私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

ずっと待っていたよ~!生まれてきてくれてありがとう

 

 100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト 

 

f:id:teinei-life:20201013173927j:plain

2015年6月20日、63歳

この頃は、大学生への就職支援が仕事の中心になっていました。
リーマンショック以前の高水準に戻している状況の中で仕事もしやすく
ラグビーワールドカップでの五郎丸のポーズが話題になったりと
社会全体がテンションの上がって比較的明るい状況にありました。

そんな日々、孫っ子は4歳を迎えました。
誕生日の前日にはユニバーサルスタジオで
たくさんのスタッフさんからお祝いされて
楽しい一日を過ごしました。

その次の日は誕生日、びっくり発言がありました。
「メイは4歳になって、やっと人間になったわ」
おもしろ過ぎます。

そして 、この日
胎内記憶を話し始めたのです。

急にお母さんに向かって
「メイはずっとずっとお母さんとパパを待ってたんやで
 なかなか来てくれなかったから、 ずっとエーンて泣いていたんやで〜
 で、気いついたら、あーちゃんのとこで寝てたねん」
(あーちゃんとは私のことで、里帰り出産したのです)
と、話し出して泣き出したのです。 

「エッ!何で?どうしたん」
とうろたえる娘…

もしやと思った私・・・聞いてみました。

 「どこで待ってたの?」

 そうしたら、なんと!こう答えたのです・・・。

「お母さんのお腹の中で・・・」

「そうなんや・・・、お母さんのお腹の中で産んでくれるのを待ってたんやね?」

「うん!あーちゃんのお腹にも行ったんやで~」

えっ!ということは…

あの時のもしかしたら、お空に帰ってしまった赤ちゃんなの?

「でも、メイちゃんはすぐにお空に帰ったよね・・・」

 「違うよ!お母さんのお腹に行ったんやで・・・。」

えっ!そんなこと?
でも思い当たる節はあったのです。
私は長男と長女の間に二人を流産しています。
その後、長女を身籠ったとき、不思議な夢を見ていました。
それは女の子の赤ちゃんを産む夢でした。
その赤ちゃんが、生まれてすぐ苦しみ出して
女の子の赤ちゃんを産む夢でした。
あの時の赤ちゃんが娘で
その赤ちゃんが生んだ赤ちゃんがメイだったということ?

その時からなら、メイはずいぶんと長い間
お腹の中で待っていたことになる・・・。
そりゃあ、長かったね・・・。
エーンてずっと泣いていたよね。

そのあとは三人で大号泣。

しばらくして不思議な話はしないようになりました。
聴いてもはぐらかすようになって答えようとしません。
自分からも話しません。

体内記憶を話す子どもたちがいることを
完全に信じているわけではありません。
でも、頭から否定することもできません。
四歳の子が作り話をしたのかもしれません。
それにしてもできた話です。 

私が生んであげることができなかった
赤ちゃんのことは、心に瘡蓋になって残っていました。 

どうしても生まれてきたかったんやね。
そんな命だったから、なおさら愛おしい。

あの子が話した胎内記憶に
私が一番救われているのかもしれません。

生まれてきてくれてありがとう。
いっぱい笑わしてくれてありがとう。
一緒に旅をしてくれてありがとう。
応援させてくれてありがとう。 

まだまだあるけれど
元気に育ってくれていることにありがとう。

そして、娘たちへ
メイを生んで育ててくれてありがとう。

9歳半になった今
一緒にできることがたくさん増えたことが嬉しい。

コロナ禍が過ぎたら、また旅育しよう。
人生で大切なことはあ~ちゃんとの旅で学んだ
そんな旅をしたい。

財産は残してやれないけれど、
いい想い出をたくさん残してやりたいと思う。
どれだけやれるか、一緒の時を楽しみますね。

 
 
 

