私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

過疎の郷・・・「最後までお守りしはったんやね・・・」

100人と書く「一枚の自分史」

f:id:teinei-life:20200918062417j:plain

2018年12月 
福井県勝山市、恐竜博物館のすぐ下にある
母の里への悲しい訪問でした。
その年の2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。
雪が着く前にと
3ヶ月も早くに一周忌の法事が営まれました。

父の里は、母の里からまだかなり山の中にありました。
全ての法事が終った後、弟とそこを訪ねることになりました。

父の生まれ育った家を守る人はすでに途絶えていて
家終いの話が出ていました。

間に合ううちに自身のルーツを
今、たどらないとどんどんリセットされてしまう。
何も、次世代には伝わらない・・・。

小さな子供たちに
命のバトンを渡すために伝えたい。

だから、父の生家があるうちに
行ってこなければと思っていました。

車で送ってもらって
集落に入って家を探すのですがありません。
周辺も記憶の中の風景とは違っています。

すぐに、家は途絶えて、集落から出てしまいました。
歩いて引き返してみました。

集落の最後にある家まで引き返して
目にしたものは・・・

行き過ぎても分からないはずでした。

ユンボがまだそこにはありました。
ユンボの爪痕はまだ真新しい。

なんてことでしょう。
わずかに遅かったのです・・・

間に合いませんでした。

そこにはぽつんとお墓だけが遺されていました。

涙が溢れました。

枯れる前の花が供えられていました。

遅かったけれど
それでも、あの場に行けてよかった。
懐かしい人たちの面影を見ることができました。

山村の三男坊だった父が
口減らしのため、早くから村を出されてからも
ずっと援け続け、守ってきた家でした。

泣いている私に
弟がこう言います。
「ねえちゃん、誰も恨んだらあかんで」
「誰も恨んでへん。何でかわからへんけれど、誰かが私に乗り移って泣いてはるねん」
そういう感覚でした。
そういう弟も誰かに言わされていました。
誰が、何を伝えようとしているのでしょうか。

家というのは不思議なものです。
そこにある限り
人の思いも一緒にあるようです。

あの日々の暮らしもままならぬ時代に
自分の家族を養いながら
田舎の家族の生活も援けてきた。

そうした父の思いを
私たちは受け取っていました。
次世代にツナグと決めています。

家とはただ住むだけの箱では決してない。
不思議なものです。
思いが残っているうちは、家は壊されず
思いがそこに亡くなった時、家は役目を終える。

しっかりと思いを繋いで行こう。

集落の入り口にあった看板にある家は
父の家から先は消滅していました。

まさに限界集落の手前にありました。
過疎の郷・・・
逝きし世の面影
日本のいたるところで起きている風景です。

子どもの頃
母の実家は居心地がいいのに
父の実家は寂しくて嫌だった。

なぜか、今は分かった気がします。
平家の落人がひっそりと住んだ地だったから。

ただ、この村の人たちは
長住した家をただ朽ちるに任せるのではなく
きちんと更地に戻していました。
生活の後はなく、草が覆うばかり。
だから、行き過ぎてしまうほど何もなかったのです。

「最後まで守しはったんやね・・・」
この一枚の自分史を書かなかったら気が付きませんでした。

そうだった。
最後まで見届けて、自然にお返ししたんだ。
そこには、村の人たちのその地への感謝が見て取れました。

それで
朽ち果てた家を見ると哀しい。
そこに思いが残っている気がするからだったのかもしれない。
最後まで、家守りできなかった無念がそこにあるのかもしれない。

生者必滅、会者定離
この世に生を受けたものは必ず死に
出会ったものには必ず別れがくる。

去って行った人の心を引き継ぎ
次代に引き継いでいくことを大切にしたい。

いろいろと間に合わなかったことばかり・・・。

だから、今、書かねばと強く思います。
書いて、そこに置いておく。
必要なときに、必要な人が受け取ってもらえるように。

 

 

