私と家族の物語

自分史活用アドバイザーが描く家族史プロジェクト

永遠のハルマヘラ~還ってきてくれてありがとう 父がないことにしたことは・・・

父さん 
 何で、わたしは父さんの戦争を書こうと思ったんだろう。
それは、京都のお寺での心理の学びから始まっていました。
そのことを書いてみたいとずっと思っていました。

定年退職後のセカンドキャリアにキャリアカウンセラーを選びました。
クライアントや受講生と接しているうちに
経験だけではなくて理論も必要であること
カウンセリングのスキルがこれでは足りないと感じて
7年前から数年間、京都のお寺で心理カウンセラーの学びをすることになり、
学ぶ中であまりにも多くの深い気付きに打ちのめされていきました。

阿弥陀様のおられる方丈が教室でした。
カウンセラーにとって自己ヒーリングは必須で
クライアントに向かう前には自分の問題を解決しておくことが必要でした。

そのための修行のひとつが「繋がる」ことでした。

自己の深い部分と繋がり、
過去、現在、未来に繋がりました。
他者と繋がり、想念と繋がり
善意と繋がるのはもちろん、悪意にも繋がりました。
大いなるものにも繋がりました。

これまでの自分には及ばないような深い世界でした。

その中で学んだのが究極のヒーリングでした。
癒しとは「人と繋がること」でした。

その日も、ジョイニングセッションが始まりました。
受講生同士がその日必然で選んだバディにただ向き合うのですが、
その日は25年も前に亡くなった父と繋がったのです。

母のことは、まだ亡くなって数年だということもあり
また、遺志を継いでいることもあり、常に胸にあったのですが、
つい、「去る者は日々に疎し」となっていました。

「ごめんなさい」と「ありがとう」がどんどん沸き上がってくる。
そのことで、心のパイプが通る感覚がありました。
父のことを近くに感じていました。

続くセッションではもっと自分の問題の核心に触れることになりました。
他の人の問題を扱ったセッションだったのですが・・・。

お祖父さまが激戦の地から還ってこられた。
亡くなった戦友に対する罪悪感をないことにしたことで
孫娘が償いを続けていることでその方の人生は疲弊していました。

もしや、これは自分の姿を見せてくださっているのか?
父の抱えていた問題もこれではなかったのか!
だとしたら腑に落ちる…。

人の心は触れたくないものにはふたをする。
見たくない問題は見ないようにする。
最初からなかったかのように。
しかし、問題はなくなったわけではないから
そうするととんでもないところでそれが表に出てくることがある。

父のこと、自分のルーツを考えて、自分も同じ問題を抱えていること
これまで、父のことを何もわかってなかったことに気が付きました。

心のパイプの詰まりが通り始めますが、それには痛みが伴いました。

決して楽なことではありませんでした。

仕事をセカンドキャリアを援けることにシフトしています。
「マンダラエンデイングノート」ファシリテーターの養成講師としての活動も
その詰まりを通すための緩やかな援けとなりました。
「自分史活用アドバイザー」の学びが書くための大きなスキルとなっています。

この世は愛の学校で、そこでの学びには何一つ無駄がありません。

いずれ父の戦争史を書きたいと思うようになりました。
ただ、今は書けない。どう書いていけばいいのかもわからない。

躊躇しているうちに
昔を語れる最後の叔母が福井の豪雪禍で急逝してしまいます。
間に合わなかったのです。

もう、それは史実ではなく史実に基づいた物語にするしかなくなりました。

父さん
そこから、早く書かないとどんどん風化すると思っても
どう書いたらいいのか、わからなくなったよ。
そして、凄いことにも気が付いてしまいました。

夢を見たのは、会社ではリストラが終わったころのことでした。

真っ暗な海岸は何処かで見た風景でした。
砂浜の砂にろうそくを立てて、灯りを燈す。
何本も何本も立てて、燈し続ける。
ただ、ひたすらに、無になって・・・
やがて、海岸一帯がろうそくの灯の海になっても
闇はなくならない。
それでもやり続けている。
夢から覚めても、また眠ると、また灯し続ける。
不思議な夢でした。
ずっと、気になって覚えている夢でした。