桃と入院と涙と花火

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

 

f:id:teinei-life:20200929085247j:plain

1960年(昭和35年)10歳。

私は、夏休みの始まる前日に救急車で大阪市立桃山病院に運ばれて
隔離病棟にいた。
そして、夏休みの終わる前日に退院した。
病名は細菌性疫痢。
疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型
短期間に死に至るおそれのある疾患ですが、最近はほとんど聞きません。

症状の出る前日は
結核の療養所にいる伯父のところに行く途中
天王寺にあるデパートで桃を見舞いに買っていきました。
それを、母も妹、弟も食べたのに・・・
診断ではその桃が犯人で、私だけがその菌にやられたらしい。

どんな症状だったかは覚えていないのに
覚えているのは
一人で救急車の中から、学校に向かう同級生の姿や
入院の簡単な手続きを自分でやったこと。

親は付き添えなかったのかどうかは今となっては不明。
保険所がやってきて、家中を消毒したり
感染を止めることに大わらわ。
小学校の4年生の私は一人で入院する不安よりも
迷惑をかけてごめんなさいが勝っていた。

退院の時は、父が迎えに来て
オート三輪の荷台に乗せてもらって帰った。

同じ病室にいた同じ年と2つ下の子も一緒に退院した。

入院してから、2週間ほどで元気になったけれど
菌はいつまでも出て、退院できなかった。

昼間は、この三人で元気が余って走り回り
かんごふさんに叱られた。いつも叱られていた。
どのかんごふさんもこわかった。

隔離病棟なので家族が付き添いできない。
1960年、その頃はつきそいさんと呼ばれる人がいた。
写真に一緒に写っているのがその人で
人見知りだった私が甘えるように体を寄せてせている。
それにしても、何で私は浴衣を着ているんだろう・・・。
まあ、いいとして・・・。

私たちは子どもだった。
昼間は元気でも、夜になると寂しかった。

2年生の子は隣のベットで毎晩しくしく泣いた。
泣き出すと、もう一人も泣き出した。

つきそいさんは、二年生の子が寝てしまうまで
ベットに入って背中をトントンしていた。

両隣が泣きだすと、私もわんわん泣きたくなるので
「おしっこ」と言って、屋上に上がって
家の方だと思ってる方面を見て少しだけ泣いてから戻った。
どこかでお祭りらしい。花火が上がっていた。

病院の人は、ほとんど怖い人ばかりだった。
つきそいさんも結構、厳しい人だった。
はしゃぎ過ぎた後は、よく熱が出た。
そういう時は、こっぴどく叱られた。
でも、こわくなかった。

一番、悲しかったこと。
菌が出なくなって、家族の夜の付き添い許可が出た日があった。
母が来てくれるはずだった。

でも、来たのは田舎の伯母さんだった。

結核の叔父が片肺を取る大手術があるので付き添いがいる。
手が足りないこともあり、田舎から伯母に手伝いにきてもらっていた。
その日だけは叔父に付き添ってもらうことになって
母は私のところに来るはずだった。

伯母は、慣れない都会で、しかも普段から叔父とは接点がなく
そんな病人に付き添う自信がないから、ゆーちゃんの方に行く方が気楽やから
代わってもらったとこともなげに言う。
そして、伯母はベットで一緒に寝てくれたけれど・・・
10歳の子どもの気持ちも、母親の思いも分からないのはどうかと今なら思う。
いい人なんだけど、全く気が利かない人だったようです。

わたしは、あの時、母に来てほしかったと言えずにいました。
とうとう最期まであの時は悲しかったと伝えず母を送りました。

そんな親との関係が原型となり
人との関係も同じパターンを繰り返している。

だからといって
誰も責めることはできない。もちろん自分自身に対しても。

戦争から立ち上がって15年。60年安保闘争の年。
大人たちは、自分のチカラで日々を生活すること
家族を養うことだけに一生懸命だった。
子どももそれに倣うしかなかった。

