰りたい・・・あの子はどうしているのだろう。

 

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

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1996年3月、46歳
その頃、会社における私は繊維メーカーの人事の仕事をしていて、地方から出てきた女子寮生の生活管理もしていました。

その寮生の一人と一緒に写っています。
写真は、当時、紡績会社が共同出資して運営していた通信制短期大学の通学校「いずみ女子学園」の教室の前で、卒業式と卒業研究発表が終わってから撮った記念写真です。会社の代表者として出席していました。

彼女は、早くに父親を亡くし、母親と年老いた祖母と病気の姉と幼い妹が三人。
奄美大島の中学を卒業して、泉南の紡績工場に勤めながら、定時制高校に4年間通っていました。
すでにバブルは崩壊し、その前年に阪神大震災、地下鉄サリン時間と不安定な世相の中で、地場産業の繊維業界は恒常的な不況へと突き進んでいました。次々と地元企業が経営難で閉鎖するに至って、行き先を失った地方出身者を会社では数人受け入れて、工場で交替番の仕事に就かせながら学園に通わせていました。

彼女は寮に入って、つつましい暮らしをしながら、それでも親元に仕送りを続けていました。学費は会社からの借金でしたから、月々引かれて手元に残る給料はわずかでした。寮生には苦しい中でも社内預金を天引きで無理やりさせていました。親心でやっていたことですが、私は鬼のような人事担当者だったことでしょう。

そのなけなしの社内預金を、台風で島の家の屋根が飛んだから、豚小屋が焼けたから、妹が小学校に入学するから仕送りしたいから下ろしてくださいと言ってきます。

それでも、人一倍楽しそうに毎日を働き勉強していた健気で明るい娘でした。

それなのに、幸薄いっていうのでしょうか。あと1年で卒業というところで、無理がたたり、結核にかかり手術を余儀なくされます。それでも、退院して仕事と学校でがんばっていたのに、卒業を目前にして、再発し、再手術になりました。
そのときは、もう島に帰らせるしかないかと思いましたが、学校の先生方の好意で、病院で勉強を続け、単位を取って卒業だけはできることになりました。しかし、目的の保母の資格は取れなかったのです。

その時の写真です。二人とも嬉しくて泣いた顔が写っています。

入院費も自分の社内預金で賄ったし、手術の時も母親は出てくることはできない。寮母さんや私が代わりに付き添ったし、卒業式も付き添ったのは私でした。

そんな体で、社内預金だってほとんど貯まっていない。それなのに、妹を看護学校に行かせたいから、残っているだけのお金を下ろして欲しいと言って来ます。
「だめ!いい加減にしなさい!自分の体を考えなさい!今のあなたにはお金が必要。まず、自分を大切にしなさい」
といって下ろしてやらなかった。もう、見てられなかったのです!

すると、分厚い手紙が届きます。
私のことを思って下さるのはありがたいし嬉しい!でも、どうしても、家族にしてあげたい。家族には、自分しかいないのやからと・・・。 

その手紙はずっと我が家の書棚の引き出しに入っていて、甘ちゃんのわが子たちに説教するとき、光圀公の印籠みたいに利用してきました。これはね~、後でやっちゃいけなかたって分かるのですがね。

女子寮は2棟あり、20から30人はいましたから、寮母さん一人では手が廻らない。
親元を離れて、不安定な寮生たちにとって、寮母さんは常に優しく受け入れてくれる母親のような存在にするために、わざと嫌われる父親役、叱る役を引き受けていました。

寮には、寮生たちが説教部屋と呼んでいる部屋があって、ただの談話室なんですが、そこがカウンセリングルームになっていました。その頃の私には資格はないけれど、カウンセラーとしての業務を務めていました。