お寺での心理の学び、ユング夢分析のところで
その夢にフォーカスしてもらえることになりました。

師は、ろうそくに火を灯すことは「鎮魂」を意味すると分析。
リストラをお手伝いする側となったことに対する罪悪感が影響をしている。
仕事とはある意味「いのち」である。
仕事を失うことは「いのち」を失うこと。

だから、あなたは「魂を鎮めていたのだ」と・・・。

師の「鎮魂」です!という言葉を聞いたとき
漆黒の闇っだった海が明るい月の光に照らし出されました。
不思議なことでした。
闇を消すことはできない。けれど、闇は恐ろしいものではない。
灯りを燈し続けていこう・・・。
そんな学びでした。

父さん
そうじゃなかったのですね。

わたしはあの海が見たこともないけれど
ハルマヘラの海だって気が付いてしまいました。

どうしよう。
書けなくなりました。

あの海にジャングルを逃げ惑い、飢餓と戦い、病魔に倒れた魂を
鎮めに行かなきゃ、「鎮魂」に行かなきゃ何にも書けない。
書いても意味がないと・・・。

そして、その島に行くことがなによりも怖い・・・。
費用だって工面できそうもないし・・・

わたしにどんな鎮魂ができるというのだろう。

書けない・・・。

父さん!

そんな私にある出来事が起こります。
おかげで、今こうして書いています。

無意識が止めていた兵歴簿も取ってくることができました。
そこには驚くべき事実と真実がありました。
書くことであの不幸な時代をねぎらいたい。

次からは、そこから書いていきますね。

※父のないことにした罪悪感を娘が引き受けていた。
トリガーとなったのはリストラの罪悪感だった。
心理学からの学びがそこにありました。

 

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ずっと人生最大の汚点だと感じていたから・・・

「ねぎらいの自分史」のための質問をしながら
自分史の一幕を書いてみました。

Q. その出来事(体験)はいつ(何歳?〇〇校〇年生?)どこで起こったことですか?

 その出来事は高校3年生の2学期に起きました。
クラスメートたちから、呼び出されたのが
キーマンになる男子の家でした。

Q. どんな時代でどんなことが起こっていましたか?その頃、どんな自分だったのか?

夏休みも終わり、その頃の高校生にとって
青春の一大イベントだった体育祭も終わり
本格的に受験勉強一色に染まる直前のことでした。

すでに受験勉強に集中している人たちのほうが
むしろ多かったかもしれません。

なかなか集中できない。
そんな中、やっと受験勉強に本腰を入れたばかりでした。

Q. どんな出来事(体験)でしたか?

耳を覆うような言葉を浴びせられていました。
言葉のリンチでした。集団リンチ・・・。

そこにいたのは誰だか覚えていない。
同じ顔をした人たちばかり
誰がそこにいるの・・・
わからない・・・。

なぜ?あなたがここにいるのかわからない。

耐え切れず、途中で逃げ出して・・・
下町を流れる汚れた川まで来て
逃げ続けても
それらの言葉は追いかけてくる。

橋に夕陽が落ちていく。
こんな川では死ねやしない・・・。

実は、当時のことをあまり覚えていないのです。
ただ、胸が苦しかった。

墜ちた夕陽のディテールだけが、今も目の裏に貼り付いています。

 Q. それが起きた原因やきっかけは何ですか?

頭が切れるリーダーとも見えるが、私にはガキ大将にしか見えない。
そんなクラスでも目立っていた男子がいました。
いいことも悪いことも周りの数人を巻き込んでやっていました。

