私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

誰かが叱ってくれるのを待っていた?

 100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

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 二〇一六年、五十六歳の冬が始まるころ

シニア大学の同窓会、といっても、九月に卒業したところ。
なのに、もうみんなお互いに逢いたくなっていた。
私が幹事をして名残の紅葉の京都を訪ね、美味しい和食の店で楽しんだ。

シニア大学の卒業は出席日数が危なくて、一日オーバーでギリギリセーフで修業。
修学旅行にも参加することができた。
級友たちには日数計算をしてもらったり、いろいろと心配をかけた。

会社時代に、定年退職したら
また大学で学びなおしたいという思いを抱いていた。
六十五歳で通い始めたけれど、明らかに時期尚早。
仕事に追われる毎日で、思うように出席ができなかった。
同時に、お寺でのディープな心理学の学びも併行してやっていた頃だった。

当時、私は、仕事がなくなることが怖かった。
自己重要感を仕事をすることで満たしていた。

その頃、新海誠監督による長編アニメーション映画「君の名は」が
空前のヒットをしていた。

「わたしの名は、ふじわらゆうこ」私は誰になりたいのか?
役割りを生きる日々にあって自分のアイデンティティに苦しんでいた。

そんな中で、シニア大学で文学・歴史を学ぶこと
シニアのお仲間と居ることが優しい時間となっていた。

その日、人生の先輩たちから、自分を大切にしなさいと叱られていた。
人を癒すあなたが、癒されていないってダメだろうと叱ってくれる人
ほらみなさいと優しく微笑んで見てくれている人
今でも、書いていると、目頭が熱くなる。
そして大きなものに包まれている感覚になる。

たった一年の繋がりなのに、半年ぶりに会ったのに、すっかり見抜かれている。

見抜いている人たちのことをすごいと思う。
余程の仕事をしてきた人なんだろうと想像できる。
いきなり天下国家を語りだすし
この場では些末な想い出話は始まらない。

その1週間前に、高校のクラスのOB会があった。
そこでの仲間も、会社の社長だった人やら
弁護士として日本の事件を扱ってきた人もいるという錚々たるメンバー
でも、話題は盛り上がらず
ここまで走ってきたツケがまわってきているのか
もれなく、病気や手術したとか、これから入院するとかと
暗い話題ばかり付いてくる。
元気なのはひとりだけで株で大儲けしたという。
何にせよみんな自分事しか語っていない。

つい、比べてしまった。
私たちは今はそんな時期なのでしょうか。
私たち団塊の世代危うし!

その十歳あたりは歳上の人たち
その歳で文学や歴史を学ぼうなんて人たちは
やはり違っているのだろう。
私たちの世代は、十歳あたりの歳下の人からはどう見られているのだろうか。

私は、十歳あたりも歳上の人たちが好きだ。
だから、本当は付き合いたくないと思う。
何故なら、早晩、お別れが来る。
それを思うと悲しいから付き合いたくないと思うほど、それぐらい好きだ。

そして、本当に十歳あたりも歳下の人たちが好きだと思う。
なんとかお役に立てないかと思ってしまう。

同世代は、懐かしい流行りの歌が同じだったりとか
とてもいいのだけれども
何かどこか違和感がある。
何がそこにあるのだろうか。
謎だった。

十歳ほど年下の友人に、そんな叱られた話をしたら、喜んでいる。
「私たちが言ってもどうせ聞かない。誰かが叱ってくれたらいいのにって思っていた」と来た。
その時は、叱られたかったのかもしれない。
誰かが叱ってくれるのを待っていたのかもしれない。

そんなセカンドステージから、今はサードステージへと移っていくところにいる。
今でも、お仕事は時々いただいている。
仕事は、これまで頑張ってきたことへのご褒美だと思える。

今が一番幸せだと思える日々を過ごしている。

そろそろ、あの方たちに会いたい。
皆さん、お元気でおられたらと心から思っている。

僕も非正規きみも非正規

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非正規歌人と言われた萩原慎一郎の歌集「滑走路」を読んで涙が止まらなかった。

キャリアカウンセラーの日々での苦い思い出が甦る。

「僕も非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる」
「非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ」
「箱詰めの社会の底で潰された蜜柑のごとき若者がいる」