「また来るから~」最果ての利尻・礼文島を訪ねて・・・一枚の自分史

100人と書く「一枚の自分史」プロジェクト

f:id:teinei-life:20200917000413j:plain

1971年、学生最後の夏休み。
6月末に、前期の最後の授業をさぼってフライングして
北海道旅行をした。

すっかり、北海道の大自然と人の優しさに触れて虜になった。

その中でも、強く印象に残っているのが最果ての利尻・礼文島

戦争を知らない子どもたち」が流れ、70年安保の年に二十歳。
学生運動の渦中の学生生活から逃げ出すように
自分を探すために
あの頃の学生たちはザックを担いで旅に出た。
そんな私たちはカニ族と呼ばれていた。
JR、その頃は国鉄。列車の乗り降りや、通路を通るのに
担いでいるザックが横広のため
カニのように横ばいで歩いたのでその名がついた。

旅の相棒は部活仲間の女子一人と男子一人いう、逆ドリカム現象?
時々、その男子は、他の女子にひかれて
のこのことついていってしまう。
許っていたら、また、ひょこっと姿を現す。
自由な旅だった。

この写真は
礼文島のお花畑から「利尻岳」を撮ったもの。
そこに「私」が写り込んでいる。
「私」ではなくて「利尻岳」を撮ってもらっている。
だから体を傾げている。

見せたかったものは
お花畑で笑っている自分ではない。

私が見せたかったのは
串田孫一さんの日本100名山の一番目の座
海の向こうに浮かぶ利尻岳

叫びたかった!
「昨日、あの頂上に立ったよ~」
だからご機嫌なのだった。

このどや顔、50年近くも経ってから発見!
ずっとお花に囲まれている自分ばかり見ていたから
気が付かなかった。

あの頂上に立つたんだと思うと満たされる
そんな若き日の自分が蘇る。

もう、100名山制覇はこれからはないだろう。
100番目の座、屋久宮之浦岳は8年前に・・・。

100名山の一歩目をこの時踏み出したんだ。
そのことをふいに思い出した。

標高1718m、しかも海抜から登るので
日本アルプスの峻峰に登るより高低差はある。
しかも北の果ての山。
今から思えば、登るにはふさわしくない軽装!
若気の至りで、勢いで、いとも軽々と登ってしまったのだ。

朝一番に稚内の港からフェリーで鴛泊に着き
YHに荷物を預け、行動食と水だけを持って、そのまま登った。
最初は10人位で取りついたのが、頂上までたどり着いたのはたったの三人。
下山したのは日が落ちる寸前だった。
夕陽が真っ赤に海を染めて落ちる。
それを見ながら走って降りた。

そんな前日の興奮を引きずっていた。
そりゃ、こんな顔にもなるよね・・・。

礼文島から望む利尻岳は高く美しい。

潮風に吹かれながら、山に向かって
「また来るから~」とつぶやいてみる。

暑い大阪に帰ると、就職活動が始まる。
男子優先社会、大卒女子には厳しい世界が待っている。
進路に悩み、行く手には漠然と不安を抱えていた。

学生の特権、自由を取り上げられる。
好きなことはもうできないのか・・・
この旅を最後に。

旅を楽しみながらも切なさは心のどこかにあった。

はたして
卒業してから、つい最近まで、70歳を超えて
自分ではない誰かのために生き、役割を果たす日々は続いた。

やっと、仕事に一線を引いて再び自由になった。
したいことをして、行きたいときに、行きたいところに行ける。

なのに・・・コロナめ!
このタイミングでやってくるのか?

2月からの巣篭りを解いて
10月に利尻・礼文島に行くことにした。

コロナめ!
GOTOトラベルキャンペーンを使ってやるから!

「また来るから~」とつぶやいたあの日からは
すでに50年近く過ぎている。

過去と現在がどう繋がるのだろうか。
楽しみにしている。

 

その他の写真

f:id:teinei-life:20200917000811j:plain

f:id:teinei-life:20200917000829j:plain

f:id:teinei-life:20200917000841j:plain



 

一枚の自分史 「母と娘の涸沢の山旅2009」

 

 

「はじめよう!自分史生活」講座

一枚の写真から作る自分史の

ワークショップに行ってきました。

 

講師の河出さんは

日本古典文学全集や日本文学全集と

学生時代にお世話になった河出書房の

なんと!