硬派を自認する受験校で3年生ともなると
上位大学を狙う連中は
もう彼のようなふるまいはしていないというのに・・・
巻き込まれて、よくバカをやったものでした。

女子数人から理不尽な集団つるし上げにあったとき
仲裁に入ったのが彼でした。

頭をよぎることがありましたが・・・
そんな状況でもいい子でいたかった。

傲慢な女と思われたくなかった。

そして
誰よりもそのことに彼が気が付いていなかったことが
ますます事を複雑にして行った。

誰かが際立つために、誰かがはみ出される。
出る杭は打たれる。

主犯はクラスの人気者だった女子
彼女の心に巣喰っているものの正体が見える。

何故か、人の心が見える。
他の人には見えない顔が見えてしまう。

そういう自分を嫌悪してしまう。
鈍感で集団心理の罠に気が付かない。
そんな私が起こしたことかもしれません。

Q. どんな障害がありましたか?どう感じていましたか?

すべては自分の奢りから始まったんだという思い込み
私は誰からも愛される存在ではない
自己否定が始まる。

何故、あの人があの中に、あちら側にいるの?
心の友なんていない。
人はみな孤独なんだ・・・。

そのことがトラウマになって
人に対して臆病になった。

怒りを鎮めようとすると哀しみになって
自己否定と自己不全感のループに陥っていきました。

Q.障害をクリアしたエピソードは何ですか?どんな助けがありましたか?

そんなときも地獄に仏はいたのです。

自己不全感から死を考えてしまう。
孤独感と死の誘惑から逃れるためにひたすら勉強をしました。

そんな出来事はなかったことにして
なにもなかったように振舞いました。

私、傷ついていませんから!

なにくそと思って勉強していました。
受験勉強を辛いと思うことは全くなくなりました。
むしろ、そこに没頭することが楽しかった。

クラスで孤立した私の傍にいたのはいつも彼でした。
そのことが迷惑でした。
それでますます事は悪化したのですから。

彼の成績はどんな時も上位でした。

どちらかというと劣等生の私が
死に物狂いで勉強し始めて
一部の教科は追いついていました。

きっかけは忘れたけれど
試験の点で負けたらデートするという賭けをさせられます。

全教科では全く歯が立たない。
得意な日本史と国語で賭けをすることになります。

結果は学年順位で日本史10位、国語が2位!
勝った!
と思ったら・・・

彼は5位、1位だった。
なんと、これまでで一番勉強したらしい。

結果、なけなしのお小遣いをはたいて
観たくもない映画を観ることになりました。

文学に早熟だった彼からは大きな影響を受けました。
受験勉強の合間に文学論を真似事のようにたたかわせました。

またまた周りから冷ややかに見られていたことでしょうが
そこは二人の世界でした。

大学は国文学を目指していたので
おかげで合格したようなものでした。

本人は解っていないけれど・・・。

そして、志望した道を歩むことができました。
結果はオーライでした。

 Q.周りにどんな影響を及ぼしましたか?

何もないような顔をしてやり過ごした。
やるべきことに集中する姿を見て、謝罪をしてくれた人もいた。

卒業するころ、
私の心の中以外はなにもなかったかのようになっていました。
本当は
もっと向き合った方が、お互いの為だったと・・・
今は理解しています。

Q. そこからのギフト(学んだこと)は何ですか?

そこからのギフトは、思春期にあって心の痛みとの付き合い方を知ったことでした。
メンタルは少し強くなったかもしれません!

Q. そのことを思い出すとどんな気持ちになりますか?

ずいぶん長い間、思い出せない、思い出したくない状態でした。
ずっと人生最大の汚点だと思って蓋をしていました。

そのせいで、手を差し伸べてくれた人さえ
いなかったことにしてしまいました。

ただ、ただ、ごめんなさい。

やっと謝ることができました。

別々の大学に進学して目の前にいなくなると
何もかもないことにしたくて
彼の存在もなかったことにしました。

今から思えば最大のギフトだったのに
気が付くのは数十年後でした。

人の心理を学んだ今は
自分も傷ついていたけれど
クラスメートたちも傷ついていたことに気が付きます。

そして、大切な人だった人も傷付けたことに愕然とします。

気付くのに膨大な時間がかかりました。

今は謝罪すらできない。
遠いところに行ってしまいました。

Q. 今の自分とどうつながっていますか?

そこにある心の痛みをないことにすると
違うところに出てしまうということを体感したことが

のちにカウンセラーとしての大きな資産となりました。

Q.誰にどんな感謝がありますか?どんな意味があると思いますか?