いろいろな悩みを聴きました。あきれるような珍事件も起こりました。次々と事件を起こしてくれて、寮生たちは、私を仕事のできる人に鍛えてくれました。

島に帰っていると思っていました。8年後、2004年に突然、彼女が会社に訪ねてきてくれました。
「もう、30歳ですよ!」って言う。私も歳を取るはずです。

卒業後、島に帰ったが、姉のためにと共に丹波篠山の工場に働きに出てきたけれど、姉はすぐに病んで島に帰ってしまって、一人で7年間勤め続けた。

そして短大のスクーリングに行き、保母の資格をとったし、ヘルパーの資格もとった。仕事も、やりがいを持ってやってきたという。
それでも、どうしても好きな島に帰りたい。帰る前に会いたくてと来てくれました。

島に帰ったら、マグロの養殖場で働くんだと嬉しそうに話してくれる。
少しも変わっていなかった。
女らしくなって綺麗になっていたから、すぐに誰かは解らなかったけれど、話していると、昔の真摯で素朴なままだった。別れる間際まで笑顔のまま。当時の私が痩せてしまっていることを心配しながら帰っていきました。優しい子です。

大好きな島で幸せになってほしいと心から願わずにはいられませんでした。

そして、14年後、一昨々年に奄美大島を訪ねました。

奄美を離れて、工場で交替勤務しながら学ぶ女の子たちは他にもいました。
どの子も家族思いで、頑張りやで純粋で可愛い女の子たちでした。
きっと、青い空と海と澄んだ空気がこんな子を育てるのだろう。

一度、奄美に行ってみたい。そして、あの子たちが今どうしているのか?
いいお母さんになって幸せに暮らす姿を見てみたい。そう思ったのですが、会わずに帰ってきてしまいました。何故か、まだ幸せに暮らしていると思えなかったのです。

今の彼女はこの写真の私と同じ歳になっています。今度こそ、彼女が幸せに暮らす姿に会いに行こう。コロナ禍が去ったなら、奄美を訪ねようと思います。

事務機器の変遷とともに働いて

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 一九七二年(昭和四十七年)に大学を卒業。当時、女性の仕事は事務職中心でした。

就職活動の中で就職部主催の講習会でタイプライターに出会いました。それまでは部活の中でガリ版で原稿を切って謄写版で刷っていたので、何か特別な存在になれたような気がしたものでした。
早速、当時やっていた工学部の教授秘書のアルバイトで先生の英文の論文をポチポチと打っていました。

仕事についてしばらくは、手作業による事務処理が中心でした。伝票を起こし、帳簿は手書き、計算はソロバンでした。文書はタイプライターに入力。湿式コピー機が出始めていました。 

 三年後、結婚して、しばらくは子育てに専念し、一九八三年、社会復帰したのは繊維メーカーの総務部でした。
事務室はオフィスに様変わりして、オフィスコンピューターが主流となり、文書の処理は日本語ワープロでした。
早速、給与計算が主な仕事となり、オフコンの利便性にすっかり魅せられて、それを扱えることが楽しく思えたものでした。湿式は姿を消し、乾式コピー機となっていました。
ソロバンは二級、使いこなしていたので、いつまでも計算機と二刀流でした。

 バブルとともに、大きなオフコンはパーソナルコンピューター、パソコンにとって代わります。そこからは目まぐるしくオフィスは変わっていきました。
文書処理のソフトも「松」から「新松」に始まって、ある時期は「一太郎」そして「ワード」、計算ソフトも「ロータス123」から「エクセル」「アクセス」と、使いこなせるようになったと思ったら、また次のソフトに切り替わる。よくついていけたものです。

 FAXが登場し、電話も多機能になり、移動電話やポケベル、携帯電話、インターネット・・・、全部使いました。

 やがて、事務作業から採用や社員教育や社内カウンセラーのような業務が中心になっても、パソコンはなくてはならないアイテムになり、パワーポイントで仕事をすることが増え、HPにも必死で取り組むうちにインターネットは仕事の中心になっていました。

 二〇一〇年、定年退職するまで、どれだけの事務機器のお世話になったことでしょう。その変遷史をこの目で見て、この手で使って、ともに変わり続けてきました。そのことをこの写真が思い出させてくれました。