子どもだってそれなりに自立するしかなかった。

そんな時代だった。

今、コロナショックのこの時代
何が大切で、どうするべきかを自分以外に求めすぎてやしませんかと思う。

行政のことを信頼していないくせに、自粛するかどうかを行政で決めるべきだとか・・・
どう暮らすかは自分で決めるしかないのに・・・
いい加減に自立しませんか~と思ったのは私だけでしょうか。

ところで、70歳の私、高齢者として自覚・自立しているか?
自分のことができなくなった時の準備はできているか?
問いかけてみる。

あの頃のゆうちゃんに恥ずかしくない
そんな高齢者でありたいと思っている。

 

その他の画像

f:id:teinei-life:20200929085303j:plain

 

 

 

かわいい子には旅を!

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

f:id:teinei-life:20200928002800j:plain

2003年(平成15年)53歳 
桜が開花したというニュースを聞いて高知にいくことに。
竜馬の足跡とよさこい踊りも観たいよね・・・。

当時大学4年の22歳、落ち込んでいる娘の感傷旅行に。
春のお彼岸に青春18きっぷで家を飛び出しました。

旅の3日目の朝、愛媛県北条水軍YHの前で
一期一会で出会った人たちと旅立ちの記念写真を撮っています。

1日目、私たちは高知に向かっていました。
瀬戸内ライナーで海を渡っている時になって
時刻表をどう見てもその日のうちには高知には行けないと発覚。
急遽、行き先を変えて道後を目指すのですが・・・
焦って変な駅で降りたり、乗る電車を間違えてはぐれたり
道後どころか、伊予北条までしか行けなかったのです。

同じ宿に2泊することになったのですが
そこは学生の旅人の宿、お遍路の人達の常宿になっていました。
海岸ではしゃぐ声、同じ世代と楽しそうに話すあの娘の笑い声を
久しぶりに聞きました。

1月、卒業を前に結婚を約束していた彼に裏切られて
拒食症を病み、大切な卒業試験もしくじり留年。
3月、超氷河期で苦労して勝ち取った内定も手離すことになって
いろいろと梯子が外されて、笑えなくなっていました。

高校時代からずっと武道の部活漬け

大学では全日準優勝の少林寺拳法の拳士。

部活に明け暮れて、自由な学生の旅はしたことがない。

この連休に、母親としてしてやれることはないのか・・・
ならば、自分が学生時代に覚えた気儘な旅の喜びを教えてやろう。

久しぶりにあの子が笑っていました。
上出来です!

3日目がもっと凄い!
しまなみ海道をママチャリ3段変速で
尾道目指して3時間走りました。
風を切って颯爽と走ったと言いたいのですが
橋の前後にある高低差に泣かされます。
あの子はマウンテンバイクでどんどん飛ばします。

下りをスピードを出して、その勢いで上がってしまいたい。
そのまま行きたいところ、降りたところで
おばあちゃんが、笑いかけてくださってる。
仕方なくブレーキをかけたら
「手を出して」
なんとエプロンのポケットから飴玉を出して、ほらと言ってくださる。
「先に行ったのは、あんたのお連れさんか?」
「はい。娘です」
そんならと言って反対のポケットから飴玉を出して、また下さった。

嬉しくて勢いがついた。
すごいスピードで上がったらしい。
娘があきれて
「どうしたん?バテてたんちゃうの?」
「いま、あそこでおばあちゃんいてはったやろ。飴くれはったよ。あんたの分も!」

どうやら、おばあちゃんは私たちが自転車遍路していると思われたようです。
四国のお接待の文化のことを説明すると
「おかあさん、人から情けを受けるのってこんなに嬉しいんやなぁ・・・」
飴を見詰めて優しい表情で微笑んでいる。

人の情けが、身に染みたんやね!

