私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

生まれて初めての一人旅はバイクで黄金道路を走ることで始まった。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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1971年7月、21歳、大学4回生の夏休み

北海道旅行、襟裳岬にて灯台をバックにパチリ!
カメラマンとは3バカYHと言われた人気の宿、襟裳YHで出会った。
栃木のバイクで日本縦断中で、同じ日生まれの男子学生だった。

この上気した表情の原因は・・・。

北海道旅行は、部活の友人との二人旅計画。
大阪を寝台特急日本海で発った。

同じ部活の仲間の男子学生が
「就職が決まったから、オイラも連れてけ~」
青函連絡船を降りると待っていた。

そこから、しばらくは三人旅。
すぐに、かわいい女の子と仲良くなったオイラは
そちらに連いていってしまう。
旅の途中に何回かは現れるが、またすぐにどこかに行ってしまう。

札幌から西海岸を北上して、道東、道央へと
旅も後半を過ぎて襟裳に達していた。

私たちは友人とはいえ、普段はつかず離れずの関係だった。
それが旅にはちょうどよかった。
お互いにそれぞれの楽しみを優先しながら
伴に旅を続けたることができていたと今なら思える。

彼女に内定が出て、帰還命令が出てしまう。
旅を切り上げて帰阪することになった。

JR(その頃は国鉄)に向かうバスの人となるのを見送った。

岬に行くバスは1時間以上ない。
バス停の下に一人で座り込んだら
襲ってくるのは
私に内定はなかった、将来が見えずに迷っていた。
いやでも焦りだった。
しかも生まれて初めて一人旅になる不安だった。

ポツンと一人いる私はよほど心細い顔をしていたのだろう・・・。

髪はぼうぼう、無精ひげの天使から救いの手が伸ばされた。

バイクが停まって声をかけられた。

「乗る?」
「ウン!」

同じ日に同じ星の元に生まれた男子のバイクの後ろで
黄金道路を風を切って走った。
風がピューって鳴ってた。
バイクのモーター音、大地からの震動!
ほのかな体温・・・。
土産物屋から
「えりもの~春はぁ~あ、何もない春です~♪」
森進一の歌が流れてきていた。
夢のような時間だった。

私の中で何かが弾けた!

一人が怖くなくなった。
そこからの生涯初めての一人旅は最高の旅だった。

でも、よいこは決してマネしないでください。
怖いから、孫っこにはお勧めしない!
どんな怖い人か分からないから乗っちゃダメ!

いい時代だった。
女子二人、お金がないから、どこでも歩いた。
北海道は広大過ぎて歩くのは大変だった。
どれだけ、多くの人に助けてもらったかしれない。

野付半島で車に乗せて家で食事までさせてもらったこともあった。
熱を出した積丹半島でもお世話になった。

で、このお話をすると
皆さん、それで彼とはどうなったの?
何を期待しているのでしょうね・・・。

彼は日本縦断の旅の途上
九州を回って折り返して8月の終わりに大阪に寄った。
大阪城を案内して、お好み焼きをごちそうした。
美味しそうに食べる姿に違和感を感じていた。
私は、その頃にはすでに旅のマジックから解けていた。

北海道でギリギリの貧乏旅から帰って、すべて使い果たしていた。
大学は、安保闘争に引き続き、学費値上げ闘争でロックアウトされていたのをいいことに、アルバイトに明け暮れる日々だった。