 あの頃は自分のプライドが一番大切だったのだろうと今は思います。
守りたかったのはプライド!だったって今さら気付く。
そして、甘えたかったんだなって思う。

今は亡き旧い友が
何が大切なのかを教えてくれる。
この世での愛の学校で
もっと学べと教えてくれています。

ありがとうね~。

あ~!やっと、一つ罪悪感から解放されています。
もう少し、後始末してから、そちらに行きますね。
そのとき、謝らせてね。
そして赦してね。

最近はよく本を読んでいるよ!
そうだ!最近の文学の話をしてあげるね・・・。

 

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お寺での学びから

永遠のゼロ

エンディングロール

生き残ってくれてありがとう

ありがとう

涙がとどまることなく溢れて

 
もしや私も…

祖父の罪悪感を引き取った女性の半生

 
職業軍人

全艦隊玉砕…

満州


限りなくブラックに近いグレー


靖国神社

ごめんなさい。

その夜半から

東京で体調をくずす。

1か月続いた原因不明の下痢に苦しむ。

 
浄山での学び

ファミリーコンストレーション


何故

私は地中に蹲って

果てしない孤独感に苛まされるのか?

 
父がないことにした罪悪感

それを長女の私が引き取っている

 
今さらに出てくる

思いがけなく

南京に進軍していた事実

嫌な感覚が立ち上がる

 

真実はどこにあるのだろう。

 
私は

ここに生まれてきていいの?

他の人のところで生まれるはずだったのでは?


ということは…

娘にも

孫にもそれがあるということなら

私で終わらせたい。

 

父への反抗

何がか私を止める

絶縁の地を選んで稼す

 

 縁が絶える。

 
それでもいい

そういうこと。

 
でも

すでに血を分けた命は繋がっている。

 
命・家・血・魂

 
家じまい

墓じまい

エンディング


魂が移る

 

魂が繋がった時

形は滅びる

自分史を書く・・・映画「風とともに去りぬ」マイラブストリー

幸せを次世代に送る 

自分史活用アドバイザーの藤原優子です。

 

 

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すさまじいばかりの光を放って

凍てついた月があたりを睥睨しています。

 

この頃が一番寒さも厳しさを増す

暦の矛盾を最も感じる時季ですね。

 

私のシューカツ(集大成活動)の一つは
セカンドライフの生き方を考える活動です。

 

昨年末に自分史活用アドバイザーを取って

そのための引き出しを増やしました。

 

まだまだ学ぶことはたくさんあります。

実践もこれから・・・

 

まずは

ありきたりの自分史のマイラブストーリーですが・・・

書いてみました。


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書店では、「20世紀のシネマ館」という雑誌のデモンストレーションで

CDの音楽がBGMとして流されていました。


風と共に去りぬ」のタラのテーマが

立ち読みタイムに流れてきます。

「タラララララララララララララ~♪」

高校時代に先輩から誘われて出かけた思い出の映画が蘇ります。
 
美術部の文化祭での出し物の似顔絵コーナーで

自信たっぷりでちょっと軟派な男子学生を相手に

似顔絵を描きました。

 

普通は描くほうが被写体を見詰めるものだけど

まるで反対で、描いている間中

あんまりじーっと見詰められるものですから

すっかりのぼせあがってしまい

元々苦手な人物画がますます似ていない。

焦って描けば余計似ていない!

恥ずかしくて逃げ出してしまったことがありました。
 

今思えば純情可憐な高校生だったこと・・・。
 
その後も、出逢う度に

「あの似顔絵は似てへんなー!」とからかってきます。

 

聞けば、1年先輩のラグビー部のキャプテン

女子人気抜群とかで・・・。


いつも自信たっぷりに

親しげに話し掛けられ

正面からじっと見詰めてきます。

あんまりドキドキするので

姿を見ると逃げ出すようになってしまいました。


 
それでも、そのうちに

市立の図書館に出かけ

一緒に勉強するようになっていました。

 

相変わらずじーっと見詰められて

タジタジするばっかりの私でした。
先輩は明らかにそれを面白がっていました。
 
君がスケッチをしている横で

僕は昼寝をするんだ 

それが僕の夢

という詩の手紙。(何故か覚えている!)