四代目河出岩夫さんでした。

 

その一篇の日本の現代文学史は

河出さんの自分史、家族史に

他なりませんでした。

 

川端康成松本清張・・・他にも多くの文人

写っている三代目の一枚の写真に

ワクワクするミーハーな私。(笑)

 

文学少女だったあの頃に戻る時間でした。

 

一枚の写真からの自分史のワークショップ

ポイントを教えていただいて早速作成しましたので

ご紹介します。

 

ゆっくりと写真を探す時間がなくて・・・

手近かにあったものを使ったので

割りに最近のものです。

とはいえ、2009年秋のものです。

 

「母と娘の涸沢の山旅2009」

 

もうすぐ娘が嫁いで行く。

それまでに

「おかあさんと想い出に残る旅がしたいね」

という娘。

 

母娘別れ旅は

娘がまだ小学生だった頃に奥穂高岳に登ったときに

テントで露営した涸沢まで行こうということになりました。

 

折しも

涸沢では山と渓谷社の主宰で

「からさわフェスティバル2009」をやっていて

山好きな人が集まってにぎわう山での

楽しい旅となりました。

 

エベレストに初めて登頂した女性

田部井淳子さんがご主人とご一緒に来ておられて

娘や若い人たちの中に気軽に入って来られて

小屋のテラスの隣の席でお茶をいただいたことなどの

サプライズもありました。

 

思い出に残ることは、数々あるのですが・・・。

 

横尾を過ぎて徳沢園に着く頃

日ごろの運動不足がたたって

足が重くて思うように前に進みません。

どんどん若い人たちに追い抜かれて行きます。

 

今回は小屋泊まりにして

荷物は軽量化しているのに…。

久しぶりの山歩き

 

本格的な登りにかかると

荷物が重く肩に食い込みます。

 

ただひたすらに足を進めているうち

記憶にある小さなあの子の

前を歩く足元を見ていました。

 

ザックに寝袋を入れて

上に荷物を高く重ねているので

頭が隠れて見えない。

ザックをピョンピョンと揺らしながら

登っていく我が子の姿が目の前にありました。

 

石に躓きそうになってなって

ハッと我に返ると・・・。

 

あの日

あの子の足元を見守った私と同じように

私の足元を気遣って

一歩一歩、歩調を合わせてくれている

気配が後ろにありました。

 

ようやく涸沢小屋に到着。

 

懐かしい奥穂、北穂の姿や

彩とりどりのテントの群れを眺めながら

あの夏盛りに雪渓ではしゃいでいた姿を

思い出しながらビールで祝杯!

 

星空は騒々しいほど・・・

 

次に来るときは

孫っこたちも一緒だったらいいなと話しながら

すし詰めの小屋の喧騒の中で

久しぶりにくっついて眠りにつきました。

 

 

一枚の写真からの自分史を語る一コマでした。

 

こうして何枚かの写真と物語を重ねていくと

それが自分の物語りになりますよね。

 

楽しみながら

空いた時間に積み重ねていけたらいいなと

思っています。

 

この時のサプライズ!

ヤマケイJOYという登山誌のグラビアに

私と娘も写っています。

これもいい思い出です。

 

 

この世は愛を育てる

愛の学校です。

 

絶賛実習中です!(笑)

わたしの幼少時の自分史がここにもあった。

100人と書く一枚の自分史プロジェクト

 

f:id:teinei-life:20210425180045j:plain

 

自分史でできることは何だろう?