2014年の春
先生だったら出来るでしょうという学校からの無茶ぶり
専門知識もないのに障がい者就業支援の講座を引き受ける羽目に・・・

それなりにできること
学びも加えながらなんとか支援を続けていましたが
これでいいのかと思うことが重なる日々でした。

講座生との信頼関係の構築だけはうまく行っているのだけが救いでした。
不思議なくらいにみんなが自己開示をしてくれる。

その時も、講座初日に講座生が話を聞いてほしいと・・・
「僕、薬物中毒なんです」
いきなりの自己開示だった。

事前に詳しい情報はいつもなかった。
状況が呑み込めずいると、いきなり下腹がキリキリと痛み出した。
この人は何に怒っているのだろうか。しかも激しい怒りらしい。
完全にその怒りを受け取っている。
受け取り体勢ができていないとそんなことがある。
それくらい自己開示がいきなりだった。
これはマズイ!
一端、場を離れて自分の立ち位置を確認して体勢を整えた。

彼は旋盤の仕事をしていた。そして腰を痛めた。
生活を維持するためには止めるわけにはいかなかった。
激痛を抑えるための痛み止めを常用していた。
そのために薬物依存となり、神経を病んでいった。
やがて、幻聴や幻視も現れるまでに至った。
強制的に矯正施設に収容されて、復帰するのには2年かかった。

社会復帰は、それ以上に厳しく、どこも雇ってくれなかった。
結局は前職に就くしかなかった。そして、腰痛は再発した。

また、薬に手を付けてしまったという自分への激しい怒りがあった。

今回、障害認定を受けて再就職支援を受けることにした。

薬を飲みながら訓練に通ってきていた。
これからどう生きたらいいのか・・・という。

受け皿は潰滅的にない。それがわかっている。
限られた制度の中でキャリアカウンセラーは無力だった。

彼だけではない。
この歌人のように
いじめから対人恐怖、非正規雇用からの解雇
いろいろな問題を抱えている人が講座を受けに来た。
私のできることはモチベーションを維持する手伝いしかできない。
全力で寄り添ったけれど、非力、無力だった。
無価値感に苛まされた。

就職先は決まらないうちに彼の訓練期間は終わった。

最後に謝るしかなかった。
「非力でごめんね」
「だけど、先生は最後までずっと向き合ってくれた」
人目をはばからずにハグをしてしまった。
彼は戸惑っていた。それでもとっさにそうしたくなって、そうした。

戸惑うはず・・・
親にも早くから見捨てられた
誰からもハグされた記憶もない・・・
薬物依存は中学時代、シンナー中毒から始まっていたのだから。

「キャリアカウンセラーって薄っぺらい仕事やな~、きれいごとだけ言っていたらええねんからな~」
と暴言を吐かれたこともある。
言われなくても分かっている。

しかも、キャリアカウンセラーだってほとんどが非正規
雇用弱者でそれで食える人はほぼいない。
非正規の悲哀はキャリアカウンセラーが嫌というほど知っているなんて皮肉です。

就職支援する側が足りているわけではないのに、満足な支援ができるわけがないですよね。

キャリアカウンセラーも
「非正規という受け入れがたき現状を受け入れながら生きているのだ」

それでも、誰かがやらないといけない。
ならば、年金をもらいながらやっていける経験豊富なシニアしかいないだろうと思ってきました。
それで10年間やってきて、そして、まだやり続けるのでしょう。

構造から改革されない限り、雇用弱者に滑走路はないと感じています。

2017年、萩原慎太郎さんは32歳でこの世を去りました。
滑走路から飛び立って、滑走路に着陸することはありませんでした。
それでも、歌を精いっぱい詠み、生きた短い自分史でした。

その死を悼みます。

合掌

 

「・・・」は歌集「滑走路」の萩原さんの歌です。

大阪の商売人の娘やねんから

 100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

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1972年9月
倉敷の美観地区
父と22歳の私が写っているレアな写真。

まず私がミニスカートであること。
ヘアスタイルが珍しく短いこと。
父と二人で写っている。
ことなどがレアな理由である。

大体、父と二人でお出かけがなかった。
商売ばかりの仕事人間で日曜日でも働いていた。

と父にはラベルを貼っていた。
ところがそうでもない。
思い込みってすごいなあと思う。

意外に趣味人間で、家庭的な父親だったかもしれない。
よく、難波の大劇に連れていかれたり
その頃には珍しく、幼稚園の遠足の付き添いは父だった。
お正月は、必ず家族で温泉旅行だった。