連れて出てよかった。
明日からは筋肉痛だろうけれど・・・。

四国は、やはりお遍路するところです。
感傷旅行をお遍路の四国にしてよかった。

その次の春から、動機が不純ですが
「人の情け」が欲しくて歩き遍路区切り打ちを始めました。

1回目は娘も一緒です。親子遍路はとにかく歩きながら話す。
ずーっとなんか喋っていました。貴重な時間でした。

娘は就職超氷河期に2年にわたって就職活動をすることになっても
元の逞しさを取り戻し、不利な立場でもしっかりと内定を受け
その頑張りは職場でも発揮できたようです。

秋からは司馬遼太郎さんの本を片手に一人旅に出るようになりました。
一人でかの宿にも立ち寄り
新たな友を増やしていました。

旅は、人を育てます。
ロストジェネレーションと呼ばれる世代にあって
どっこいしぶとい!

今は仕事も子育てもと頑張っています。

かわいい子には旅をさせろ
昔の人の教えはよく言ったものです。

私はと言えば、今も一人で春のお彼岸の歩き遍路を続けています。

あれから18年も経ったのに、88ケ所のうちまだ33カ所残しています。
今年はコロナショックでお遍路できていません。
早くしないと脚力、体力、気力、経済力が怪しくなっています。

人は、流離う・・・
流離ってさすらって、初めて平安を得る。

どうですか?
ご一緒にお遍路しませんか?

出版大作戦でサードライフが走り出した。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

f:id:teinei-life:20200926070538j:plain

2018年(平成30年)11月、令和前年のこと
所属している協会の大会という目的で上京に合わせて
埼玉県の小川町にある国立女性会館ヌェックでの出版作戦合宿しました。

自撮りで撮ったのはにわきみこさん、はにたんと私。

 出版大作戦合宿は、プロの編集者でライターさんで
実際に本も4冊出版しているはにわきみこさんの出版応援講座
モニター参加を無理にお願いして
前倒しで合宿で開催していただきました。

美味しい食事をいただきながら、露天風呂に入りながら
編集者からインタビューを受ける。
夜っぴて語って語って、あれやこれやで話はつきません。
プロのお話を伺っているだけでどんどん気付いていく。明らかになっていく。
贅沢この上なしです。

秋の深まりつつある武蔵嵐山にある国立女性教育会館
少し辺鄙なところですが
合宿セミナーならリーズナブルだし、最高に素敵な場所でした。

ここ数年、そろそろ自分にしかできないことをしないと
タイムオーバーしそうだと感じている。

学生への支援に気持ちも時間も費やしている現状では難しい。
ついに機は熟した。だが、どうやったらいいのか分からない。

手をつけられないままに1年が過ぎました。
いつまでたっても手渡しは進まず。
したいこともできないずっと暗中にいました。
救世主は身近にいるのは分かっている。コンタクトも十分にできている。
それなのに、プロだしと遠慮していた。

未知の世界に向かう足が引けていたのが 
はにたんに東京に来た時に出版のための合宿しようよと
呼びかけられて実現します。

企画会議では前段階の準備はできていたので
プロの編集者のワザのおかげでゴール設定まで一気に進みました。

ホワイトボードには叶えたい3つのテーマが掲げられている。
何を電子出版するか?学生へ➞設計図から目次完成!の文字が躍る。
父と戦争の物語は設計図はできている。
3番目の母との約束の「しつもんキッズマナー絵本とテキスト本」は
隠れてるところをみると、どうも、これはずっと後の課題らしい。

はにたんは丁寧に自分事のように導いてくれるけれど
決して甘やかしてはくれませんでした。
助言はくれても、実際に真っ赤に赤を入れてくれたのは前書きの2校まででした。
後は自分のチカラでできるまで待ってくれるだけです。
待ってはくれますが、手は出しません。

それがよかったのは、そのあとは自分でやれる。
そのことが、たくさんの可能性を生み出しました。

もともと、就職面接支援の講座や相談業務での学生へのフィードバックを
一人にではなく、他の学生たちにも伝えたい。
就活だけではなく、働いてから必要になることをブログで書き溜めていた。
それをまとめて電子出版して置いておいたら
いつでも、必要な時に、必要な人に受け取ってもらえる。