今日のしつもんZEN瞑想から

忘れていること。
忘れたいから忘れたのか?
思い出したのなら
何か意味があって、そういうタイミングだったのだろう。

瞑想に入って
「自分史で何ができるのか?」と質問を置いてみた。

いきなり、そういきなりだった。
幼い自分へと還っていた。
2歳か3歳の私。

家の前で遊んでいる。
前には国道26号線が通っている。

ジープが止まって
若い米兵たちが下りてきて
何かを話しかけてくる。
「可愛い子だね~。こんにちは。何をしてるの?」

暫くはきょとんとして固まっているけれど
そのうちにうわーんと泣き始める。

米兵たちは
ソーリー!ソーリー!と言って
チョコレートやビスケットを持たしてくれる。

覚えているわけではない。

少し大きくなってから親たちから聞いたこと。

その頃、国道沿いに行くと浜寺に米軍の駐屯地があって
よく、家の前をジープが通っていた。

「最初から泣いて逃げ出していたらお菓子はもらえない」
「いつもお菓子をもらってから逃げてきたもんな~、この子は」
と笑って親たちが話していた。

泣かないし、逃げないから嬉しそうに兵士たちは構いに来たらしい。
「きっと、国に同じ年頃の子どもがいるんだろうな~」
みんなが優しい顔をしていた。

そのことを思い出していた。

渇えていたんだ。
その頃は、誰もが・・・
突然、哀しみがこみあげてきた。

お腹がすいているし、お母ちゃんもまだ帰ってこない・・・。
まるで子供が泣きじゃくるみたいに泣いた。

覚えてもいないのに
若い米兵たちの顔が優しい父親の顔に見える。
人と人が殺し合う戦争が悲しくてまた泣けた。

これは瞑想じゃないな・・・
これじゃ、ヒプノセラピー
インナーチャイルドのセルフ療法やっているよな・・・。

潜在意識が表出してきて
今日は全く瞑想できずに終わってしまった。

そのことは
悪いこととは思わない。

むしろ、よくぞ出てきてくれたと感謝しかない。
わたしの幼少時の自分史はここにもあった。

書いておこうと思う。

今ここにを意識しないと
体勢を整え、深い呼吸をするだけで
時々どこかに行ってしまう。

日によっては
今ここよりも
行きたいところがあることにも気が付いてしまった。

そりゃ、行くよね・・・。

魂の呼ぶところへ。

戦争の記憶がそこにあるらしい。
今世のテーマがそこにあるらしい。

自分史で何ができるのか?
答えはそこにあるらしい。

そして
終わらない旅はこれからも続くらしい。

 

 





 

 

親を送ったように

大抵は
人は親を送ったように子どもから送られる。 

必ずではありませんが… 

因果応報
世代間連鎖…

子どもたちは見ています。
親をどう送ったかを…。

私には、母の思うようには送ってあげられなかったという悔いがあります。
しかも、しばらくは、そのことをずっと誰かのせいにしてきました。

でも
自分が送られる側に立っていることを実感した時
誰も悪くしたくない。
そう思うのです。

子どもたちの行く手を阻むことはしたくない。
そのためには
どうしておくことができるのだろうか…。

考えながら、17年前の日記を読み返しています。

長くなります。

 2003年9月19日(金) 映画「折り梅」を観て

市の文化協会主催の映画鑑賞会に、
定時で仕事を切り上げていってきました。

 第14回東京国際女性映画祭で上映された松井久子監督
「折り梅」

老人介護を扱った映画で
同居を始めた夫の母親の認知症
徐々に進んでいくことから起る
嫁と姑、夫婦間、子供たちとの
さまざまな葛藤が描かれています。

今まさに自分がぶつかっているテーマを扱っているということで
以前から必ず観ようと思っていました。

娘も一緒でした。
娘は「そんな映画を観て、余計に落ち込んだりせんときや」
と言いますが…

「こういう映画には、きっと救いが用意されているはず、参考になることがきっとあるはず」と…。

娘は
プロローグの二人が歩いている姿を見ているだけで
涙をこぼしていました。
映画が始まって10分ぐらいから終るまで涙が止まりません。
途中嗚咽を漏らしそうになるほどでした。

夫に早くに死に別れ
4人の男の子を女手ひとつで育てた気丈な母(吉行和子)。
その母の痴呆を認めたくない息子は
介護に疲れ果て施設に入れたいと願う妻(原田美枝子)に
相談を持ちかけられても
「君がいいと思うなら・・・」と
肝心なところで逃げてばかりいる
そんな気弱な身勝手な夫(トミーズ雅

本当に我が家と同じで男はこういうとき頼りにならない!

施設へ送って行く道すがら
実の息子さえも知らない姑の過去
幼い日の生母との別れや若い時の苦労話を淡々と語るのを聞いて
同じ女として、母として、また子どもの立場として
姑を愛しく思い
もう一度がんばってみようと決心する嫁。

姑と参加したある集会で
「今までお姑さんを何回褒めてあげましたか」
と問われて
咎めたり、怒ってばかりいたことに気がつく場面があります。

帰り道、娘は
「あの画面、一番応えたなぁー」
「おばあちゃんにあかんことばっかり言ってたと心が痛んだわ!」
「何も褒めてあげていない!」
と・・・

「お母さんは、帯の縫い方習うことで、おばあちゃんのことちゃんと認めてあげてた」
「正解やな!」

いいえ、あなたの方がずっと巧まずにおばあちゃんを看ていたと思う。
私の方がずっと理で言い聞かせたり、難しいことを要求していたと思う。

映画はそれに気付かせてくれました。

誰でも褒められると嬉しい。
子育てと一緒。
年を取ることは子供に還ること。
できる範囲のことで、あるいは得意な分野で認めてあげなくては。

あと、子供に還るということに、過剰反応してあげないこと。
上手に合わせてあげることがいいのですね。
昔の話の中で自分が行ったこともない所でも、想像を膨らませているうちに行ったように思うらしい。