  ただ、これまで、便利になった分、ヒトとしての退化が始まっていたなと感じています。例えば、携帯電話を持つ前は、親戚や友人知人の電話番号は常に頭に入っていて、自在に使えたのに、覚える必要がなくなると、どんどん、忘れていっていませんか。
パソコンを使うようになって、漢字は読めても書けなくなっていることにも愕然としています。そしてちょっと困ったら、なんでもグーグル先生に聞いてしまって、調べたり、深めたり、広めたりするということがない。苦労して答えを出していないので、すぐにまた忘れてしまいませんか。 

 どうしようもなく依存してしまっている昨今、すでに、老性退化も始まっています。
老化防止のクイズとかしないでも、ここらで、辞書を引くとか、手紙を手書きするとかできることがあるような気がします。


 そろそろ、丁寧な暮らしにライフシフトする。できるところから始めるしかありませんね。

留学生たちに振袖を着せてあげたい!

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2002年1月12日、52歳になってすぐの頃
「留学生振袖の会」がスタートした日でした。
この会は、来年、コロナ禍がなければ、2021年で20回目となる予定でした。

その2年前、娘が通う桃山学院大学の学園祭、保護者の会の活動でバザーの会場には、500円のタオルセットを買うのに逡巡する台湾からの男子留学生の姿がありました。国の親への土産にするという。親孝行に免じて半額にしてあげるというと、やっと愁眉を開いた。日本の学生たちは、もう、500円を消費するのにこんなに悩むことはない時代なのに、聞けば、急激な円高が留学生たちの生活を直撃しているという。それが留学生たちとの出会いでした。

その後も、国で思っていたよりも厳しくて寂しいと言いながらも健気で真摯に学ぶ姿に触れる機会がありました。「日本の女の子のように成人式に振袖を着るのが憧れ」という。

日本で学ぶことを励まし、いい思い出になるのならばと「振袖を着せる会」を企画しました。家のタンスに眠っている振袖を持ち寄って、私たちで何とか着せてあげられないだろうか、喜ぶ顔だけを思い描いて、同じ年頃の娘を持つ身、わが子も、遠い国で学ぶことがあった親の立場からの個人ができる会の範囲で始めたのです。

ところが、多くの人や大学を動かすことになり、私にできるのかという不安の中、人の善意だけを頼りにスタートしました。

振袖が20組集まり、着付けのボランテア、写真撮影のボランテア、ヘアー担当の女子学生、初詣に案内するお父さんたちとどんどん協力者が集まりました。
学校側からは、チャペルの談話室を更衣室に使わせてくださいました。

当日、お天気までも応援してくれているかのようなぽかぽか天気。留学生たちは次々とかわいい姿に出来上がりました。

お母さんたちが持ち寄った手作りのお赤飯やおむすびで心づくしのお祝いをし、集合写真も撮りました。そこではまたも奇跡が起こりました。たまたま学長が通りかかって、記念写真に収まって下さいました。

留学生たちははしゃぎっぱなしの1日でした。みんなが「お母さんありがとうございました」と涙をいっぱい溜めて言ってくれました。こちらこそ、こんなに熱い思いにさせてくれたことにありがとう。

昔、親たちが娘へ贈った特別な思いの振袖を惜しげなく着せてくれたこと。単に美しい着物を着せてもらったのではなく、日本の親の娘を思う美しい心も一緒に着せてもらったことをお伝えしました。多くの無償の善意に出会えた奇跡の一日でした。

困難なこともたくさんありましたが忘れました。
それから7回を数えて、寄贈の振袖も充実し、モノも揃い、いろいろと整った形で現役の大学生の保護者のお母さま方に引き継ぎました。

今は継続を目的として組織化され、恒例化された華やかな会となり、始まりの思いがそのまま継続されることは難しくなりました。
けれど、毎年、あの頃の善意だけしかなかった思いをぶちまけたような自分の作った文面が恥ずかしげもなくそのまま残された案内が届くたびに、やり続けてくださっていることが有難いと思うばかりです。

2021年の会は中止になってしまいましたが、これまで一度も休みなく行われてきたこと続けられたことこそが奇跡だと思います。

多くの人の優しさに感謝しかありません。

 



 