学生たちはいろいろ分からないことだらけ。一生懸命食いついてくる。
質問に答え続けてきたことを書けばいい。
その答えを引き出すためにしてきた質問を書けばいい。
あっという間にまとまりました。

その後、合宿第二弾、クリエイティブ合宿も経て、
ずっとずっと温めてきたテーマがプロの伴走でやっとやっと走り始めます。

「就職活動は成長のチャンス!仕事と人生を考える質問面接対策講座」150ページ
2019年3月28日にキンドルから電子書籍として販売を開始しました。

これまで、培ってきた大切なものを手放すのではなくて手渡していく。
これまで大切に培ってきたものを手渡していける。
誰かの援けがあるからできたことでした。有り難いことです。

私の人生は出版によって変わりました。

昨年の3月に電子出版してからは
それまではやりたくてもできなかったことを
今はどんどんやり続けています。

月3回主催しているしつもん読書会はもう道楽と言って憚らない。
読書会で質問し続けたことで、変容には拍車がかかります。
結果、出版に繋がったのです。

読書サークルというコミュニティを得て
同人誌「ツナグ」は5号まで電子出版。

思いもしなかった「短歌集さくら追い」に始まって
インスタ短歌365日から
毎月、まとめてキンドルから出版。
4月から始まって8月で5冊になりました。
これは、まさに私の40代から現在に至る半生の自分史に他なりません。

毎日が楽しく充実しています。
そして、まだまだ変わりそうです。

100人と書く一枚の自分史プロジェクトも走り出しました。
10月には「100人と書く一枚の自分史マガジン」1号も出す予定です。

やりたいことが多くて、相変わらず忙しい毎日ですが
あれから、私は最高の日々を過ごしています。

 

ほかの画像:

f:id:teinei-life:20190809163008j:plain

大丈夫よ~と、あの頃の私に言ってあげたい。

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

f:id:teinei-life:20200924160706j:plain

1979年(平成54年)5月、29歳
近所の公園で
2歳の長男と私
たぶん、父親が撮影かと思う?
とても機嫌が悪い。
その頃は、人見知りが激しく
月に20日以上出張していて
月に一日ぐらいしか目にしない父親に対して
人見知りしていた。
近所に住む伯父と父親に同時に名前を呼ばれたら
躊躇なく、いつも見慣れた伯父のほうに向かったものだ。

だから、カメラに向かって笑えと言われても笑えない。

しかも
この頃は、小児ぜんそくで、いつも夜にばかり発作が始まる。
朝方に治まるから、そんな日は雨戸を開けずに
昼は、母子ともに死んだように寝ていた。

父親が出張から帰ってきた休みの日
無理やり起こされて、無理やり公園に連れ出されている。

眠いのである。そして眩しい。

私の顔も無理して笑っている。迷惑なんだな~。

この頃から、マイペースを乱されることを嫌う。
ほっておいて欲しいのだ。
何かと気を引こうと無理強いしただけ嫌がられる。
すでに頑固な性格は出来上がっていた。

引きこもる日々にあって
世の中の動きからは取り残されていた。
ピンクレディがUFOと歌っていた。
長男も真似をしていたことぐらいしか覚えていない。

夜に発作を起こして病院に走ることが重なると
不安に駆られて、実家に身を寄せた。
ご近所さんとは溶け込むこともなかった。

母親がこれだから
当然、人見知りして外に出ない。
幼稚園に入園するまで、親子して引きこもりだった。

幼稚園に入ると、ぜんそくが反復性良性腎症に代わり
小学校に入るとアトピー性皮膚炎に移行した。
夜な夜な、ぼりぼりと体を掻く音で目が覚めるほどひどかった。
それも、中学に入学するまでには完治した。