今度の日曜に奈良に行こうと誘われたとき

親に話したら

「男と二人っきりで出かけるなんてのは不良娘だ」

と言われて

「親がうるさいので行けません」と

行きたいと思いながらも断わってしまった。

 

何故話したのでしょうね?

箱入り娘だったのです。(笑)
 
きっと嫌われたと思ったことでしょう。

その後は誘われなくなりました。

 

そのうち、先輩は受験の真只中に・・・。


逢えないか、逢えないかと思うほど

同じ学校の中でも逢えないものです。


ある日のばったり出会ったときの

まっすぐに届けられた眼差しを

時が経っても鮮やかに覚えているものです。


忘れていたその眼差しが

ある映画を観たことで

突然蘇ってきたというのが正確です。

で、「風と共に去りぬ」がどうしてん?ですが

 

そんな日々にあって

映画に行こうと誘われました。

そりゃ嬉しかったです。

もう、親には言いません。

逢って、すぐに映画に行きました。

相変わらず、話もできず、目も合わせず、

想いが募った分だけ余計ドキドキしていました。


風と共に去りぬ」は大作中の大作でした。

あの頃の高校生ですから

二人ともその内容にすっかり圧倒されてしまって

終ったあとも互いに感動しすぎて無言でした。


そしてなんと

そのまま「さよなら」って

分かれて帰ってきてしまったのです。

今ならその内容をいつまでも語り合ったでしょう・・・

その後は、先輩は受験勉強。

邪魔してはいけないと連絡することはありませんでした。

映画「ラブストリー」が初恋の純粋な感情を思い起こさせたのです。

お恥ずかしい!

最期まで書くしかないのですが・・・。

実はさほど何もなくって・・・。

その後、先輩は受験に失敗。

浪人生活に突入します。

ますます、勉強の邪魔になるからと思うし

結構身辺も慌しいこともあって

こちらからは連絡することはありませんでした。
 
時々架かってくる電話で

お互い受験生同士の会話をするだけでした。

「いつも僕からばかりだね、

だけど、どれだけ励みになっているかしれない。」

といった直球が飛んでくると

いつもかわしてしまう私でした。

電話の架かってくることもなくなった頃

私学の合格発表が大阪新聞紙上に掲載されました。

 

忘れもしません。

そこには、先輩の名前があり

その下に私の名前がありました。

並んで載っていたのです。

 

二人のために世界はあると確信しました。
 
初めて、勇気を振り絞って先輩に電話を架けました。

「見たよ!おめでとう!

初めて電話をくれたね、ありがとう!」


先輩の本命はこれからの国立二期校だということでした。

がんばって欲しい

けれど落ちたら

また一緒に学生生活ができると思うと複雑でした。

先輩は四国の国立大学に合格し

二人の文通が始まりました。

 

映画の二人のように

ラブレターが瀬戸内海を何通も渡りました。

たくさんの詩をもらいました。

みかん箱に一杯もありました。

 

桂浜でほほ笑む写真が同封されていて

いつ高知に遊びに来るのかという手紙・・・

お互いに大学生になった私たちは

それぞれに違った空間を生き出していました。

 

少しづつ手紙が疎遠になり

二回生の夏

帰省している先輩に

お互いの友人と歩いているところをばったりと会いました。

「あれ、こんにちは!帰っていたのですね」

「うん」

それが最後になりました。

 

私の身辺はその頃も相変わらず慌しく賑やかだったので

余り気にはならなりませんでした。

お別れが決定したのは初冬でした。

美術部のOBの集まりがあり

後輩からいきなり謝られました。

先輩と付き合っていると・・・。

 

彼女は、すでに社会人で

毎月四国に通っているんだと・・・。

それで手紙が来なくなったんだと・・・。

先輩の中では終っていたのですね。

 