これはかなり早く始まっていたのを
今まではいちいち違うでしょと訂正していたけれど
害のない話なら否定せずに
「それで誰と行ったの?」
と話を続けてあげたらいいのですね。
やさしい表情で聞いてあげたらいいのですね。

原田美枝子さんの優しい表情のように穏やかに。
この人はほんとうに綺麗に歳をとられた女優さんですね。

呆けは神様の贈り物という。
老人が生きる智恵かも知れない。

わが母はリュウマチの苦痛や
家族と暮らせない寂しさから
呆けることで逃避しているのかも知れない。

なら、付き合ってあげよう。
その方が楽ならね。
 
「折り梅」とは
梅は折れて老木となっても
枝からつぼみが生まれて美しい花を咲かせること。

浅き春に先駆けて凛と咲く古木の梅、素敵ですね。

温かい視点で老人介護を描いている「折り梅」という映画を
同じ介護に苦しむ人たちに観ていただきたいです。

 

この映画を思い出させてくださったことに感謝いたします。

そして
松井久子監督が昨日のお誕生日を機に
noteでマガジンをスタートされたそうです。

是非、読もうと思います。

http://松井久子のNoteマガジン「鏡のなかの言葉」

 

f:id:teinei-life:20200522111416j:plain

 

老にして学べば、死して朽ちず。

自分史において40代までは
ずっと誰かの子どもであったり
誰かの母であり、妻であり
会社では総務人事の人だった。
なかなか自分だけの為には生きられなかった・・。
 
2003年5月のWEB日記には
50歳になって
人生においてやりたかったことのやり残しがたくさんあることに気付いた。
夢が叶わなかったことはすでに自明の理となり
それでも精一杯やったからええやんと言い聞かせても
心の奥底では、何かしら寂しい。
そのことを自分自身に納得させる年齢らしいけれど
何かをやって叶わなかったどころか
実現どころか夢さえ見ていないような気がする。

今から、夢の実現に向けて再挑戦するに
残されている時間はあるのだろうか?

切羽詰って、固まっている自分が居た。
 
周囲からは、何故何もやらないんだ?
今の状態から跳び出せ!
やりたいことがあることを
あの人たちは知っているから・・・。
 
でも、生活に捉われるのが常でしょう・・・。
勇気のない言い訳です。
それまで
数え上げるほど、山ほどできない訳があった。

 ナイターの中継流るる居間に独り開く歌集か「無援の抒情」
 一行の歌に涙すを今さらと呪縛の解けぬ五十路にありて

「無縁の叙情」は道浦母都子さんの歌集です。
同じ時代に青春を通りぬけててきた世代の抱く無援感は共通のものでしょう。
多少なりとも、思想という名の荒野で傷付いていたものです。
ノンポリを恥じた日がありました。
学園紛争の日常の中、集会に出かけて、ますます混迷したこと。
ただ人についてデモに参加した日。
集会中にいきなり石を投げられたこと。
部活中に無実の後輩が機動隊に追われ
目の前で棍棒で押さえ込まれたこと。
違うからと交渉したときの恐怖。
 
あの頃はみんなが迷い憂えていた時代だった。

「少にして学べば、壮にして為すあり、壮にして学べば、老いて衰えず、老にして学べば、死して朽ちず。」
 
それから20年近くたって
私は何かを為したかどうかわかりませんが
学び続けています。
そして
いよいよ老いていきます。
老いての学びはこの裡にありそうです。
その学びを書くこと。
そのことで繋いでいきたいと思う。
死して朽ちずとはそういうことなんだろう。
 
やっと、見え始めたように思います。
 
f:id:teinei-life:20200517144328j:image


 
 
 

母へのラストレター

2004年8月2日の日記から
11時に告別式は始まった。
月初めの月曜日ということでお越しいただける方は極少ないだろうと
予想した通りでした。
でも、母さん、かえって、身内ばかりで
心おきなく別れを告げることができましたよね。