台風が直撃する和歌山に向かうという。
とんでもないからと、両親が言って、我が家に泊めることになった。

早朝からのアルバイトに疲れていた私は早々と就寝しても
親たちは、彼が気に行ったらしく遅くまで相手していたらしい。

次の朝も、早朝のアルバイトに出掛けたので、母が朝食を食べさせて見送ってくれた。

しばらくして、彼の親から親あてにミカン箱いっぱいのかんぴょうが届いた。
どうするのこんなに…という量だった。

彼はエリートサラリーマンの道を歩んだらしい?
いや、そう思い込んだのかもしれない。

ということで、ご期待に添えることは何もなかった。

旅人同士の一期一会で終わった。

そう・・・
あれからも多くの出会いがあって、多くの別れがあった。
これからも、どんな出会いがあるのだろう・・・。
今、ここを大切にして生きたいと思う。

このお話からファンタジーロマンが書けたら徒然に書いてみようか
なかったことも創作なら可能だから・・・。

黄金道路を走る夢を見たいな…、あの日の自分に還って・・・。

あんな面白い一人旅はもう二度とできない・・・。 

 

浅くない縁を喜び会おう

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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1974年10月1日、24歳
福井県勝山市の父の生家の前で
父方のいとこたちとの集合写真です。

世界中でたった1枚の
最初で最後の写真となりました。

祖父の喜寿のお祝いに
私は着物で正装しているし
家の玄関には紅白の幕を張って
親戚、縁者で餅をついて長寿のお祝いをする。
田舎ではこういうイベントを大切にしていたらしい。
都会では、こういう様子は消えて久しい。
小野田寛郎さんが30年ぶりに救出された
まだ戦争が終わっていない人もいた。
ノストラダムスが人類滅亡を予言した1999年もすでに過ぎて
今や100年人生となりました。

その頃には考えもしなかった時代に生きている。

大阪の街で生活しているわたしには滅多にない経験だったのです。

父の生家は母の生家からまだ山に入った谷あいの集落だった。

こどものころはいつも休みになると
母の実家に兄弟で預けられた。
母方のいとこたちとは兄弟のように育った。

父方の実家は敷居が高かった。
というより、足が向かなかった。
平家の落人が暮らした隠れ里だけあって
草深く暗い家は子ども心に苦手に感じていた。

そのことに少し後ろめたく申し訳なく感じていたものでした。

そんな父の生家に逗留する機会が廻ってきたのがこの長寿のお祝い。
おじいちゃんが作ってくれたいとこたちと仲良くできるチャンス
案外楽しかったのです。

でも、すれ違ってしまった。
名前を忘れてしまってて、今、改めて思い出した。

もう、会うこともないのだろうか。
この7人には同じ血が流れているのになと・・・
今さら感じている。

昨年、母方の叔母の一周忌に寄ってみた。
住む人のいなくなった家だった。
まさに、更地になってほやほやだった。
ユンボの爪痕が鮮やかに残っていた。
その時は、父が守ってきた家が・・・
と思うと寂しさに襲われた。

そして、今は
朽ち果てるままにせずに
故郷の家をきちんと始末してくれた。
いとこたちには感謝の思いが湧いてくる。

家のそばを小さな流れがあって水車があった。
いつも水の音がして、少し湿っぽくて暗い家だった。
煙たかったのは囲炉裏があったから。
大きな柱時計があって時を告げた。
お墓が裏山にあって、草をかき分けて登った。

そんな思い出の中に、このいとこたちがいる、

それぞれに交わることがなくなっても
ただただ幸せを祈るばかり・・・。

彼岸で、また逢えたなら
浅くない縁を喜び会おうと思う。

 

 

黄は喜なり、空は藍いろ、生きねばならず

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

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2004年(平成16年)54歳の3月のこと
世間ではヨン様ブーム・・・
一瞬はまりそうになりましたが
それどころではない自分がいました。

その頃、母は特別養護老人施設で暮らしていました。
言いたいことがたくさんある施設でした。
施設が終の棲み家となる母が哀れで、在宅で看ることのできない自分の状況が情けなく後ろめたく苦い思いでいました。
 
認知症が進んで、喜びの感情を忘れたかのように母は笑うことがなくなっていました。
いつも不機嫌な顔をしていて、見るのが辛かった。
痛みを忘れるために自ら感情を手放したかのようでした。