そんな、神経質で一人ぼっちの子育ては
妹の誕生で終わりを告げる。

今の私は、暗黒時代のあの頃に私に言ってあげたい。
なんと、小学校・中学校・高校と病気一つせずに皆勤するという事実を!
大丈夫よ~と言ってくれる人がいたらどれだけ救われていただろう。

そんな息子もやっと
40歳を越えて
親から面倒を見てもらう立場から
面倒を見る立場を自覚したらしい。

随分とかかったけれどなんとかなるものである。

親が、子を信じて託す、その気になったら、
その立場は反転する。
今後は見てもらっているふりを上手にすることにしよう。

親として気がかりはいつまでも続くものです。
ある程度の年になるまで待つけれどね・・・
大丈夫よ~!と
今は上手く声もかけられるようになっている。

 

 



 

リベンジの山、宮之浦岳

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

f:id:teinei-life:20200924095848j:plain

2011年(平成23年)5月
屋久宮之浦岳 (標高1936m)の頂上にいます。

登山ガイドさんに宿からひらってもらったのが3時半で真っ暗でした。
ようやく明るみ始めた淀川登山口を5時前に出発して
頂上に着いたのが11時過ぎでした。

宮之浦岳への挑戦して3度目、やっと頂上に立てました。

一度目は45年前、積み立てまでしていた屋久島遠征計画は
結婚が決まって、親からの反対で断念しました。

前年の9月、定年退職しても、そのままフリーで働き続けていました。
ご褒美もあげていない、そのことに気付いて、急遽、一人で屋久島に・・・。

その時は、雨に降られて登山は禁止となり
雨の中、川のように流れる登山道を縄文杉まで行くのがやっとでした。

そして、3度目のチャレンジでした。
この旅は、ひと月で35日雨が降る屋久島で4日間のピーカン!
晴れ女の面目躍如でした。

登山ガイドさんや観光協会の人にはお世話になりました。

この日は、20代の女性二人とのカップリングでした。
当初は、60代では足が揃わないだろうと成立が危ぶまれて
あわや、ガイドさんがいなくて登山できないという状況もありましたが
登山歴や昨年も来ているということで叶います。

精一ぱい、無理して歩きましたとも・・・。
20代には負けていませんでした。

頂上に立って、大きなマル!してますよね。
やっと、ここに立てた!

ピーカンで北に鹿児島の薩摩半島大隅半島
南にトカラ列島(十島村)が望める360度の展望でした。
海よ~ 空よ~ わたしはここにいます。

往復16km、12時間の行程でした。
宿に戻ると、その前の海にスーパームーンが上がったところでした。
その輝きがすべての音をかき消して
深く充たされている自身を煌煌と照らし出していました。

昨年、屋久島に一人降り立った時からずっと感じた高揚感・・・
雨中を歩いても、歩いても疲れることがない。
何時まででも元気で、人と出会い、飲み、笑い、話せる。

帰阪しても、昨日より、今日が紙一枚でもよくなっているように思えました。

さすがにパワーポイントと呼ばれる島のパワーです。
この時も惜しみなく受け取って、12時間、山を登っても全く平気!
天気もご褒美なら、その元気もご褒美でした。
こんなに元気でいられてありがとう~。

 時は、第2次安倍内閣が成立した年
そして今年はコロナ禍の渦中で長期政権が終焉した年です。

時代もあの頃には戻れない・・・。
そして体力も気力も・・・。

北海道・利尻岳から始まり、宮之浦岳は、最南端で100番目の百名山です。
この歳になって、もう100名山全山制覇は望めない。

ただ、最初と最後は抑えることができました。よしよしとします。

そうそう
終活という言葉が流布された年でもありました。
何だか因縁感じますねぇ~。

 

その他の写真:

f:id:teinei-life:20200924113504j:plain

f:id:teinei-life:20200924064849j:plain

 

f:id:teinei-life:20200924113530j:plain

 