お寺のご住職から
自分たちの告別式をしなさいと言われていました。
言われたときは突然だし、何も浮かばなかった。
入棺するとき、何を入れてあげたらいいのだろうと・・・。
出しそびれたはがきがありました。
 
土日しか施設に会いに行けないから
会社の昼休みに絵葉書を書いて送っていました。

菜の花を散歩したときの車椅子の母さんと
それを押す私の姿が写っている、
宛名も書いて切手もちゃんと貼っているのに
本文だけが書いていなかった。
あらためてお別れのハガキを書きあげました。
 
f:id:teinei-life:20200412232904j:plain
 
それを見て、娘や姪たちが
私たちもお手紙を書いて
写真を入れてあげようと決めたのです。

それなら、ちゃんとそれぞれが読んであげて
それから入れてあげたほうが
心が届くのではないかとご住職に言われて
それが私たちの告別式になるのではないかと・・・。
嫌がるのかと思ったら、素直にそうすると言う。
葬儀社の担当者にお願いすると
気持ちよく承知してくれました。

そして、それぞれ7人の思いがこもったお手紙を
哀しみを堪えて読み上げてくれました。
 
来てくださった方がそれを聞いて
涙を流してくださいました。
いいお別れでしたねと・・・。
 
一番泣いてくださったのは
家族ではなくて、葬儀社の若い担当者さん
おいお~い!
この葬儀社さんでよかった。
担当者があなたでよかった。

お母さん、聞こえましたか?
貴女の愛した孫たちの最後のラブレター。

一番年上のお兄ちゃんと一番下の姪っ子は
おばあちゃんを独占できた時期があったけれど
後の5人は何時でも、おばあちゃんを取り合いしていました。
誰がおばあちゃんの横に寝るかで争奪戦だった。
時にエスカレートして泣き出す子がいるくらい。
随分、騒がしかったことでしょうね。
幸せだったよね。

一番最初はお兄ちゃんだった。
手紙はおばあちゃんだけが読んでくれたらいいからと言って
読むのは止めてしまった。
「でも、たくさん愛してくれてありがとう。」
「いっぱい感謝しているよ。」
「その中でも一番感謝しているのが僕のお母さんを生んでくれたことです。」
「おばあちゃんがお母さんを生んでくれなかったら僕はこうして存在していなかった。
本当にありがとう!」

妹は、介護が必要になったとき、一番やってくれたよね。
そして一番苦しんだのです。
どんどん壊れていくことが辛過ぎて、優しくなれないことを
私と一緒に苦しんでくれましだ。
大好きな人がそうでなくなる切なさを一緒に。

昨夜も、会館で棺を抱きしめ、何時間でもそのまま居ましたね。
一人でおばあちゃんの側で過ごしたよね。
「私は、いい孫だっただろうか?」
と介護の途上のジレンマからの言葉だった。
「優しくなれないこともあった。ごめんね」と・・。
「いつも抱きしめてくれたのに、もう抱きしめてあげられない」
「もっと抱きしめてあげたらよかった」
「でも、おばあちゃんは、どこかに行ったって思えない」
「また、うちの居間に現れて、私の行儀の悪さを叱ってくれそうな気がする」
とも・・・。
「お浄土へ続く明るい花が一杯咲いている草原を、背筋をぴんと伸ばし、出会う人たちに丁寧に挨拶をしていることだろう」
「おばあちゃんのこと心から愛しています」

ほかの子達も、それぞれの思いを、それぞれの言葉で伝えた。
いい告別式になったね。お母さん。

火葬場へ、行った時もさほどに感じなかった。
私はどうしてこうも冷静でおられるのだろう。
まだ、居なくなったという実感が無かった。

骨になったのを見て、初めて現実に目覚めた気がした。
喪失感に突然、襲われた。
静かに涙が止め処なく流れ落ちた。
呆然と立ち尽くすしかなかった。
何故、こんな辛い行事をこなさなきゃならないのだろう。
すべて燃やしたらいいじゃないの。
すべて灰にすればいい。跡形もなく。
骨を拾うなんて、そんなにリアルな哀しみは要らない。

初七日の法要を終えて帰って来た。
水曜日から続いた長い非日常から帰って来たのに
日常を刻む時間は狂ったまま。
しばらくは戻れないんだろうな。

お母さん、今、蓮の花が見事に咲く季節ですよね。
蓮の花に乗っていくのかしら・・。
 

f:id:teinei-life:20200412233120j:plain