その日も、施設を訪ねると切なくなってきて
人って何のために生まれてきたんだろうと泣けてしまいました。

一緒に尋ねた娘に叱られながら、気を取り直して散歩に連れ出しました。
施設は河川敷に沿ったのどかなところです。
土手に菜の花が咲いて、蒼い空とコントラストを描いています。

菜の花や、紅色の花がついたカラスノエンドウタンポポなどを摘みながら車椅子を押して歩きました。
 
気持ちのいい午後でした。
通りかかる人たちが、「こんにちは」と
母に、私たちに声を掛けてくださいました。
 
土手の上から、やんちゃそうな中学生が自転車を二人乗りして、転がるようにはしゃぎながら降りてきました。
あらあらと思いながら見ていましたが
「おばあちゃん!こんにちは!」って、大きな声を掛けてくれました。
そして、また、二人乗りして
「おばあちゃーん!ば~い!ば~い!」
とキャッキャ言いながら行きました。
母も、「バイバイ!」って嬉しそう!

爽やかな風が吹いていました。
母も散歩中、ちょうちょの歌を歌っていました。
数少ない楽しそうにしていた最期の想い出が甦ります。
 
夕陽の高速道路を帰っていると、カーラジオから「シクラメンのかおり」が流れてきました。
リスナーからのリクエストの文面が読まれます。
「亡くなった息子が好きだった歌です」
 
わたしは、少なくても母にこんな悲しみは味合わせていない。
それだけでもよかった。
娘とシクラメンのかおりを歌いながら泣きました。
一緒にいても遠くに感じる母を少し近くに感じる時間だったのです。

亡くなってからずっと、母の笑顔を思い出せないでいた。
ごめんなさいをずっと完了できずにいました。
親との関係で未完了を抱えていると、いろいろと不具合が出てきます。
それを完了させるのには数年かかりました。

カウンセラーとして、クライアントさんに親との未完了を完了させる
そのお手伝いをする場面が多くあります。
まだまだ、そのお役目があればやっていくね。母さん。
  
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと・・・。
出しそびれたはがきがありました。
菜の花を散歩したときの車椅子の母さんとそれを押す私の姿が写っている、
宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに、本文だけが書いていなかった。
あらためてお別れのハガキを書きあげて送りました。
その時の葉書の写真です。
 

ずっと待っていたよ~!生まれてきてくれてありがとう

 

 100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

 

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2015年6月20日、63歳

この頃は、大学生への就職支援が仕事の中心になっていました。
リーマンショック以前の高水準に戻している状況の中で仕事もしやすく
ラグビーワールドカップでの五郎丸のポーズが話題になったりと
社会全体がテンションの上がって比較的明るい状況にありました。

そんな日々、孫っ子は4歳を迎えました。
誕生日の前日にはユニバーサルスタジオで
たくさんのスタッフさんからお祝いされて
楽しい一日を過ごしました。

その次の日は誕生日、びっくり発言がありました。
「メイは4歳になって、やっと人間になったわ」
おもしろ過ぎます。

そして 、この日
胎内記憶を話し始めたのです。

急にお母さんに向かって
「メイはずっとずっとお母さんとパパを待ってたんやで
 なかなか来てくれなかったから、 ずっとエーンて泣いていたんやで〜
 で、気いついたら、あーちゃんのとこで寝てたねん」
(あーちゃんとは私のことで、里帰り出産したのです)
と、話し出して泣き出したのです。 

「エッ!何で?どうしたん」
とうろたえる娘…

もしやと思った私・・・聞いてみました。

 「どこで待ってたの?」

 そうしたら、なんと!こう答えたのです・・・。

「お母さんのお腹の中で・・・」

「そうなんや・・・、お母さんのお腹の中で産んでくれるのを待ってたんやね?」

「うん!あーちゃんのお腹にも行ったんやで~」

えっ!ということは…

あの時のもしかしたら、お空に帰ってしまった赤ちゃんなの?