 

いつも仕事はご褒美だった

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

f:id:teinei-life:20200923183541j:plain

2013年(平成25年)11月
和歌山県障がい者職業訓練の就職支援の講座を担当していました。

駅前から続く欅の並木を30分歩くとその教室はありました。
いち早く黄葉する欅並木の下を歩くのが好きでした。

和歌山までJR阪和線での移動時間を使って
FBにその日の講座についての取り組みや思いを書いてチェックイン、そのために撮影していた一枚です。

そんな日のこと
結構激しい雨の朝
歩かずにバスを使って向かっていると
半身に不自由を抱えながらも
就職に向けて訓練に通ってくる19歳の青年が
雨の中で、自転車のスタンドをどうにか立てようと悪戦苦闘しています。
普段でもしばらくかかるのです。

こんな雨の日に時間もかかってびしょ濡れになるし、途中も危ない。
怪我をさせたくない。
こんな日ぐらい、休んでもいいのよと言いたくなる。
やりきれなくて、どうしようもなくて
無力感でいっぱいになって
生半可な声をかけそうになってぐっと堪える。

その日の就職支援の講座は、自己理解と仕事理解でした。
そこに学ぶ人たちは、心と体に抱えている問題は様々。
様々に深い霧の中をさまよっています。

時として、教室が地雷原になることがありました。
踏まないように気をつけているのですが
つい、踏んでしまうことがありました。
共に吹き飛ぶ覚悟がなければできません。

それぞれに抱えている問題に、聴いているこちらの方が辛くなる。

「あなたにとって仕事ってなんですか?」
という質問に、19歳の彼は
「人の・役・に・立つ・こと」
しぼりだすようにしないと発声できないのです。
一生懸命に答えてくれました。

定年退職した会社で拗らせた
リストラに纏わる罪悪感を払拭したくて
罪滅ぼしできたらと始めたキャリアカウンセラーでした。

「藤原さん、ぼくらこれからどうやって生きてったらええねん?」
あの時に、答えられなかった質問にカウンセラーになって一生懸命答えてきました。

これまで、ごめんなさいでやっていた仕事が
いい仕事をさせてくれてありがとうになった瞬間でした。

19歳の魂のピュアさに心が震えました!

周りを巻きこんで、他の人にとってもいい時間になりました!

キャリアカウンセラー・コンサルタントの学びだけでは、日々の突き付けられる課題には追い付かず、京都のお寺で、深い心理の学びを積み重ねている頃でした。

折しも
「嫌われる勇気」でアドラー心理学がちょっとしたブームになり
「永遠のゼロ」がベストセラーになり映画もヒットしていました。

リストラがトリガーになって常に心が動いて辛い日々でした。

私の心にも地雷原がありました。
地雷原にあってオアシスみたいな19歳でした。
全身全霊で援けたくなる。
ほんまにええ子やった。

マナーの授業でも
不自由な手足でもきちんとしたお辞儀ができるようにと
手足が攣るほどに頑張る姿に感動と元気をもらいました。

そんな出会いがあって
ずっと名乗れなかったキャリアカウンセラーの名を、いつしか胸を張って名乗れるようになっていました。

おかげで引けてる足を
勇気を持って踏み出すことができた。

欅という木は個体によって紅、橙、黄と紅葉する。
そこに緑が混ざってそれは美しい。
それぞれに色が違うから味わいが増す。

人の世も同じ、違っていいハーモニーが奏でられる。

彩づいた欅の下を歩くとき
これからも、ずっと彼のことを思い出すだろう。

ありがとうね。

70歳を迎え、そろそろキャリアカウンセラーの仕事は
もっと若い人でもできる。
私は、この歳でないとできないことをやっていきたいと思う。

そう思いながらも
なかなか、この仕事から離れられないのです。

だって、若年者の就職支援のお仕事は頑張ってきた私へのご褒美だから。