人生の最終章の書き出しはニューヨークより愛を込めて~マンハッタンのアパートで

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2015年10月25日~11月2日
65歳の秋

その頃、岸見一郎さんの「嫌われる勇気」でちょっとしたアドラー心理学がブームになっていました。
だからというわけではありませんが、折しも、京都のお寺でディープな心理学を学び、一方で魔法の質問というコーチングを学んでいました。
その師匠のマツダミヒロさんが、ニューヨークの国連本部のナショナルスクールで日本語を学ぶ学生たちへマイストーリー絵本を作る授業をする。
そのアシスタントを募集していたので応募しました。

ニューヨークは、東京や大阪とは比べ物にならない巨大都市でした。
お気に入りのビルの前で着物で、その後に起こるハプニングも知らずにご機嫌で写って
います。
隣には白人女性が写っていますが、ここでは和服でいようが裸でいようが、誰も他人には無関心のようでした。

この日は、3時からのフォリートリニティ教会でのうしじまひろみさんとニューヨークの楽団の指揮者のレオナさんのトークショー、夕方からは現地日本人の方々とのパーティの予定でした。そのための和装でもあったのです。

旅は予想通りには行きません。午前中の目的は自由の女神像でしたが、人が多過ぎてフェリーには乗れませんでした。
そして、思わぬハプニングが起きてしまいます。

歩いているうちに、草履の底がぱっくりと外れてしまい、歩くたびにパクンパクンします。ここでは修理することも代替品もありません。応急処置として、足と草履をガムテープでぐるぐる巻きにしましたが、それはもう、歩き辛くて…。
それでも、マンハッタンを地下鉄とタクシーを乗り継いで、それでも歩く!
和草履は、歩くためにはできていない!くたくたでした。

パーティがはねても、仲間たちは2次会に繰り出しました。
私はもう限界!終了後、一人で地下鉄を乗り継いでアパートに帰りました。

私たちは6人で、短期滞在型アパートを6泊で借りていました。旅費を抑えるために格安のアパート、場所はダウンタウンに隣接するアッパータウン。

ダウンタウンに出る満月を見ながら、不安でパツンパツンになりながら、壊れた草履で足を引きずりながらアパートに到着。

ところが玄関扉の鍵が重すぎて開かない。通りがかりの黒人さんが見かねて、声をかけてくれて無事開錠。

その後も、足の長さに合わない階段を和服で5階まで上がって、部屋の鍵を開けようとするけれど・・・。どうにもこうにも開いてくれない。
怖い人が出てきたらとドキドキしながらも意を決して、隣の部屋のドアを叩いてSOSを告げる。恰幅のいい黒人女性が怖ーい顔をして出てきて、何だそんなこともできないのかとたぶん言っている。英語が分からなくてよかった。
拍子抜けするほど、簡単に開いて、大いに呆れられたよう。それでも嬉しくて、彼女に飛びついてハグしていた。また、呆れて笑われた。

この旅では、優しく係わってくれたのは、この辺りに住む黒人さんたち。

毎朝、朝起きの苦手なシエア仲間のために朝食を買いに行く私に「ENJOY!」と声をかけてくれました。

住めば都でした。すぐ近くにセントラルパークがあり、リスがかわいい姿を見せてくれました。

ニューヨークで一人行動できる自分に大いに満足していて、変にアドレナリンがドバっと出ている毎日でした。

何だか、人生はうまくいく!ノープログレム!

行く前には3つの壁がありました。
資金の壁・・・行くと決めたら、多くも少なくもないぴったりの金額で数か月分の仕事が決まりました。おかげで、老後の資金を切り崩さずに済みました。
語学力の壁・・・一人でケネディ空港までたどり着けるのか?一人でホテル暮らしができる語学力はない。それも、一緒に行動してくれる若い友人たち、シエア仲間のおかげで解消!実際に学生たちとのイベントでも授業でも、学生たちと一番おしゃべりしていたのは私だったらしい。しかも大阪弁でね!
メンタルの壁・・・これも仲間のおかげで何とかなった。全ては杞憂に終わった。

65歳、こんなにも面白い経験をすることができていた。
70代にはいって人生の新しい章が、また始まっている。

人生の最終章にもどんなドキドキを上回るワクワク感が待っているんだろう!
それは、楽しみでならない

誰かが叱ってくれるのを待っていた?