「でも、メイちゃんはすぐにお空に帰ったよね・・・」

 「違うよ!お母さんのお腹に行ったんやで・・・。」

えっ!そんなこと?
でも思い当たる節はあったのです。
私は長男と長女の間に二人を流産しています。
その後、長女を身籠ったとき、不思議な夢を見ていました。
それは女の子の赤ちゃんを産む夢でした。
その赤ちゃんが、生まれてすぐ苦しみ出して
女の子の赤ちゃんを産む夢でした。
あの時の赤ちゃんが娘で
その赤ちゃんが生んだ赤ちゃんがメイだったということ?

その時からなら、メイはずいぶんと長い間
お腹の中で待っていたことになる・・・。
そりゃあ、長かったね・・・。
エーンてずっと泣いていたよね。

そのあとは三人で大号泣。

しばらくして不思議な話はしないようになりました。
聴いてもはぐらかすようになって答えようとしません。
自分からも話しません。

体内記憶を話す子どもたちがいることを
完全に信じているわけではありません。
でも、頭から否定することもできません。
四歳の子が作り話をしたのかもしれません。
それにしてもできた話です。 

私が生んであげることができなかった
赤ちゃんのことは、心に瘡蓋になって残っていました。 

どうしても生まれてきたかったんやね。
そんな命だったから、なおさら愛おしい。

あの子が話した胎内記憶に
私が一番救われているのかもしれません。

生まれてきてくれてありがとう。
いっぱい笑わしてくれてありがとう。
一緒に旅をしてくれてありがとう。
応援させてくれてありがとう。 

まだまだあるけれど
元気に育ってくれていることにありがとう。

そして、娘たちへ
メイを生んで育ててくれてありがとう。

9歳半になった今
一緒にできることがたくさん増えたことが嬉しい。

コロナ禍が過ぎたら、また旅育しよう。
人生で大切なことはあ~ちゃんとの旅で学んだ
そんな旅をしたい。

財産は残してやれないけれど、
いい想い出をたくさん残してやりたいと思う。
どれだけやれるか、一緒の時を楽しみますね。

 
 
 

桃と入院と涙と花火

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

 

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1960年(昭和35年)10歳。

私は、夏休みの始まる前日に救急車で大阪市立桃山病院に運ばれて
隔離病棟にいた。
そして、夏休みの終わる前日に退院した。
病名は細菌性疫痢。
疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型
短期間に死に至るおそれのある疾患ですが、最近はほとんど聞きません。

症状の出る前日は
結核の療養所にいる伯父のところに行く途中
天王寺にあるデパートで桃を見舞いに買っていきました。
それを、母も妹、弟も食べたのに・・・
診断ではその桃が犯人で、私だけがその菌にやられたらしい。

どんな症状だったかは覚えていないのに
覚えているのは
一人で救急車の中から、学校に向かう同級生の姿や
入院の簡単な手続きを自分でやったこと。

親は付き添えなかったのかどうかは今となっては不明。
保険所がやってきて、家中を消毒したり
感染を止めることに大わらわ。
小学校の4年生の私は一人で入院する不安よりも
迷惑をかけてごめんなさいが勝っていた。

退院の時は、父が迎えに来て
オート三輪の荷台に乗せてもらって帰った。

同じ病室にいた同じ年と2つ下の子も一緒に退院した。

入院してから、2週間ほどで元気になったけれど
菌はいつまでも出て、退院できなかった。

昼間は、この三人で元気が余って走り回り
かんごふさんに叱られた。いつも叱られていた。
どのかんごふさんもこわかった。

隔離病棟なので家族が付き添いできない。
1960年、その頃はつきそいさんと呼ばれる人がいた。
写真に一緒に写っているのがその人で
人見知りだった私が甘えるように体を寄せてせている。
それにしても、何で私は浴衣を着ているんだろう・・・。
まあ、いいとして・・・。