いや、なかなかの子煩悩でそれなりの教育パパだったのでは・・・?
しかも、社会活動には積極的だった。
いろいろな役を引き受けることが好きだったし・・。

地元で商売をしているとPTAの役が回ってくる。
引き受けなかったので母がやっていた。

あれは、母からの刷り込みだったのか?
「お父さんは、家のことはみんな押し付ける。私は忙しいのに・・・」
今ならワンオペです!そう主張していた。

我が家のルールは厳しくて、父からの圧はずっと重く鬱陶しかった。

大学を決めるときも
立命館大学の日本文学と関西大学の国文学の両方受かっていても
立命に行くと優子は赤になる」
「大阪の商売人の娘やねんから関大がちょうどええ」
と言って、関大に入学金を納めた。
泣く泣く従うしかなかった。

何でも、先回りして決めてしまった。

当然、抵抗したから
「文学なんかやってる娘より、会社の女の子たちの方が余程かわいい」
そう言われた。
その言葉と商売人の娘やからは呪いのように私を縛った。

折しも時代は
浅間山荘事件が勃発し、学園紛争は一定の終焉を迎えた。
70年に20歳を迎えた。
大学は紛争に明け暮れた。
ロックアウトされて大学から放り出された。
コロナ時代とはまた違うが・・・
学生が大学に通えないのは似ている。

学生運動へと傾斜する心を親を泣かせなくて
ギリギリのところで踏み止まった。
そのことで自己否定していった。
それでも青春時代とは大したもの
キラキラは失われることはなかった。

就職活動をして友人たちと同じように新しい世界を夢見たけれど
親の会社では岡山支店を出す話が出ていて、結局はそこに行くようになった。

卒業が青春時代の終焉のように思っていた。
長かった髪を切った。
新しい道を歩き始めた友人たちを遠く感じた。
寂しかった。

仕事は父から学んだ。
周りの大人にとっては、私はただの青二才だった。
青二才とはいえ、考え方は父譲りだから、廻りと合うわけがなく、激しくぶつかった。
立場上、父は庇ってはくれなかった。

飛び出しても、思い切って行けるところはない。
帰って寝るしかなかった。

その夜は接待で弱い父がお酒を飲んで帰ってきた。
「帰ってきてくれてよかった」
親が死んでも泣かなかった人を私は泣かした。
寝たふりを通した。

岡山からは、苦い思い出を引きずって半年で帰ってきた。

たぶん、岡山を引き払うその前に
倉敷に行っていないなら、行こうということになった。
どちらが言い出したかは覚えていない。

そんな苦い思い出が浮かび上がる父と娘のツーショット!

この後、10年もしないうちに父は病に倒れ
そこから9年後、68歳で路上に倒れて、そのままに逝った。

何も聞けなかった。何も言っていないまま
未完了が残った。

結構おしゃれで、すべて背広は誂えだった。
ネクタイは問屋でアルバイトしていた私のチョイスだった。
それを褒められるのが一番嬉しそうだった。
休日もこの姿って笑えるけれど・・・。

正解のないのはあの時代も同じだった。
自分の子どもにあれぐらい自信をもってこうせよと言える。
戦争をくぐり抜けて生きてきた人はある意味すごいなぁと思う。

だから反抗した。私はあなたの部下ではないと・・・。

ところが、父があの過酷な戦場から帰還してくれたから
私がこうして生きている。
そのことは、ちゃんと繋ぐから。

本当はコンサートや旅行が好きだったのに
長生きしてたらできたのに
いろいろなところに一緒に行けたかもしれないのに・・・
いろいろしたいことがあっただろう。

できなかったことは私が代わりにいろいろと楽しむことにする。
お父さん、あなたが晩年、そうしたかったように。

生まれて初めての一人旅はバイクで黄金道路を走ることで始まった。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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1971年7月、21歳、大学4回生の夏休み

北海道旅行、襟裳岬にて灯台をバックにパチリ!
カメラマンとは3バカYHと言われた人気の宿、襟裳YHで出会った。
栃木のバイクで日本縦断中で、同じ日生まれの男子学生だった。

この上気した表情の原因は・・・。

北海道旅行は、部活の友人との二人旅計画。
大阪を寝台特急日本海で発った。

同じ部活の仲間の男子学生が
「就職が決まったから、オイラも連れてけ~」
青函連絡船を降りると待っていた。

そこから、しばらくは三人旅。
すぐに、かわいい女の子と仲良くなったオイラは
そちらに連いていってしまう。
旅の途中に何回かは現れるが、またすぐにどこかに行ってしまう。