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 二〇一六年、五十六歳の冬が始まるころ

シニア大学の同窓会、といっても、九月に卒業したところ。
なのに、もうみんなお互いに逢いたくなっていた。
私が幹事をして名残の紅葉の京都を訪ね、美味しい和食の店で楽しんだ。

シニア大学の卒業は出席日数が危なくて、一日オーバーでギリギリセーフで修業。
修学旅行にも参加することができた。
級友たちには日数計算をしてもらったり、いろいろと心配をかけた。

会社時代に、定年退職したら
また大学で学びなおしたいという思いを抱いていた。
六十五歳で通い始めたけれど、明らかに時期尚早。
仕事に追われる毎日で、思うように出席ができなかった。
同時に、お寺でのディープな心理学の学びも併行してやっていた頃だった。

当時、私は、仕事がなくなることが怖かった。
自己重要感を仕事をすることで満たしていた。

その頃、新海誠監督による長編アニメーション映画「君の名は」が
空前のヒットをしていた。

「わたしの名は、ふじわらゆうこ」私は誰になりたいのか?
役割りを生きる日々にあって自分のアイデンティティに苦しんでいた。

そんな中で、シニア大学で文学・歴史を学ぶこと
シニアのお仲間と居ることが優しい時間となっていた。

その日、人生の先輩たちから、自分を大切にしなさいと叱られていた。
人を癒すあなたが、癒されていないってダメだろうと叱ってくれる人
ほらみなさいと優しく微笑んで見てくれている人
今でも、書いていると、目頭が熱くなる。
そして大きなものに包まれている感覚になる。

たった一年の繋がりなのに、半年ぶりに会ったのに、すっかり見抜かれている。

見抜いている人たちのことをすごいと思う。
余程の仕事をしてきた人なんだろうと想像できる。
いきなり天下国家を語りだすし
この場では些末な想い出話は始まらない。

その1週間前に、高校のクラスのOB会があった。
そこでの仲間も、会社の社長だった人やら
弁護士として日本の事件を扱ってきた人もいるという錚々たるメンバー
でも、話題は盛り上がらず
ここまで走ってきたツケがまわってきているのか
もれなく、病気や手術したとか、これから入院するとかと
暗い話題ばかり付いてくる。
元気なのはひとりだけで株で大儲けしたという。
何にせよみんな自分事しか語っていない。

つい、比べてしまった。
私たちは今はそんな時期なのでしょうか。
私たち団塊の世代危うし!

その十歳あたりは歳上の人たち
その歳で文学や歴史を学ぼうなんて人たちは
やはり違っているのだろう。
私たちの世代は、十歳あたりの歳下の人からはどう見られているのだろうか。

私は、十歳あたりも歳上の人たちが好きだ。
だから、本当は付き合いたくないと思う。
何故なら、早晩、お別れが来る。
それを思うと悲しいから付き合いたくないと思うほど、それぐらい好きだ。

そして、本当に十歳あたりも歳下の人たちが好きだと思う。
なんとかお役に立てないかと思ってしまう。

同世代は、懐かしい流行りの歌が同じだったりとか
とてもいいのだけれども
何かどこか違和感がある。
何がそこにあるのだろうか。
謎だった。

十歳ほど年下の友人に、そんな叱られた話をしたら、喜んでいる。
「私たちが言ってもどうせ聞かない。誰かが叱ってくれたらいいのにって思っていた」と来た。
その時は、叱られたかったのかもしれない。
誰かが叱ってくれるのを待っていたのかもしれない。

そんなセカンドステージから、今はサードステージへと移っていくところにいる。
今でも、お仕事は時々いただいている。
仕事は、これまで頑張ってきたことへのご褒美だと思える。