私たちは子どもだった。
昼間は元気でも、夜になると寂しかった。

2年生の子は隣のベットで毎晩しくしく泣いた。
泣き出すと、もう一人も泣き出した。

つきそいさんは、二年生の子が寝てしまうまで
ベットに入って背中をトントンしていた。

両隣が泣きだすと、私もわんわん泣きたくなるので
「おしっこ」と言って、屋上に上がって
家の方だと思ってる方面を見て少しだけ泣いてから戻った。
どこかでお祭りらしい。花火が上がっていた。

病院の人は、ほとんど怖い人ばかりだった。
つきそいさんも結構、厳しい人だった。
はしゃぎ過ぎた後は、よく熱が出た。
そういう時は、こっぴどく叱られた。
でも、こわくなかった。

一番、悲しかったこと。
菌が出なくなって、家族の夜の付き添い許可が出た日があった。
母が来てくれるはずだった。

でも、来たのは田舎の伯母さんだった。

結核の叔父が片肺を取る大手術があるので付き添いがいる。
手が足りないこともあり、田舎から伯母に手伝いにきてもらっていた。
その日だけは叔父に付き添ってもらうことになって
母は私のところに来るはずだった。

伯母は、慣れない都会で、しかも普段から叔父とは接点がなく
そんな病人に付き添う自信がないから、ゆーちゃんの方に行く方が気楽やから
代わってもらったとこともなげに言う。
そして、伯母はベットで一緒に寝てくれたけれど・・・
10歳の子どもの気持ちも、母親の思いも分からないのはどうかと今なら思う。
いい人なんだけど、全く気が利かない人だったようです。

わたしは、あの時、母に来てほしかったと言えずにいました。
とうとう最期まであの時は悲しかったと伝えず母を送りました。

そんな親との関係が原型となり
人との関係も同じパターンを繰り返している。

だからといって
誰も責めることはできない。もちろん自分自身に対しても。

戦争から立ち上がって15年。60年安保闘争の年。
大人たちは、自分のチカラで日々を生活すること
家族を養うことだけに一生懸命だった。
子どももそれに倣うしかなかった。

子どもだってそれなりに自立するしかなかった。

そんな時代だった。

今、コロナショックのこの時代
何が大切で、どうするべきかを自分以外に求めすぎてやしませんかと思う。

行政のことを信頼していないくせに、自粛するかどうかを行政で決めるべきだとか・・・
どう暮らすかは自分で決めるしかないのに・・・
いい加減に自立しませんか~と思ったのは私だけでしょうか。

ところで、70歳の私、高齢者として自覚・自立しているか?
自分のことができなくなった時の準備はできているか?
問いかけてみる。

あの頃のゆうちゃんに恥ずかしくない
そんな高齢者でありたいと思っている。

 

その他の画像

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かわいい子には旅を!

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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2003年(平成15年)53歳 
桜が開花したというニュースを聞いて高知にいくことに。
竜馬の足跡とよさこい踊りも観たいよね・・・。

当時大学4年の22歳、落ち込んでいる娘の感傷旅行に。
春のお彼岸に青春18きっぷで家を飛び出しました。

旅の3日目の朝、愛媛県北条水軍YHの前で
一期一会で出会った人たちと旅立ちの記念写真を撮っています。

1日目、私たちは高知に向かっていました。
瀬戸内ライナーで海を渡っている時になって
時刻表をどう見てもその日のうちには高知には行けないと発覚。
急遽、行き先を変えて道後を目指すのですが・・・
焦って変な駅で降りたり、乗る電車を間違えてはぐれたり
道後どころか、伊予北条までしか行けなかったのです。

同じ宿に2泊することになったのですが
そこは学生の旅人の宿、お遍路の人達の常宿になっていました。
海岸ではしゃぐ声、同じ世代と楽しそうに話すあの娘の笑い声を
久しぶりに聞きました。

1月、卒業を前に結婚を約束していた彼に裏切られて
拒食症を病み、大切な卒業試験もしくじり留年。
3月、超氷河期で苦労して勝ち取った内定も手離すことになって
いろいろと梯子が外されて、笑えなくなっていました。

高校時代からずっと武道の部活漬け

大学では全日準優勝の少林寺拳法の拳士。

部活に明け暮れて、自由な学生の旅はしたことがない。

この連休に、母親としてしてやれることはないのか・・・
ならば、自分が学生時代に覚えた気儘な旅の喜びを教えてやろう。

久しぶりにあの子が笑っていました。
上出来です!