札幌から西海岸を北上して、道東、道央へと
旅も後半を過ぎて襟裳に達していた。

私たちは友人とはいえ、普段はつかず離れずの関係だった。
それが旅にはちょうどよかった。
お互いにそれぞれの楽しみを優先しながら
伴に旅を続けたることができていたと今なら思える。

彼女に内定が出て、帰還命令が出てしまう。
旅を切り上げて帰阪することになった。

JR(その頃は国鉄)に向かうバスの人となるのを見送った。

岬に行くバスは1時間以上ない。
バス停の下に一人で座り込んだら
襲ってくるのは
私に内定はなかった、将来が見えずに迷っていた。
いやでも焦りだった。
しかも生まれて初めて一人旅になる不安だった。

ポツンと一人いる私はよほど心細い顔をしていたのだろう・・・。

髪はぼうぼう、無精ひげの天使から救いの手が伸ばされた。

バイクが停まって声をかけられた。

「乗る?」
「ウン!」

同じ日に同じ星の元に生まれた男子のバイクの後ろで
黄金道路を風を切って走った。
風がピューって鳴ってた。
バイクのモーター音、大地からの震動!
ほのかな体温・・・。
土産物屋から
「えりもの~春はぁ~あ、何もない春です~♪」
森進一の歌が流れてきていた。
夢のような時間だった。

私の中で何かが弾けた!

一人が怖くなくなった。
そこからの生涯初めての一人旅は最高の旅だった。

でも、よいこは決してマネしないでください。
怖いから、孫っこにはお勧めしない!
どんな怖い人か分からないから乗っちゃダメ!

いい時代だった。
女子二人、お金がないから、どこでも歩いた。
北海道は広大過ぎて歩くのは大変だった。
どれだけ、多くの人に助けてもらったかしれない。

野付半島で車に乗せて家で食事までさせてもらったこともあった。
熱を出した積丹半島でもお世話になった。

で、このお話をすると
皆さん、それで彼とはどうなったの?
何を期待しているのでしょうね・・・。

彼は日本縦断の旅の途上
九州を回って折り返して8月の終わりに大阪に寄った。
大阪城を案内して、お好み焼きをごちそうした。
美味しそうに食べる姿に違和感を感じていた。
私は、その頃にはすでに旅のマジックから解けていた。

北海道でギリギリの貧乏旅から帰って、すべて使い果たしていた。
大学は、安保闘争に引き続き、学費値上げ闘争でロックアウトされていたのをいいことに、アルバイトに明け暮れる日々だった。

台風が直撃する和歌山に向かうという。
とんでもないからと、両親が言って、我が家に泊めることになった。

早朝からのアルバイトに疲れていた私は早々と就寝しても
親たちは、彼が気に行ったらしく遅くまで相手していたらしい。

次の朝も、早朝のアルバイトに出掛けたので、母が朝食を食べさせて見送ってくれた。

しばらくして、彼の親から親あてにミカン箱いっぱいのかんぴょうが届いた。
どうするのこんなに…という量だった。

彼はエリートサラリーマンの道を歩んだらしい?
いや、そう思い込んだのかもしれない。

ということで、ご期待に添えることは何もなかった。

旅人同士の一期一会で終わった。

そう・・・
あれからも多くの出会いがあって、多くの別れがあった。
これからも、どんな出会いがあるのだろう・・・。
今、ここを大切にして生きたいと思う。

このお話からファンタジーロマンが書けたら徒然に書いてみようか
なかったことも創作なら可能だから・・・。

黄金道路を走る夢を見たいな…、あの日の自分に還って・・・。

あんな面白い一人旅はもう二度とできない・・・。 

 

浅くない縁を喜び会おう

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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1974年10月1日、24歳
福井県勝山市の父の生家の前で
父方のいとこたちとの集合写真です。

世界中でたった1枚の
最初で最後の写真となりました。

祖父の喜寿のお祝いに
私は着物で正装しているし
家の玄関には紅白の幕を張って
親戚、縁者で餅をついて長寿のお祝いをする。
田舎ではこういうイベントを大切にしていたらしい。
都会では、こういう様子は消えて久しい。
小野田寛郎さんが30年ぶりに救出された
まだ戦争が終わっていない人もいた。
ノストラダムスが人類滅亡を予言した1999年もすでに過ぎて
今や100年人生となりました。