桂浜での写真は笑っているけど

遠い人になっていたんだと・・・。

朝まで泣いて泣いて・・。

 

私の中ではなかなか終らなかった。

失恋した時にはじめて

本当の恋愛が始まるものだと知りました。

その喪失感に翻弄される日々でした。

もう、心から笑える日は来ないとさえ思いました。

あんなに切ない想いが怖くて

二度目の恋はなかなかできませんでした。

何度目かの恋は、今から思えば不純でした。

この人なら気を使わないで気楽に暮らせるだろう。

絶対に裏切らないだろう。

打算がありました。

その仕返しは充分に食らっているようです。

そんなに人生は思い通りには行かないものです。

真実の愛は、人生においてたった一度だけ。

運命の人は一人だけ。

映画「ラブストリー」は語ります。


私は、真実の愛に、運命の人に逢えたのでしょうか。

まだ、逢っていないのでしょうか?
何を馬鹿なことを・・・。

後日談ですが

弟が、奇しくも

母校の教師となった先輩の教え子になっていることが発覚。

 

弟が告知すると、驚いたことでしょうね。

 

「可愛い人だった!僕は夢中だったけど、

彼女はそれほどには思っていなかった」とのこと

 

あーあ、つくづく世の中は思うようにはならない・・・。

家族の思い出からたどる父の物語・・・「時代の波に流されないうちに」

父が亡くなったのは
平成元年の3月

来年は33回忌です。

お葬式は4月1日
消費税導入の日でした。

葬儀社さんに「消費税かかりますよね」とお聞きすると
「3月の契約なのでかかりませんよ」とのことでした。

悲しみの中でも
冷静な私がいました。

そして今
令和元年

何かと平成の始まりが報道で流されます。

ついつい
あの当時を思い出しています。


今、私は
父さんの未知のゾーン令和にいます。
令和がどんな時代になるのかこの目で見てからいきます。

そして
父さんのやりたかったことやるからね・・・。

そのひとつが
あの戦争から帰って
マラリアの後遺症を抱えながら
生き切ってくれた生きた父の物語

生きた家族の歴史

孫たちへの命のバトン
家族の物語を残しておくことです。


そろそろ始めようと思います。

まずは軍歴証明をあげること。

あげようと思いながらできていない。
できないわけではないのに
何かに阻まれています。
どういう抵抗が働いているのだろう・・・

そろそろやらねば

時代の波が大きく流してしまわないうちに!

5月のタスクにいれておきましょう。

ここにも

どんどん書いていきますね。

最後まで読んでくださってありがとうございます。

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父の最期は

 

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平成の元年3月28日に父は亡くなりました。
68歳でした。
私は父の生きた時間を超えてしまいました。

父は60歳を目前にして、職場で心筋梗塞で倒れ
一命は取り留めても心臓の半分は壊死した状態。

その後、今度発作を起したら命の保証はないと言われて
数回発作を起し、入退院を繰り返しながらも
その後8年生き長らえました。

永年、営んだ会社を不本意だったろうが
どこにも迷惑を掛けない形で自主廃業。 

それが亡くなる前年の8月。 

2月に申告を終わらせてすべて完了。
それを待って、旅立っていきました。

その8年は、それまでの商売一辺倒から
趣味や地域の奉仕にと
十分に楽しんで生きたようでした。

自主廃業と共に財産を失い、家も失った。

残ったのは障害年金と軍人恩給。

幸いにも、その額は、高齢者夫婦が
新築の市営のマンションに住み
家賃を払っても十分に余裕のあるものだったのです。

趣味の教室を開いて生徒を集め
謡い、三味線、太鼓や鼓を叩いていました。

弟子の中には新進落語家がお囃子を習いに来ていたり
賑やか!