3日目がもっと凄い!
しまなみ海道をママチャリ3段変速で
尾道目指して3時間走りました。
風を切って颯爽と走ったと言いたいのですが
橋の前後にある高低差に泣かされます。
あの子はマウンテンバイクでどんどん飛ばします。

下りをスピードを出して、その勢いで上がってしまいたい。
そのまま行きたいところ、降りたところで
おばあちゃんが、笑いかけてくださってる。
仕方なくブレーキをかけたら
「手を出して」
なんとエプロンのポケットから飴玉を出して、ほらと言ってくださる。
「先に行ったのは、あんたのお連れさんか?」
「はい。娘です」
そんならと言って反対のポケットから飴玉を出して、また下さった。

嬉しくて勢いがついた。
すごいスピードで上がったらしい。
娘があきれて
「どうしたん?バテてたんちゃうの?」
「いま、あそこでおばあちゃんいてはったやろ。飴くれはったよ。あんたの分も!」

どうやら、おばあちゃんは私たちが自転車遍路していると思われたようです。
四国のお接待の文化のことを説明すると
「おかあさん、人から情けを受けるのってこんなに嬉しいんやなぁ・・・」
飴を見詰めて優しい表情で微笑んでいる。

人の情けが、身に染みたんやね!

連れて出てよかった。
明日からは筋肉痛だろうけれど・・・。

四国は、やはりお遍路するところです。
感傷旅行をお遍路の四国にしてよかった。

その次の春から、動機が不純ですが
「人の情け」が欲しくて歩き遍路区切り打ちを始めました。

1回目は娘も一緒です。親子遍路はとにかく歩きながら話す。
ずーっとなんか喋っていました。貴重な時間でした。

娘は就職超氷河期に2年にわたって就職活動をすることになっても
元の逞しさを取り戻し、不利な立場でもしっかりと内定を受け
その頑張りは職場でも発揮できたようです。

秋からは司馬遼太郎さんの本を片手に一人旅に出るようになりました。
一人でかの宿にも立ち寄り
新たな友を増やしていました。

旅は、人を育てます。
ロストジェネレーションと呼ばれる世代にあって
どっこいしぶとい!

今は仕事も子育てもと頑張っています。

かわいい子には旅をさせろ
昔の人の教えはよく言ったものです。

私はと言えば、今も一人で春のお彼岸の歩き遍路を続けています。

あれから18年も経ったのに、88ケ所のうちまだ33カ所残しています。
今年はコロナショックでお遍路できていません。
早くしないと脚力、体力、気力、経済力が怪しくなっています。

人は、流離う・・・
流離ってさすらって、初めて平安を得る。

どうですか?
ご一緒にお遍路しませんか?

出版大作戦でサードライフが走り出した。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

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2018年(平成30年)11月、令和前年のこと
所属している協会の大会という目的で上京に合わせて
埼玉県の小川町にある国立女性会館ヌェックでの出版作戦合宿しました。

自撮りで撮ったのはにわきみこさん、はにたんと私。

 出版大作戦合宿は、プロの編集者でライターさんで
実際に本も4冊出版しているはにわきみこさんの出版応援講座
モニター参加を無理にお願いして
前倒しで合宿で開催していただきました。