その頃には考えもしなかった時代に生きている。

大阪の街で生活しているわたしには滅多にない経験だったのです。

父の生家は母の生家からまだ山に入った谷あいの集落だった。

こどものころはいつも休みになると
母の実家に兄弟で預けられた。
母方のいとこたちとは兄弟のように育った。

父方の実家は敷居が高かった。
というより、足が向かなかった。
平家の落人が暮らした隠れ里だけあって
草深く暗い家は子ども心に苦手に感じていた。

そのことに少し後ろめたく申し訳なく感じていたものでした。

そんな父の生家に逗留する機会が廻ってきたのがこの長寿のお祝い。
おじいちゃんが作ってくれたいとこたちと仲良くできるチャンス
案外楽しかったのです。

でも、すれ違ってしまった。
名前を忘れてしまってて、今、改めて思い出した。

もう、会うこともないのだろうか。
この7人には同じ血が流れているのになと・・・
今さら感じている。

昨年、母方の叔母の一周忌に寄ってみた。
住む人のいなくなった家だった。
まさに、更地になってほやほやだった。
ユンボの爪痕が鮮やかに残っていた。
その時は、父が守ってきた家が・・・
と思うと寂しさに襲われた。

そして、今は
朽ち果てるままにせずに
故郷の家をきちんと始末してくれた。
いとこたちには感謝の思いが湧いてくる。

家のそばを小さな流れがあって水車があった。
いつも水の音がして、少し湿っぽくて暗い家だった。
煙たかったのは囲炉裏があったから。
大きな柱時計があって時を告げた。
お墓が裏山にあって、草をかき分けて登った。

そんな思い出の中に、このいとこたちがいる、

それぞれに交わることがなくなっても
ただただ幸せを祈るばかり・・・。

彼岸で、また逢えたなら
浅くない縁を喜び会おうと思う。

 

 

黄は喜なり、空は藍いろ、生きねばならず

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

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2004年(平成16年)54歳の3月のこと
世間ではヨン様ブーム・・・
一瞬はまりそうになりましたが
それどころではない自分がいました。

その頃、母は特別養護老人施設で暮らしていました。
言いたいことがたくさんある施設でした。
施設が終の棲み家となる母が哀れで、在宅で看ることのできない自分の状況が情けなく後ろめたく苦い思いでいました。
 
認知症が進んで、喜びの感情を忘れたかのように母は笑うことがなくなっていました。
いつも不機嫌な顔をしていて、見るのが辛かった。
痛みを忘れるために自ら感情を手放したかのようでした。

その日も、施設を訪ねると切なくなってきて
人って何のために生まれてきたんだろうと泣けてしまいました。

一緒に尋ねた娘に叱られながら、気を取り直して散歩に連れ出しました。
施設は河川敷に沿ったのどかなところです。
土手に菜の花が咲いて、蒼い空とコントラストを描いています。

菜の花や、紅色の花がついたカラスノエンドウタンポポなどを摘みながら車椅子を押して歩きました。
 
気持ちのいい午後でした。
通りかかる人たちが、「こんにちは」と
母に、私たちに声を掛けてくださいました。
 
土手の上から、やんちゃそうな中学生が自転車を二人乗りして、転がるようにはしゃぎながら降りてきました。
あらあらと思いながら見ていましたが
「おばあちゃん!こんにちは!」って、大きな声を掛けてくれました。
そして、また、二人乗りして
「おばあちゃーん!ば~い!ば~い!」
とキャッキャ言いながら行きました。
母も、「バイバイ!」って嬉しそう!