今が一番幸せだと思える日々を過ごしている。

そろそろ、あの方たちに会いたい。
皆さん、お元気でおられたらと心から思っている。

僕も非正規きみも非正規

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非正規歌人と言われた萩原慎一郎の歌集「滑走路」を読んで涙が止まらなかった。

キャリアカウンセラーの日々での苦い思い出が甦る。

「僕も非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる」
「非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ」
「箱詰めの社会の底で潰された蜜柑のごとき若者がいる」

2014年の春
先生だったら出来るでしょうという学校からの無茶ぶり
専門知識もないのに障がい者就業支援の講座を引き受ける羽目に・・・

それなりにできること
学びも加えながらなんとか支援を続けていましたが
これでいいのかと思うことが重なる日々でした。

講座生との信頼関係の構築だけはうまく行っているのだけが救いでした。
不思議なくらいにみんなが自己開示をしてくれる。

その時も、講座初日に講座生が話を聞いてほしいと・・・
「僕、薬物中毒なんです」
いきなりの自己開示だった。

事前に詳しい情報はいつもなかった。
状況が呑み込めずいると、いきなり下腹がキリキリと痛み出した。
この人は何に怒っているのだろうか。しかも激しい怒りらしい。
完全にその怒りを受け取っている。
受け取り体勢ができていないとそんなことがある。
それくらい自己開示がいきなりだった。
これはマズイ!
一端、場を離れて自分の立ち位置を確認して体勢を整えた。

彼は旋盤の仕事をしていた。そして腰を痛めた。
生活を維持するためには止めるわけにはいかなかった。
激痛を抑えるための痛み止めを常用していた。
そのために薬物依存となり、神経を病んでいった。
やがて、幻聴や幻視も現れるまでに至った。
強制的に矯正施設に収容されて、復帰するのには2年かかった。

社会復帰は、それ以上に厳しく、どこも雇ってくれなかった。
結局は前職に就くしかなかった。そして、腰痛は再発した。

また、薬に手を付けてしまったという自分への激しい怒りがあった。

今回、障害認定を受けて再就職支援を受けることにした。

薬を飲みながら訓練に通ってきていた。
これからどう生きたらいいのか・・・という。

受け皿は潰滅的にない。それがわかっている。
限られた制度の中でキャリアカウンセラーは無力だった。

彼だけではない。
この歌人のように
いじめから対人恐怖、非正規雇用からの解雇
いろいろな問題を抱えている人が講座を受けに来た。
私のできることはモチベーションを維持する手伝いしかできない。
全力で寄り添ったけれど、非力、無力だった。
無価値感に苛まされた。

就職先は決まらないうちに彼の訓練期間は終わった。

最後に謝るしかなかった。
「非力でごめんね」
「だけど、先生は最後までずっと向き合ってくれた」
人目をはばからずにハグをしてしまった。
彼は戸惑っていた。それでもとっさにそうしたくなって、そうした。

戸惑うはず・・・
親にも早くから見捨てられた
誰からもハグされた記憶もない・・・
薬物依存は中学時代、シンナー中毒から始まっていたのだから。

「キャリアカウンセラーって薄っぺらい仕事やな~、きれいごとだけ言っていたらええねんからな~」
と暴言を吐かれたこともある。
言われなくても分かっている。

しかも、キャリアカウンセラーだってほとんどが非正規
雇用弱者でそれで食える人はほぼいない。
非正規の悲哀はキャリアカウンセラーが嫌というほど知っているなんて皮肉です。

就職支援する側が足りているわけではないのに、満足な支援ができるわけがないですよね。

キャリアカウンセラーも
「非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ」

それでも、誰かがやらないといけない。
ならば、年金をもらいながらやっていける経験豊富なシニアしかいないだろうと思ってきました。
それで10年間やってきて、そして、まだやり続けるのでしょう。

構造から改革されない限り、雇用弱者に滑走路はないと感じています。

2017年、萩原慎太郎さんは32歳でこの世を去りました。
滑走路から飛び立って、滑走路に着陸することはありませんでした。
それでも、歌を精いっぱい詠み、生きた短い自分史でした。

その死を悼みます。

合掌

 

「・・・」は歌集「滑走路」の萩原さんの歌です。