美味しい食事をいただきながら、露天風呂に入りながら
編集者からインタビューを受ける。
夜っぴて語って語って、あれやこれやで話はつきません。
プロのお話を伺っているだけでどんどん気付いていく。明らかになっていく。
贅沢この上なしです。

秋の深まりつつある武蔵嵐山にある国立女性教育会館
少し辺鄙なところですが
合宿セミナーならリーズナブルだし、最高に素敵な場所でした。

ここ数年、そろそろ自分にしかできないことをしないと
タイムオーバーしそうだと感じている。

学生への支援に気持ちも時間も費やしている現状では難しい。
ついに機は熟した。だが、どうやったらいいのか分からない。

手をつけられないままに1年が過ぎました。
いつまでたっても手渡しは進まず。
したいこともできないずっと暗中にいました。
救世主は身近にいるのは分かっている。コンタクトも十分にできている。
それなのに、プロだしと遠慮していた。

未知の世界に向かう足が引けていたのが 
はにたんに東京に来た時に出版のための合宿しようよと
呼びかけられて実現します。

企画会議では前段階の準備はできていたので
プロの編集者のワザのおかげでゴール設定まで一気に進みました。

ホワイトボードには叶えたい3つのテーマが掲げられている。
何を電子出版するか?学生へ➞設計図から目次完成!の文字が躍る。
父と戦争の物語は設計図はできている。
3番目の母との約束の「しつもんキッズマナー絵本とテキスト本」は
隠れてるところをみると、どうも、これはずっと後の課題らしい。

はにたんは丁寧に自分事のように導いてくれるけれど
決して甘やかしてはくれませんでした。
助言はくれても、実際に真っ赤に赤を入れてくれたのは前書きの2校まででした。
後は自分のチカラでできるまで待ってくれるだけです。
待ってはくれますが、手は出しません。

それがよかったのは、そのあとは自分でやれる。
そのことが、たくさんの可能性を生み出しました。

もともと、就職面接支援の講座や相談業務での学生へのフィードバックを
一人にではなく、他の学生たちにも伝えたい。
就活だけではなく、働いてから必要になることをブログで書き溜めていた。
それをまとめて電子出版して置いておいたら
いつでも、必要な時に、必要な人に受け取ってもらえる。

学生たちはいろいろ分からないことだらけ。一生懸命食いついてくる。
質問に答え続けてきたことを書けばいい。
その答えを引き出すためにしてきた質問を書けばいい。
あっという間にまとまりました。

その後、合宿第二弾、クリエイティブ合宿も経て、
ずっとずっと温めてきたテーマがプロの伴走でやっとやっと走り始めます。

「就職活動は成長のチャンス!仕事と人生を考える質問面接対策講座」150ページ
2019年3月28日にキンドルから電子書籍として販売を開始しました。

これまで、培ってきた大切なものを手放すのではなくて手渡していく。
これまで大切に培ってきたものを手渡していける。
誰かの援けがあるからできたことでした。有り難いことです。

私の人生は出版によって変わりました。

昨年の3月に電子出版してからは
それまではやりたくてもできなかったことを
今はどんどんやり続けています。

月3回主催しているしつもん読書会はもう道楽と言って憚らない。
読書会で質問し続けたことで、変容には拍車がかかります。
結果、出版に繋がったのです。

読書サークルというコミュニティを得て
同人誌「ツナグ」は5号まで電子出版。

思いもしなかった「短歌集さくら追い」に始まって
インスタ短歌365日から
毎月、まとめてキンドルから出版。
4月から始まって8月で5冊になりました。
これは、まさに私の40代から現在に至る半生の自分史に他なりません。

毎日が楽しく充実しています。
そして、まだまだ変わりそうです。

100人と書く一枚の自分史プロジェクトも走り出しました。
10月には「100人と書く一枚の自分史マガジン」1号も出す予定です。

やりたいことが多くて、相変わらず忙しい毎日ですが
あれから、私は最高の日々を過ごしています。

 

ほかの画像:

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