爽やかな風が吹いていました。
母も散歩中、ちょうちょの歌を歌っていました。
数少ない楽しそうにしていた最期の想い出が甦ります。
 
夕陽の高速道路を帰っていると、カーラジオから「シクラメンのかおり」が流れてきました。
リスナーからのリクエストの文面が読まれます。
「亡くなった息子が好きだった歌です」
 
わたしは、少なくても母にこんな悲しみは味合わせていない。
それだけでもよかった。
娘とシクラメンのかおりを歌いながら泣きました。
一緒にいても遠くに感じる母を少し近くに感じる時間だったのです。

亡くなってからずっと、母の笑顔を思い出せないでいた。
ごめんなさいをずっと完了できずにいました。
親との関係で未完了を抱えていると、いろいろと不具合が出てきます。
それを完了させるのには数年かかりました。

カウンセラーとして、クライアントさんに親との未完了を完了させる
そのお手伝いをする場面が多くあります。
まだまだ、そのお役目があればやっていくね。母さん。
  
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと・・・。
出しそびれたはがきがありました。
菜の花を散歩したときの車椅子の母さんとそれを押す私の姿が写っている、
宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに、本文だけが書いていなかった。
あらためてお別れのハガキを書きあげて送りました。
その時の葉書の写真です。
 

ずっと待っていたよ~!生まれてきてくれてありがとう

 

 100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

 

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2015年6月20日、63歳

この頃は、大学生への就職支援が仕事の中心になっていました。
リーマンショック以前の高水準に戻している状況の中で仕事もしやすく
ラグビーワールドカップでの五郎丸のポーズが話題になったりと
社会全体がテンションの上がって比較的明るい状況にありました。

そんな日々、孫っ子は4歳を迎えました。
誕生日の前日にはユニバーサルスタジオで
たくさんのスタッフさんからお祝いされて
楽しい一日を過ごしました。

その次の日は誕生日、びっくり発言がありました。
「メイは4歳になって、やっと人間になったわ」
おもしろ過ぎます。

そして 、この日
胎内記憶を話し始めたのです。

急にお母さんに向かって
「メイはずっとずっとお母さんとパパを待ってたんやで
 なかなか来てくれなかったから、 ずっとエーンて泣いていたんやで〜
 で、気いついたら、あーちゃんのとこで寝てたねん」
(あーちゃんとは私のことで、里帰り出産したのです)
と、話し出して泣き出したのです。 

「エッ!何で?どうしたん」
とうろたえる娘…

もしやと思った私・・・聞いてみました。

 「どこで待ってたの?」

 そうしたら、なんと!こう答えたのです・・・。

「お母さんのお腹の中で・・・」

「そうなんや・・・、お母さんのお腹の中で産んでくれるのを待ってたんやね?」

「うん!あーちゃんのお腹にも行ったんやで~」

えっ!ということは…

あの時のもしかしたら、お空に帰ってしまった赤ちゃんなの?

「でも、メイちゃんはすぐにお空に帰ったよね・・・」

 「違うよ!お母さんのお腹に行ったんやで・・・。」

えっ!そんなこと?
でも思い当たる節はあったのです。
私は長男と長女の間に二人を流産しています。
その後、長女を身籠ったとき、不思議な夢を見ていました。
それは女の子の赤ちゃんを産む夢でした。
その赤ちゃんが、生まれてすぐ苦しみ出して
女の子の赤ちゃんを産む夢でした。
あの時の赤ちゃんが娘で
その赤ちゃんが生んだ赤ちゃんがメイだったということ?

その時からなら、メイはずいぶんと長い間
お腹の中で待っていたことになる・・・。
そりゃあ、長かったね・・・。
エーンてずっと泣いていたよね。

そのあとは三人で大号泣。

しばらくして不思議な話はしないようになりました。
聴いてもはぐらかすようになって答えようとしません。
自分からも話しません。

体内記憶を話す子どもたちがいることを
完全に信じているわけではありません。
でも、頭から否定することもできません。
四歳の子が作り話をしたのかもしれません。
それにしてもできた話です。 

私が生んであげることができなかった
赤ちゃんのことは、心に瘡蓋になって残っていました。 

どうしても生まれてきたかったんやね。
そんな命だったから、なおさら愛おしい。

あの子が話した胎内記憶に
私が一番救われているのかもしれません。

生まれてきてくれてありがとう。
いっぱい笑わしてくれてありがとう。
一緒に旅をしてくれてありがとう。
応援させてくれてありがとう。 

まだまだあるけれど
元気に育ってくれていることにありがとう。

そして、娘たちへ
メイを生んで育ててくれてありがとう。

9歳半になった今
一緒にできることがたくさん増えたことが嬉しい。

コロナ禍が過ぎたら、また旅育しよう。
人生で大切なことはあ~ちゃんとの旅で学んだ
そんな旅をしたい。

財産は残してやれないけれど、
いい想い出をたくさん残してやりたいと思う。
どれだけやれるか、一緒の時を楽しみますね。