住居の新しい市営のマンションでは
障害者ということで1階の管理人室が当り
手当てもいただいていました。

毎日、若い奥さんたちがやってきて
自治会の発足のための会議を開き、規約をつくり
それをワープロで打ちたいからと
パソコンも習いに行っていたのです。

初代の自治会長の予定でした。

充実した68歳だったと思います。

それぐらい楽しくやっていたら
免疫力も高まる。

医師からは、その症状の回復の程度により
障害年金が不支給になるから診断書には重い目に
書いておきましょう」
とまで言われたそうです。

その矢先でした。

自宅に帰ってくる途上、ほんの100m手前で
あっけなく逝ってしまいました。

人生ってわからない。 

母の孤独でつらい最後を看取った時からは
いい死に方だったかもしれないと
思うようになったけれど…

その当時は
いきなり逝ってしまったことを恨んだものです。

お彼岸に
奈良のお墓にお参りしてきました。

お彼岸の花が、次々と供えられて
花生けからはみ出していました。

お父さんはどうだったんだろう?
どう生きたかったんだろう…
その後はどうなりたかったんだろう…

千の風になって / 千の風になって
あの大きな空を / 吹きわたっていきます 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

今、書かねばと強く思います。

昨年の12月
悲しい訪問でした。

2月の福井の豪雪で88歳の叔母が命を落としました。

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生者必滅、会者定離

この世に生を受けたものは必ず死に、

出会ったものには必ず別れがくる。

去って行った人の心を引き継ぎ

次代に引き継いでいくことが大事。

雪が着く前に
3ヶ月も早くに一周忌の法事が営なまわれました。

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商売人の繁忙の家に育ちました。

あの頃はみんながそんなものでした。 

夏休みになると

福井の母の実家に私たち三人は預けられました。
長女の私は子どもながらにも気を使うことが多くて
本当は家にいたいと思っても
それは言えませんでした。

叔父も叔母も優しい人たちだったことが救いでした。
おばちゃんは二人目の優しい母のような存在で
おばちゃんにとっても私は「うちの娘なんにゃ〜」と・・・

そして、ファミリーヒストリーを語る
最後の証人だったのです。

間に合いませんでした…。

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ファミリーヒストリーは書けなくなりました。
ファミリーストーリー(お話し)しか書けません。

それでよしとするしかありません。

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誰かが聞いていたことを書き綴っておこう。
それが事実かどうかは分からなくても・・・

それでも
記憶だけではなく
現場に立って、本人の感情に浸ってみるのは
書くモチベーションになります。

その意味では
今回は大切なチャンスでした。

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自身のルーツ
一族からの言い伝えや
親たちから聞いていた祖先の話
そして戸籍謄本が教えてくれる大切なこと・・・。

今、たどらないとどんどんリセットされてしまう。

何も、次世代には伝わらない・・・。

それでいいのだろうか・・・と深く考えました。

 

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父が戦争で悲惨な状況から生還してくれたからこそ
私がこうして生まれ
娘が生まれて
孫っ子は小学一年生

孫っ子に
大切な人たちを自らの死をもって守ろうとした人がいたから
そして、生き残ってくれた人がいたから
あなたは生まれることができた・・・

そのことを伝えないと・・・。

ファミリーストーリー
伝えることができる人が伝えなければ・・・。

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だから、父の生家があるうちに
行ってこなければと思っていました。

そうして
目にしたものは・・・

行き過ぎても分からないはずでした。

ユンボがまだそこにはありました。
ユンボの爪痕はまだ真新しい。
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なんてことでしょう。
わずかに遅かったのです・・・

また、間に合いませんでした。

そこにはぽつんとお墓が遺されていました。

涙が溢れました。

誰かが私に乗り移って泣いている。
そんな感覚がありました。

枯れる前の花が供えられていました。

遅かったけれど
それでも、あの場に行けてよかった。
懐かしい人たちの面影を見ることができました。


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これはおばちゃんがくれたんやね・・・。
おばちゃんのおかげです。

ありがとうね。おばちゃん。

いつも働いてばかりだったけれど
もう、ゆっくりしていますよね。

過疎の郷・・・
逝きし世の面影
日本のいたるところで起きている風景です。

間に合わなかったことばかり・・・

だから
今、書かねばと強く思います。

書いて、そこに置いておく。
必要なときに
必要な人が受け取ってもらえるように。